理由
――えっと……ここはどこだっけ?
周りを見ると、受付っぽい場所。
あ、スイスの首都ベルンで泊まった宿の受付だ。
安っぽいし日当たりも眺めも悪い、でもまあ一晩泊まるには十分だった宿。
ベルン。
そこは街が丸ごと世界遺産に登録されてて、東西に走る大通りは路面電車が走り、一定間隔で並ぶ噴水と像がある。
街全体がおとぎの世界、中世ヨーロッパな感じで、でも高級ブティックとかも並んでた。街の全景とスイスアルプスが見渡せる大聖堂の尖塔が素晴らしかった。
僕が一番気に入ったのは、街の三方を大きくカーブして囲むアーレ川にかかる橋から見た風景。
川岸に並ぶ家、町並みから飛び出た二つの教会の尖塔、何より山から流れてきたばかりの美しい水。
「だーかーらー、俺の意見も聞いてくれたっていいだろ?」
いきなり父さんの声。
そうそう、ここに来たのは父さんの希望だったっけ。
ベルンの安宿で、うんざり顔な母さんと姉ちゃんに、どうしても行きたいって力説してた。
あの街で、あれを見たいって……えと、どこの、何だったろう?
僕らは電車でイタリアからスイスに入った。
登山鉄道で山を登ったり、湖にかかる木製の屋根付き橋がシンボルになってるルツェルンの街を見た後、あの街に行く途中でベルンにも寄ったんだっけ。
母さんと姉ちゃんは「アルプスも見たし、スイスは十分。早くフランス行きたい」て言ってたけど、父さんがどうしてもと言うんでベルンにも寄った。
理由は二つ。
ベルンがスイスの首都であること、もう一つは街の中心を東西に走る大通りにはアインシュタインの家があるから。
相対性理論は、この家で特許局に勤めながら発表したってガイドブックに書いてあったな。
で、父さんはSFが大好き。アインシュタインの家があるからスイスに来た、というくらいの勢いだった。僕も嫌いじゃない、つか好き。
だから母さんと姉ちゃんが大通りでブティックを見回ってる間、僕と父さんはアインシュタインの家に行ってた。
正直、見た感想は、「だから何?」だった。アインシュタインが凄いのは知ってる。けど、その住んだ家は関係ないし、て感じ。
父さんは感動してたけどね。
で、ベルンを見回った夜、次はどこに行くかで大騒ぎ。
早くフランスふらんす~、という母さん姉ちゃんに、父さんはどうしても見たいモノがある、と譲らなかった。
それは観光施設じゃないでしょ、外から建物だけ見てどうすんの、という当然な反論が帰ってくる。
僕は、どっちでもOK、という感じ。だって有名な街だし、それには興味もあったから。
あれ?
えと、なんて街だっけ……何の建物だろう?
なんだ、何かイヤな予感がする。
あの街に、あの建物に近寄っちゃいけない気がする。
絶対に近寄ったらいけないんだ。
でも何故だろう、どこだったろう、どうして近寄ったらいけないんだ……。
目を開けると、そこはベルンの安宿じゃなかった。
既にテントの布も見慣れてしまった。
夢、やっぱり夢。
途中からそんな気はしてた。薄々は分かってたけど、やっぱり夢だった。
ここはインターラーケン。
スイスの小さな町であるインターラーケンじゃなくて、魔界のインターラーケン領。パラレルワールドに飛ばされて、帰れないまま四日目。
相変わらず現実の方が現実離れしてる。
横を見れば、既に姉の布団はカラ。もう起き出したのか。
部屋を分けてくれ、と頼むつもりだったけど、疲れてたので結局そのまま寝てしまった。
今日こそは頼むとしよう。
体を起こしつつ、さっきまで見ていた夢を思い出す。
近寄るなと言ってた街は、そう、ジュネーブだ。
ジュネーブなんか立ち寄らず、さっさとフランスに行けばよかった。
反対側を見れば、相変わらず茶ネコさんが丸くなってた。ピコピコな耳だけこっちを向いてる。
うーん、ツヤツヤでフカフカの毛並み。
撫でてみたいけど、怒られそうだからやめとこう。
僕もそろそろ身だしなみを気にしたい。この数日は歯すら磨けてないよ。
ネコさんにお早うの挨拶をして、荷物が置かれた一角へ歩く。
朝だーっ!
