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「お嬢様、間もなく到着いたしますよ」
侍女のハンナの言葉に、窓の外に向けていた目をぱちりと瞬く。二頭立ての馬車の窓からのぞく空には、茜色と群青色が同居している。もうすぐ群青色が塗りつぶし、次第に濃藍色が埋め尽くしていくに違いない。貴族にとって社交の本番の時間だ。
窓の外から車内に視線を戻すと、同乗しているハンナが気遣わしげな表情を浮かべていた。幼少の頃からわたしを見守ってくれている、やさしいやさしいハンナ。きっと現状に思うところもあるに違いない。
ハンナを安心させるように笑みを浮かべ、少しだけ気の抜けていた背筋を伸ばす。
「ありがとう、ハンナ。公爵邸に着いたら、あなたは戻って大丈夫よ」
今日の夜会の会場はスタンフィード公爵邸だ。
現王陛下の妹君が降嫁したスタンフィード公爵邸では、しばしば夜会が開かれている。公爵夫人となられた元王女殿下は、現在の社交界のトップと言っても過言ではない方だ。夫人自身も社交に積極的で、頻繁に茶会や夜会を主催していらっしゃる。
公爵夫人主催の夜会は、特に多くの貴族が出席することで有名だ。これから人脈を広げていきたい新興貴族や、結婚相手を探している貴族子女も多く出席する。貴族たちにとっての、まさしく”社交の場”の一つなのだ。
わたしがこの夜会に出席する理由もまた、”社交”である。といっても、わたしの場合は、わたし個人の社交というよりもパートナーであるレイモンド様のおまけのような意味合いが強い。将来アーバイン侯爵家を継ぐレイモンド・アーバイン様の妻となるわたし――アメリア・ハリエット伯爵令嬢という存在を周知する為の社交である。
「お嬢様……ですが……」
優秀な侍女のハンナは、普段であれば主人の指示にも即時従う。けれど、今日はどうにも歯切れが悪い。
「ふふ、大丈夫よ。レイモンド様とはきちんと待ち合わせをしてあるもの」
パートナーであるレイモンド様と出席する夜会の際は、いつもはアーバイン侯爵邸で合流して一つの馬車に同乗して会場へ向かっている。ところが今日はレイモンド様には次期侯爵として外せない用事があり、会場であるスタンフィード公爵邸で合流する手筈になっていた。
王都でもひときわ大きなスタンフィード公爵邸には広い馬車寄せが備えられており、夜会の出席者はそこで乗降ができるようになっている。わたし達が乗るハリエット伯爵家の馬車も、スタンフィード公爵邸に着くと公爵家の使用人によって馬車寄せへと誘導された。
馬車の扉が開かれ、先にハンナが降りる。ハンナが差し出した手を取り、わたしも馬車から出た。
空にはわずかな茜色と、昼と夜をつなぐ群青色、そして夜の始まりの濃藍色。
夜会は決してただの娯楽の場ではない。貴族にとっての責務の一つであり、言い換えるなら戦いの場でもある。わたしも気を引き締めて、ハンナの手を離した。
「ありがとうハンナ。帰りはアーバイン家の馬車を使わせて頂けることになっているから、安心して家で待っていて頂戴」
「……かしこまりました」
まだ不安そうな表情は残るものの、ハンナは平素の落ち着いた様子で腰を折る。
御者にもねぎらいの声をかけ、わたしはスタンフィード公爵家の表玄関へと向かう。
さあ、今日の夜会はどうなるかしら――?
夜会の会場入口であるスタンフィード公爵邸の玄関に向かうと、その手前に数名の貴族令嬢が集まっていた。さざめくようなお喋りをする彼女たちは、一様にちらちらと同じ方向に視線を向けている。彼女たちの視線の先にいるのは――見なくてもわかる。わたしの婚約者である、レイモンド・アーバイン様だ。
事前の打ち合わせ通りの待ち合わせ場所に佇む彼は、夜の公爵邸を照らす灯りを受けて、まるで一枚の絵画のようだ。まばゆい金髪とすらっと伸びた姿勢の良い体躯。無表情ながらも整った相貌は、年若い貴族令嬢の目を惹きつけて止まない。
馬車寄せからやってきたわたしに気づいたレイモンド様が、一瞬前まで無表情だった顔を一気にしかめさせた。ぎゅっと寄せられた眉と、引き結ばれた唇。それでも美貌であることに変わりはないけれど、不機嫌そのものの表情は誰の目にも明らかだった。
「お待たせしてしまい申し訳ありません、レイモンド様」
険しい顔のレイモンド様に近づき、軽く腰を落とす。一応約束通りの時間ではあるが、レイモンド様を待たせてしまったことは事実だ。
「……ああ」
低く短く、レイモンド様が呟くように言う。そしてわたしの装いを上から下まで確認するように視線を動かし、手を差し出してきた。
「……行こう」
「はい」
侯爵家令息であるレイモンド様はエスコートにも長けており、流れるような所作でわたしの手を引く。何度もこの手にエスコートをされているが、とても美しいと思う。顔は険しいままだが、立ち居振る舞いはまさに貴族そのものだった。
公爵邸の玄関をくぐり、レイモンド様が懐から取り出した招待状を使用人に渡す。内容を検めた使用人によって通されたホールには、既に多くの貴族たちがひしめいていた。
わたしをエスコートしたままホールを進むレイモンド様の姿に、ホール内にいた貴族令嬢たちが気づいたようだ。そこここから煌めくような眼差しが向けられるのが分かる。と同時に、隣のわたしに刺さるような視線が向けられているのも分かってしまう。
「ほら、あの方。レイモンド様の……」
「見て。レイモンド様ったらいつも通り険しい顔をしてらっしゃるわ」
「いつ見てもおいたわしいわ」
令嬢たちがささやく声は、わたしの耳にもしっかり届いている。それは当然隣のレイモンド様にも聞こえている筈だけれど、レイモンド様は険しい表情のまま令嬢たちをちらりと一瞥するだけだ。
いつものこと。そう、いつものことだ。
わたしを伴う夜会でレイモンド様が険しい表情を浮かべていることも、途端に口数が少なくなってしまうことも、それを見た令嬢たちが笑い交じりの視線をわたしに向けてくることも。
彼女たちにとっては、わたしは身の程知らずにも侯爵令息であるレイモンド様の婚約者の座に居座る恥知らずな伯爵令嬢であり、レイモンド様は政略の為に弱小伯爵家の令嬢と意に沿わぬ婚約を結ばされている可哀そうな貴公子に他ならないのだ。




