暗殺者
白刃が粉雪のごとく煌めく。
魔王の喉笛を掻き切らんと、ナイフが横薙ぎに振り抜かれる。
少女の小さな手に握られた刃物は、確かに魔王の首を捕らえた。
猿の如く宙に舞ったティーナは、切っ先で半円を描く。
散乱する光。
朝の日差しと新雪の照り返しで輝きを増した、金属片。
砕け散ったのはナイフの刃。
刃は、確かに魔王の喉笛を捕らえた。
だが皮を、肉を、動脈を切断することは出来なかった。
魔王の首筋には切り傷ではなく、一瞬前までは無かった黒いものがある。
それは布状の極薄な魔力製ボディスーツの一部。
ナイフは一瞬にして首周りに展開した魔力の衣を貫けず、逆に砕かれてしまったのだ。
「ニげろぉ!」
裕太は叫び、窓から飛び出す。
いきなりの事態に一瞬は呆気に取られた兵士達だが、すぐに正気に戻り各自の武器に手をかける。
魔王もティーナへ手を向け、袖口から黒い鞭のようなものを撃ち出す。
それはボディスーツや羽と同じ、魔力を実体化させた触手。
だが、ティーナの動きは誰よりも速かった。
明らかに少女の、いや人間のそれを上回る。
無表情なままに宙返り、瞬時にして魔王の触手から身をかわした。
宙を舞いつつも身を捻り、袖から一本のナイフを手中へ滑らせる。
ナイフが放たれたのは、着地と同時。
それは魔王ではなく、全く反対方向へ飛んだ。
教皇の首へ。
カキンッ!
ナイフは軌道を変えた。
事態が飲み込めず呆然としていた教皇の首には当たらず、その直前で弾かれた。
魔王の触手は教皇まで伸び、その命を守ったのだ。
「殺せっ!」
兵達の誰かが叫ぶ。
反応は早い。抜刀された剣の群が、瞬時に発動された肉体強化で倍加された筋力と瞬発力に乗り、一斉に殺到する。
のみならず魔王の体から撃ち出された触手の群も襲いかかる。
分厚い防寒服を黒い触手と白刃の林が貫き通した。
だが、防寒服は血に染まらなかった。
それは中身がない。一瞬で脱ぎ捨てられた防寒服の上着のみ。
重く動きにくい上着を目くらましに残し、ティーナは身を伏せ兵達の足を縫うように走り抜けていた。
地を這う地虫かフナムシの如く、有り得ない素早さと身軽さで兵達の下をすり抜けていく。
兵達も慌てて追いかけるが、あまりに一カ所に兵が殺到しすぎて動きが上手く取れない。
驚き跳ね避ける兵同士がぶつかり、剣や槍を振り下ろそうとして仲間に当たりそうになり、小回りの効くナイフに持ち替える隙に視界から消えている。
魔王の黒い触手も殺到しすぎた兵に邪魔されてティーナを捕らえられない。それどころか、力任せに兵士達を巻き込んで吹き飛ばしてしまう。
「み、みんな離れて! 僕は細かい手加減が出来ないから、巻き込まれるよ!」
「陛下こそ離れて下さい! 危のうございます!」「ここは我らにっ!」
結局、誰も逃げない。全員が一カ所に殺到してティーナを追ってしまう。
場はさらに混乱し、あちこちで同士討ちが発生したり、魔王の触手に足をとられて転んだり間違えて体ごと巻き取られたり。
白雪は踏み荒らされ、泥は跳ね上がり、湿った落ち葉が雫を散らして飛んでいく。
「な、なんじゃ!?
ティーナ、いきなり何が……?」
未だに事態を飲み込めない教皇。
呆然と、混乱する兵の群れを前に口をあんぐり開けたままだ。
その眼前に小さな影が立った。
騒乱を器用に、まるでゴキブリのようにすり抜けてきた、ティーナ。
白い髪を振り乱し、衣服も裂けたり切られたり、白磁のように透き通る肌にも泥が付いている。
その中ですら、碧眼は美しく澄み渡っていた。
何の意思も感情も、熱も持たない瞳が教皇を見上げる。
それに気付いた老人は急いで少女へ駆け寄った。
「て、ティーナ!
一体どうしたというのじゃ!?