なんて叫びたくなるくらい爽やかな朝。
山向こうから上がりつつある朝日が徐々に眩しくなってくる。
今朝のイヤな夢なんかどこへやら。いや~、この世界に来てまだ四日目だけど、こんな気持ちの良い目覚めは久々だ。
旅行を始めてから、すっかり早寝早起きがみについてしまってる。
親がいるので夜中は騒げないし、朝から色んな観光地を巡る予定がギッチリ詰まってるし、あちこち歩き回ってヘトヘトになって夜にはバタンキューだから。
もちろん間に休憩の日とか挟む。母さんが「もう限界……」といって動けない時も多い。
けど、僕と姉ちゃんは休む間を惜しんで観光とグルメを(高いのは無理なのでファストフードや屋台がほとんどだけど)続けてた。
さすがに夜は犯罪が恐いし、僕も姉ちゃんも酒を飲まないので出歩く理由も無かったし。
監視役のネコさんは、もうイチイチ僕達の側にひっついたりしない。今も遠くであくびしている。
周りを見ると、既に街の人達も働き始めてる。
煙突からは煙が上がり、道ばたでは鶏の羽をむしってるオークや魚の頭を切り落としてるイヌ頭さん達。
東の方から桶を荷車に載せて来るトカゲさん達。桶からはタップンタップンと水が跳ねて道に落ちる。
パシャっと水滴を飛ばして桶から跳ね上がったのは、魚だ。
と思ったら、目にも止まらない速さでトカゲさんの一人が魚を空中キャッチ。そのままムシャムシャと食べてしまった。
こんな早朝から湖で漁をしてたんだ。
そして、僕も休んでいる暇はない、そんな場合じゃない。
うーん気合いが入る。
思わず腕を振り回して柔軟体操。
おいっちに、さんし……なんてガラにもなく体を動かしてみる。
「……ん?」
何か違和感を感じる。
軽くピョンピョンとジャンプしてみれば、確かに違う。
体が軽い。
といっても、マンガみたいに空を飛べるわけじゃない。華麗に宙返りなんて出来るワケじゃない。でも確かに軽い。
一瞬、「!?」と思ったけど、理由はすぐに分かった。
春からのバイト三昧に加えて、この夏はイタリアとスイスを歩き回ったから。受験勉強でなまってたるんだ体が絞り上げられたんだ。
幽霊部員だった中学生の時とは見違えるようかも。
ちょっと右腕に力を込めて力こぶを作ってみる……お、ちょっと盛り上がったぞ。
「ま、こんな微妙な程度の力じゃ、この世界では役に立たないんだけどな……」
「ユータぁっ!!」
いきなり横から姉ちゃんの大声。
何かと思えば、歯磨きしてる最中だったらしい姉が、歯ブラシを手にしたまま走ってくる。
また何かあったのかな?
「おはよー、姉ちゃん。
どしたの、そんな慌てて。またなんかあったの?」
「お、お、思い出したの……思い出したのよぉ!」
「思い出したって、何を?」
「何を、も、何もないわ!
あんた、あたし達が、なんでジュネーブに来てたか、忘れたの!?」
「へ?」
なぜジュネーブに来てたか?
思い出してみると……そりゃ、観光だろう。
父さんが、どうしても来たいって譲らなかったからだ。
レマン湖のほとりにあるジュネーブは赤十字本部とか、旧市街のサン・ピエール大聖堂とかある……イタリアでさんざん聖堂と教会を見回ったせいで、もう見飽きたけど。
それよりは湖の岸辺に並ぶシャレた別荘やレストランを見回る遊覧ボートの方が美しくて印象深かった。
でも、観光地としてなら他の街の方が上と思う。
「観光だけど、たいしたのは無かったね。
結局、一日で見終わっちゃって、あと一つ見てからそのままフランスへ行こうとしてたよね」
「そ、それよ! それは、一体、なんだったかよっ!」
「ああ、それか。
それは父さんが『遠目からでもいいから、是非見たい』っていってたヤツだね。
僕としては外から施設を見るだけじゃ意味無いから素通りしようと……母さんと、姉ちゃんは、あ、ああ、興味が……無いって……」
「そう! それよっ!
それの名前は、一体、なにっ!?
あれは一体何だったのか、まさか、あんたが忘れたわけじゃないでしょうね!?」
「あれの名前は、施設は……いや、まさか、そんな……そんなコトがあるわけ……」
ようやく呼吸を整えた姉ちゃんは、ゆっくりと落ち着いて話を続ける。
でも、僕の方が落ち着かない。
姉ちゃんの途切れ途切れな呼吸と汗が、まるでこっちに移ってきたかのよう。
手の中にイヤな汗をかいてしまう。
そう、僕は知っている。
僕ら家族は、なぜ観光を終えたはずのスイスに、ジュネーブにまだ居たのか。
どうしてあの場所を歩いていたのか。
あの田園に囲まれた場所、スマートフォンで確かめた座標。
北緯46度14分、東経6度3分。
あそこには何があったのか。
何の施設が、いや、研究機関があったか。
でも、そんなはずがない。
そんなことが、起こりうるはずがない。
その研究機関に関する記事は父さんが集めてたし、僕も興味はあったので、ちょっとチェックしてた。
だから、そんなことが起こらないという理由も知っている。
いや、違う。
今朝の夢を思い出してみれば、自分でもその可能性を考えていたのだと分かる。
でも、まさか、そんな!?
