慟哭
ガギュンッ!
皇国にとって目出度き祝いの最中、国家的慶事に感涙の涙を流し祝杯を挙げる喧噪の中、その音に気付いた者はいなかった。
裕太が入れられたガラスケースの中に、青黒い霧が漂い始めていることも。
それは、極めて微量ではあったが、魔力。
肉体から漏れだした魔力が実体化したものだ。
バンッ!
今度ははっきりと艦橋内に響く音。
酒を浴びるほど飲み、料理にかぶりついていた兵士達も、その音のした方向を見る。
それは裕太が入れられたガラスケース兼移動式ベッドの方向。
ガラスを裕太の右拳が殴りつけた音。
右手首を縛っていたはずのベルトが外れていた。
いや、引きちぎられている。
人間では、たとえ最大限に『肉体強化』の魔法を使ったとしても外れるはずの無い拘束具。そうでなくては拘束具の意味がない。
その拘束具たるベルトが、引きちぎられていた。
バンッ! バンッ! ババババンッ!
自由になった右腕がガラスを叩く。
極めて頑丈なガラスは割れず、逆に拳から血が流れている。
それでもガラスを殴り続けていた。
白衣を着た男の一人がガラスケースに慌てて近寄り、中の状況を確かめる。
その瞬間、蒼白になり絶叫した。
「暴走しています!」
「な、何いっ!?」
慌ててベッドに駆け寄る局長。
その目には、確かに暴走する魔力の霧が映っていた。
ガラスケースの中に漂う、一切の制御を離れた純粋な魔力が。
途端に局長の顔も青ざめる。
「いかん!
貴重な研究材料が!
暴走を止めろ、眠らせるんだ!」
「はい!」
すぐに局長の部下達が駆け寄り、裕太を眠らせようと両手で印を結び術式を組み上げる。
相当の手練れだったらしく、一瞬で強力な『眠り』の魔法が発動した。
例え巨大な獣でもエルフの大魔導師でも抗えないような。
だが、無駄。
「……ダメです! 効きません!
魔法が通じません!」
彼の抗魔結界は『眠り』の魔法を消し去っていた。
その間に、今度は左足の拘束具が弾け飛んだ。
彼の体から漏れだした魔力が拘束具を急速に削り、化学変化を起こし、劣化させていたのだ。
局長自らがガラスケースに駆け寄り、宝玉が取り付けられた機械を操作する。
「魔力が通らないくせに暴走って、どれだけふざけた存在なんですか!?
ええい、これで眠りなさい!」
機械からガラスケース内部に白い煙が吹き出す。
それはどうやら睡眠ガスのようだ。
だが、ガスも彼には届かなかった。
刻々と濃度を増す魔力の霧が、ガスも変質させてしまったから。
既に魔力の霧はガラス全体を青黒く染め上げてしまっている。
予想外の事態に気付いた参謀長も、急いでガラスケースへ駆け寄ってきた。
「局長!
これは一体、どういうことだ!?」
「いや、どうもこうも……見ての通りの暴走です」
「な……暴走だと!?
魔法を消し去る体で、魔力なんかほとんど持っていないくせにか!?」
「は、はい。全く魔力が無いわけでもありませんから。
どうやら、抗魔結界とか消魔力とでも申しましょうか、その力でも消しきれなかった魔力が漏れてしまっているのです」
「落ち着いている場合か! 止められないのか!?