魔王は、今は敵ではないのじゃよ、大人しく後ろに」
「かみのなをかたり、まおうにすりよるはいきょうとめ。
このゆうしゃてぃーながせいぎのなのもとにせいばいしてくれる」
全くの棒読み。
幼少の折りに家族を亡くし声を失ったはずの少女が語った言葉。
それは、機械のごとき目と同じか、それ以上に感情を持たない棒読みの台詞。
そして動きも機械のように精確で、なんの迷いも含んでいない。
群衆を抜け出してから、その動きをとるまで僅かの間しかなかった。
棒読み台詞を口にしながらも、その行動は流れるように滑らかで、淀みなく、無駄が一切無かった。
ティーナは教皇との間合いを一気に詰める。
その手には鋭く磨かれたナイフ。
地面に対して平行に構えられた刃は、教皇の服を貫いて胸に差し込まれた。
「しまったっ!」
叫んだのはフェティダ。
室内にいたはずの彼女は、庭園の騒乱を見て開け放たれた窓から飛び出していた。
腰のホルスターに収めていた銃を抜き、桁外れの魔力で自らの肉体を強化し、瞬時に現場へ駆けつけていた。
だがその彼女ですら、教皇殺害を阻止し得なかった。
いまだ教皇の胸に刺さるナイフに手をかけたままのティーナへ、少女の姿を模った勇者のこめかみへ銃口を向ける。
「止めてぇっ!」
男の、というわりには甲高い悲鳴が割り込む。
だがフェティダの引き金を引く指は止まらなかった。止めようもない刹那の出来事。
その小太りな体からは信じられない俊足で、恐らくは潜在能力を全開にしたであろう速さで、銃の射線上に割り込む。
一筋の光が、バルトロメイの腹に吸い込まれた。
「なあっ! なにを……!?」
予想外の状況に驚愕し、絶句し、硬直する姫。
その一瞬を勇者の少女は逃さない。
眼前に立つ元皇国軍人の体をすり抜け、鮮血に染まるナイフを今度は姫の喉元へと走らせる。
「やめろぉっ!」
今度は少年の日本語訛りな叫び。
裕太。
魔王へ逃げろと叫んだ彼は、窓を飛び出し、やはり現場へ駆けつけていた。
後から飛び出したフェティダに追い抜かれてしまっていたが。
ともかく、彼は間に合った。
フェティダを救おうと腕を伸ばした。
少女勇者の体には届かなかったが、後ろになびく髪に、その数本にくらいは指がかかった。
素早さにおいて比較するのも恥ずかしい有り様ではあっても、勇者の髪にだけではあっても、彼の指は届いた。
ゆえに、それは生じた。
光。
少女の体は光に包まれた。
いや、雷光だったのかも知れない。
もしかしたら光ではなく闇が全身から染み出してきたのかも。
とにかく、少女の体には異常が起きた。
激しく痙攣し、フェティダの首筋へ突き立てんとしていたナイフも手からこぼれ落ちる。
口からは「かは……!」という、今度は棒読みではない本当の悲鳴、いや断末魔が漏れた。
崩れ落ちる。
まるで電池が切れた玩具のように、泥に混じって茶色くなった雪の上に倒れる。
そして、そのまま動かなくなった。
混乱は収まった。
動かなくなったティーナの周囲を剣の林が取り囲む。
魔王の触手がざわざわと蠢きながら近寄っていく。
そのうち一本が慎重に、ちょん、と倒れたままの少女の頬を突いた。
反応はない。
他の触手も寄ってきて、手首や首筋から脈を取ったり呼吸を調べたり眼球の反応を確かめる。
その結果を、魔王は一言呟いた。
「……死んでる」
裕太とティーナが接触した全くの同時刻。
パラティーノの工廠奥深くでも騒乱が生じていた。
大きなガラス瓶が並んだ部屋に、けたましく警報が鳴り響く。
白いローブや灰色のコート、黒いチュニックなどに身を包んだ人間達が走り回る。
部屋の各所にある光り輝くガラスパネルには、様々な表示が高速で並んでいく。
かつてルヴァンがアンクを操作していた時のように、何人もの研究者が汗を流しながら操作盤を操作しているが、警報は止まらない。
そんな中、部屋の入り口がドアを跳ね飛ばさんばかりに開け放たれた。
入ってきたのは軍服姿の中年女性と、彼女に引き連れられた軍人達。
女は若いとは言えなさそうだが、引き締まった足がタイトなスカートに強調され、くびれたウエストと豊満な胸は男性の興味を惹くに十分だ。
だがその第一声は、色気のあるものではなかった。
「何だこれはっ!?