「……そうよ、SFには興味ないけど、あたしも知ってる。
その手の時事ネタは大学受験でも出るから、新聞は必ずチェックしてたの。
だから、あそこに何があったのか、何の研究をしていたのか、そしてそれが起こるはずがないというコトも、知ってるわ」
そうだ、起こるはずがないんだ。
だって、その時のエネルギーは二匹の蚊が正面からぶつかった程度でしかない。
そんなものは歴史上、宇宙線が地球に何十万回と降り注いだ時にも起きているんだから、それ自体は危険性がない。
そういう報道だった。
「でも、そんなはずが……そんな、ことが……?」
「じゃあ、なんであたし達はここにいるの?
あんた、あの黒い穴は何だって言ったっけ?」
「そ、それは、ワームホール、だけど……。
だけど、だけど! そんなコトが起こるはずがないよ!
CERNのLHCが暴走しただなんて!
最新型加速器が、ブラックホールを生み出しただなんてっ!
それが僕らを飲み込んだだなんてっ!?」
叫んだ。
必死に叫んだけど、否定したけど、考えられないけど。
事実、僕らはここにいる。パラレルワールドにいる。
なら、起きてしまったんだ。
――CERN、そしてLHC。
CERNとは、欧州原子核研究機構のこと。
本機構の開設準備のために設けられた組織のフランス語名称がConseil Européen pour la Recherche Nucléaire で、頭文字をとってCERN。
それはそのまま世界最大規模の素粒子物理学研究所の名称でもある。
スイスのジュネーヴ西方、スイス・フランスの国境をまたぐ地域に、2つの研究地区といくつかの実験施設がある。
地下には円形加速器「LHC」が、両国の国境を横断して設置されている。
そして僕らが問題にしているのは、そのLHC。大型ハドロン衝突型加速器 (Large Hadron Collider)だ。
これにより陽子ビームを加速し、正面衝突させることによって、これまでにない高エネルギーでの素粒子反応を起こす。
この実験で新素粒子が発見され、物理学と量子力学がさらに進歩すると言われてる。
ただ、この実験には極めて大きな危険がある、と言われてる。
それは、ブラックホール。
計算によればLHCが最高出力で動くと、極小ながらもブラックホールが生成される可能性があるというのだ。
もしそれが成長すれば、そのまま巨大化して地球を飲み込むという……。
けど、それは起きない。
起きるはずがないんだ。
なぜなら、その実験で発生する程度の現象は、過去に地球上で何十万回も生じていることだから。
これでブラックホールが発生するとか地球が飲み込まれるというなら、とっくの昔に地球は消えている。
しかもそれは最高出力で動いたときの話。おまけに発生するというブラックホールは極小で、すぐに崩壊して消えてしまう――。
――PCの画面には、以上の記事が幾つも開けられている。
それは姉ちゃんが受験勉強のために集めていた記事であり、父さんが趣味で残しておいたデータだ。
ネット新聞記事、Wikiの記述、雑誌をスキャナーで取り込んだもの、etc。
父さんだって学者じゃない。だから学者の論文とかじゃなくて、一般の人向けな記事やページばかりだ。
だけど、はっきりいって、かなり難しい。僕には断片的にしか分からない。
でも、その断片的な話だけで十分だ。
皮肉なことに、十分すぎる。
まだ集まる人も少ないテントの中、アンクの横にあるPCを震える手で動かした僕らは、食い入るように画面を見つめ続ける。
姉ちゃんの声は、震えてる。
「地下に設置されたLHCは、円周が27kmもあるって……まさか、あたし達は、LHCの真上にいたとかいうんじゃ……?
でも、まさか、そんなことがあるはず……あるはずないわ!」
「……そうだよ、そんなことがあるはずないんだ。
第一、ここで言われてるのはブラックホール、重力の落とし穴だよ。飲み込まれたら助からない。
それが、なんで別の宇宙につながっちゃうんだ!?」
「知らないわよっ!
あんたの専門じゃないの!?
どうしてこんなことになるの……なんだってこんなことになったのよ!?」
「知らない、知らないってば!
どうなってんだ、どうしてこんなことに……!?」
爽やかな気分なんか、どこかに吹き飛んだ。
信じられない、まさかこんなことが起きてしまっただなんて。
ブラックホールの重力で潰されるどころか、パラレルワールドに飛ばされるなんて。
しかも、もしこの考えが正しいなら、事態は最悪だ。
僕らがこの世界に来たのは、ここの人達のせいじゃない、ということになる。
なら、この世界に人達には、どこからどうやって僕らがここに来たのか分からない。
どうやったら僕らを元の世界に戻せるのかも分からないんだ。
つまり、帰れない。
次回、第三章第五話
『帰れない』
2011年3月18日01:00投稿予定