貴重な素材だぞ!」
「それが、出来ないのです。
魔法が通じないうえに、暴走した魔力でガスも通じず。
頭を殴って気絶させようにもガラスが邪魔で」
「ガラスを外せ……ないか。もう危険だ」
「はい……残念ですが。
最早、手遅れです。自分の魔力で肉体が崩壊するのを待つしかありません」
「そうか、くそ……残念だ。
魔法を消す体質で魔力量も微量だから、と思ったのだが、まさかそれでも暴走が起きるとは。
やりすぎたぞ」
手の施しようが無くなった二人は、他の部下達も、ガラスケースから離れる。
暴走が起きた場合、周囲の者が止められなければ、自らの魔力で暴走した本人が死ぬのを待つしかない。
今の状況で下手にガラスを割るような手を出すと、暴走した魔力が艦橋に溢れることになる。
突然の事態に飲めや歌えやの大騒ぎをしていた兵士達も、遠巻きにガラスケースを囲んで固唾を飲んで見守る。
幾人かはガラスが破れたときのため結界を張る準備を進めている。
いつしかガラスを殴る音は数を減らし、力を弱めていく。
そして音は、消えた。
暴走した魔力は減らない。
ガラスケースの中に充満したまま変化しない。
内側からガラスを叩く音は止んでいるので、中の者は死んでいるはず……そう彼らは考えていた。
だが暴走した者が消えたなら、暴走した魔力の発生も停止するはず。急速に霧散したりして消えるはず。
だが、いつまで経ってもガラスケースは青黒いまま。
充満した魔力は何にも変化せず、ガラスに穴を開けて漏れるということもなく、ただガラスの中に留まっている。
「どうなった……?」
皆の疑問を代表するかのように呟いたのはリナルド皇太子。
右手にワイングラスを持ったまま、人垣の後ろからガラスケースを眺めている。
兵士の一人が銃を手に、ゆっくりとガラスケースへと近寄る。
銃口を付きだし、ガラスケースをコツン……と軽くつついてみた。
シュカッ。
軽い音が帰ってきた。
音だけではなく、黒い、もやの様なものも帰ってきた。
ガラスから飛び出したもやは、兵士の硬い銃を切り裂いていた。
胴体と一緒に。
ずるり、と兵士の体が斜めにずれる。
血が、内臓が溢れ出し床にこぼれる。
上下で二つに切り裂かれ、そのまま血だまりのなかに倒れた。
シュカカカカカカッ!
軽い音が続けざまに生じた。
もやの様な黒いものがガラスの周囲を駆け巡る。
そして、綺麗に切り裂かれたガラス片となって床に散乱した。
青黒い霧は、蒸発も霧散もしない。
一塊となってベッドの上に留まったままだ。
もやのように見えたのは、青黒い霧の一部が伸びたもの。
今はもやのようなあやふやなものではなく、黒い触手のようにはっきりと見える。
「う、撃てえっ!」
誰かの叫びが上がる。
反射的に全兵士が銃を構え発砲。
光の筋が凄まじい光量となって集まり、青黒い塊を貫こうとする。
だが、出来なかった。
塊が一瞬で消えたから。
自走式のベッドと背後の壁だけが焼け焦げて穴だらけになる。
「ど、どこだ!?」「どこへ消えた……て、あそこだ!」「後ろにっ!」
兵士達が一斉に振り向く。
すると、その青黒い塊は料理が乗せられたワゴンの横にいた。
ボンヤリとしたそれは、皿の上に盛られたままのオークの頭に触手を伸ばす。
そして、こんがりときつね色に焼けた頭を、撫でた。
愛おしげに、悲しげに。
「こ、ここ、殺せ!」「なんなんだ、ありゃあ!?」
再び一斉放火が塊を襲う。
だがまたも塊は消えてしまった。
後に残されたワゴンと、オークの頭だけが光に貫かれる。
ついでに艦橋の壁や、幾つかの機械まで撃ち抜かれ破壊された。
「バカ野郎! ここは艦橋だぞ、発砲を禁じる!」「総員、抜刀!」「今度はどこへ行きやがった!?」「上だ、あそこだ!」
兵の一人が指さす先に、確かに青黒い塊があった。
先ほどよりはっきりとした、人型をとっている。そして青い光を放ち始める。
青く輝く人型は、ベウルの剥製の前に浮いていた。
敬礼する。