一体何事か!」
少しハスキー気味な声が林立する巨大ガラス瓶の間を反響する。
軍帽の下で短く整えられた金髪が揺れるたび、縁なしの眼鏡がギラリと光る。
レンズの下にある細い釣り目の眼光を飾るかのように。
彼女の詰問に答えたのは、部屋の一番奥にいた恰幅の良い初老の男だった。
「こ、これは参謀長殿!
かようなむさ苦しい場所に足を運ぶなど」
「挨拶はいらん!
局長、これはどうしたのかと聞いている!」
問い糾された老人は恐縮しつつ、たるんだ腹と頬をゆらしながら説明する。
「勇者ティーナを、Persoしたのです」
「Perso……失った?
失ったとはどういうことだ?」
「文字通りの意味なのです。
つい先ほど、『システマ-アッツェラメント』が、なんというか、恐らくは誤作動を起こしました」
「何ですって!?
それがまさか、ティーナの?」
その報告に参謀長と呼ばれた女は、その後ろに並ぶ者達も絶句する。
ここでようやく警報音が止まり、人々のざわめきと靴音だけになった。
局長は参謀長へ歩み寄り話を続ける。
「左様です。
ご存じの通り『システマ-アッツェラメント』はアンクの演算能力をもって対象の存在を不確定な状態で維持し、必要時に再定義することで」
「理論はいらん。
結果のみ報告せよ」
「は、失礼しました。
今回の場合、どうやらティーナの存在が確定してしまったようなのです。
何者かが、不確定なままだった『勇者ティーナ』の存在を、現時点の状態で完全に観測し、確定させてしまったと思われます」
「……よく分からん。
そんなことが起こりうるのか?」
「アンクの演算能力をもって不確定な状態を維持していますから、同じくアンクを使えば、あるいは。
試みたことがありませんので、何とも言えませんが」
「もしや、魔界に奪われたアンクか……?」
「分かりません。
情報が少なすぎて、今は何とも」
「そうか……」
顎に手を当て考え込む軍人達。
納得したかのように頷きかけた女の頭が、パッと正面を見据えた。
「いや待て。
では、ティーナはどうなったのだ?」
「どうなったと言われましても……今、勇者ティーナはどこにいるのですか?」
「教皇と共に行動し続けているはずだ。
魔界に潜入してからは連絡がない。
恐らくは他の勇者と同じく、ルテティアだろう」
「ルテティア?
ああ、勇者ゴリアテが報告した魔族共の巣窟ですか。
では、そちらにいるかもしれませんな」
「どういう状態なのだ?
回収は可能か?」
「無理ですな。
存在が現時点で完全に確定されてしまったのです。
ゆえに、もはやアンクの演算も届きません。
今や勇者ティーナは、ただの少女ティーナとなってしまったのです。
果たして今はどういう状態なのか、知りようもありません」
「くそ、そうなると教皇の口封じも魔王暗殺も正否は不明か……いや、失敗したと見るべきか。
せっかく魔界へ逃げ込むよう追い立てたというのに」
ちっ、と舌打ちする参謀長。
報告を終えた局長は、ポケットから取り出したしわくちゃのハンカチで汗を拭う。
気を取り直したらしい女は、手早く局長へ指示を飛ばした。
「ティーナの件は可及的速やかな原因究明を命じる。
残りの勇者は予定通り再起動を。
得られた情報は参謀本部へ送れ。
どんな些細な情報も包み隠さず全て報告せよ」
簡潔な命令を残して参謀長率いる軍人達は部屋をあとにした。
後に残った局長と研究者達は、必死にパネル上の表示を読み取り、操作盤を操り、原因を究明しようと奮闘する。
彼らには知りようもないことだった。
勇者ティーナはルテティアのリュクサンブール宮殿庭園において死亡したことなど。
死と同時に消え去るはずの勇者が、死体を残していることなど、分かりはしなかった。
かくてルテティア防衛戦は終結。
裕太の活躍により潜入者と勇者パーティは速やかに殲滅、魔王暗殺すらも阻止しえた。
その真価を表した裕太だが、それは地球より訪れた姉弟が有する真価の、未だ一端でしかない。
彼らの秘めた力を示す場は戦場のみに非ず
次回、第二十章『異議ありっ!』、第一話
『バルトロメイ』
2012年2月21日00:00投稿予定