敬意と哀惜の念をもって。
「殺せ、早く殺すんだ!」「まさか、あれは……ガラスの中のヤツか!?」「あの人間もどきだってのか!?」「まさか、暴走したのに、体が崩れずに動き回ってるってえ!?」「どんな有り得ない存在だよ!」
兵達は精神を研ぎ澄まし、酔いを打ち払い、術式を組む。
ほぼ全員の筋肉が膨れあがり、顔に赤みが増し、体が一回り大きくなったかのように見える。
それは『肉体強化』の魔法。己の身体能力を魔力で強化する術。
その術により跳躍力も劇的に向上した兵達は剣を握って床を蹴り、宙に浮く魔力の塊へ襲いかかった。
暴走した魔力の塊に身を包む、裕太へ。
それは、一瞬。
魔力の霧をまとう彼は、無造作に右腕を上げただけのように見えた。
だが、剣を振りかざして跳躍した兵達の動きが、止まった。
空中で制止したかのように、しばし動かない。
動いた。
兵達が、というより兵達の剣の破片と、肉片と、血飛沫が。
空中に飛び上がった兵達は、切り刻まれた死体となって落ちていった。
艦橋の床を、壁を、コンソールを、兵達を、皇太子も参謀長も局長も、全てが血に染まる。
肉片と骨片と臓物が汚らしく服にこびりつく。
参謀長は、自分の右手を見た。
その右手の上に落ちてきた、まだ脈打つ心臓を。
「ひ……ひい、ひぎ……ぎゃあああああああああっっ!!」
女の悲鳴が艦橋に、艦内に響き渡る。
それは合図。
血の宴が始まる合図。
暴走しているはずの魔力の霧は、腕をかざすたびに意のままに刃と化す。
鞭の如く艦橋内を疾走し、触れる全てを切り裂いていく。
コンソールも、壁も、床も、窓までも瞬時にバラバラになった。
彼へ銃を向ければ、その瞬間に銃もろとも細切れとなる兵士達。
さらには窓を切り裂かれたため、気圧差で艦橋内の空気が一気に暴風となって流れ出す。
幾人かの兵士が突風に飲み込まれ、空へ放り出されてしまった。
「閣下! こちらです!」「参謀長、局長も! 早くっ!」
幾人かの兵士が上官と皇太子を下がらせようと呼ぶ。
その声は、同時に裕太の意識も呼んでしまった。
青黒い衣に包まれた頭部、その一部が解けて右目が覗く。
もはや人間のものとは思えないほどに血走って赤く染まった目が。
見開かれた赤い右目が、皇太子達の姿を直接に視界に収めた。
「ヤツを止めろ!」「閣下を守るんだ!」「隔壁を閉じろ!」「増援を呼べ、急げえ!」
まだ生きていた兵達が艦橋から逃げる皇太子達の背を守るため、人間の壁となって裕太の前に立ち塞がる。
既に半壊した艦橋の保護は諦め、全員が銃を構えている。
そして一斉に引き金を引いた。
光は、虹となった。
魔力の霧に当たった光線は七色の光に分解されて反射された。
どれだけ兵達が撃とうとも、魔力の衣を貫くことが出来ない。
ほどなくして、魔力式レーザー銃は、使用者の魔力を吸い尽くしてしまう。
カチ、カチ、という引き金を引く音が室内に響いた。
立ち塞がる兵士全員の魔力切れを待っていたかのように、彼は右腕を伸ばす。
「ひいぃああっ!」「た、助けて……」
兵達は、最後まで悲鳴を上げることも、命乞いすらできなかった。
ほんの一薙ぎしただけで、全兵士の肉体が、横一直線に真っ二つにされたから。
ぐちゃぐちゃと音を立てて崩れた兵士達の背後、皇太子達の姿は無かった。
出入り口の隔壁は分厚い扉で閉じられている。
動く者は既にいない艦橋。
パチパチと火花が飛び、火が各所を焼いている。
艦橋出入り口の隔壁は閉鎖され、空気の流出も止まっている。
窓があった空間には、今は何もない。
そう、何もない。
窓の向こうにも何もない。
彼の故郷も、家族も、何もない。
愛した人も。
ただ、大きな穴が開いているだけ。
大気が、震えた。
旗艦『インペロ』と、四方の四艦全てが振動する。
それが裕太の慟哭だということに、気付く者もいなかった。
次回、第二十四章第四話
『無限暴走』
2012年4月19日00:00投稿予定




