第1話 「魔法で人は殺せない」
人は、理解できないものに名前をつける。
それで安心するために。
それ以上、考えなくていいように。
この世界では、それが“魔法”だった。
誰も疑わない。
疑う必要がないからだ。
魔法で人は殺せない。
それは常識であり、前提であり、疑う価値すらないものだった。
——そのはずだった。
だから、その死は。
説明されるべきではなかったし、
存在してはいけなかった。
それでも、人は死んだ。
理由は、まだない。
石の床は、冷たかった。
冷たさというより、温度のなさに近い。
触れれば、そこに何もないことを思い知らされる。
男が倒れている。
眠っているようにも見える。
ただ、呼吸だけがない。
血は出ていない。
争った跡もない。
それでも、人は死ぬらしい。
「……ありえない」
誰かが言った。
小さな声だったが、よく響いた。
「魔法で人は殺せないはずだろ」
その言葉だけが、場に残った。
レンは顔を上げる。
音の正体を確かめるように、ゆっくりと。
「……今の、もう一度言ってくれ」
誰もすぐには答えなかった。
代わりに、視線が集まる。
異物を見る目だった。
(構わない)
レンは視線から逃げない。
逃げる理由がない。
「魔法で人は殺せない」
誰かが繰り返す。
さっきよりも、少しだけ強い声で。
言葉は、思っていたよりも軽かった。
(軽いな)
その軽さが、気にかかる。
「そういうものなんだ」
今度は、別の声だった。
振り返ると、少女が立っていた。
年の頃は十九ほど。
落ち着いた顔立ちをしているが、目はよく動く。
「この世界の魔法は、人を傷つけないようにできてる」
言い切った。
迷いはない。
レンは、少しだけ考える。
「“できてる”というのは、誰が決めた?」
少女は答えない。
代わりに、こちらを見た。
測るように。
「みんな、そう信じてる」
それは答えではなかった。
「信じてる、か」
レンは、倒れている男を見る。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
(死というのは、こんなにも音がしないものだったか)
思い出そうとする。
だが、思い出す前に、別のことが気になる。
「君は、どう思う」
少女に視線を戻す。
「これが魔法じゃないって、本気で思ってるのか」
少女は少しだけ間を置く。
ほんの一瞬だが、沈黙があった。
「……思ってる」
それでも、そう答えた。
「じゃあ、これは何だ」
レンは、死体を指ささない。
ただ、そこにあるものとして扱う。
少女は、視線を落とす。
「分からない」
それが一番正直な答えだった。
レンは、少しだけ息を吐く。
(分からない、か)
それでいい。
分からないまま、止まれるなら。
人は、すぐに名前をつけたがる。
理解していないものに、理解したふりをする。
それが一番、危うい。
「……何かするの?」
少女が訊く。
レンは、すぐには答えない。
死体に近づくことも、触れることもしない。
ただ、少し距離を置いたまま立っている。
「まだ何もしない」
「分からない状態で、動く理由がない」
少女がわずかに眉を動かす。
「普通は、逆じゃない?」
「分からないから動く」
レンは首を振る。
「それは“反応”だ」
「思考じゃない」
言葉にすると、少しだけ硬かった。
少女は、それを飲み込むように黙る。
少しして、小さく笑った。
「変な人」
否定ではないらしい。
「君は?」
レンが訊く。
「どうする」
少女は答えない。
代わりに、死体を見る。
その目には、わずかな揺れがあった。
「……調べるよ」
「分からないままにしたくない」
レンは、その言葉を少しだけ意外に思う。
(感情だけではない、か)
「名前は」
「フィア」
短く名乗る。
「あなたは?」
レンは一瞬だけ間を置く。
過去の名前に、意味があるのか考える。
「レンでいい」
それで十分だと思った。
そのとき、奥の方で声が上がる。
「犯人が分かったぞ!」
ざわめきが一斉に動く。
あまりにも早い。
レンは目を細める。
(結論だけは、いつも早い)
フィアが小さく言う。
「……もう決めるんだ」
レンは、その言葉にだけ反応する。
「決めること自体は、簡単だ」
少しだけ間を置く。
「正しいかどうかは、別だが」
人の流れが、ひとつの方向に向かう。
レンは動かない。
まだ、動く理由がない。
(魔法で人は殺せない)
その前提だけが、宙に浮いている。
軽いまま。
どこにも固定されていないまま。
(なら、この死は何だ)
答えはまだない。
それでいい。
分からないものは、分からないままで置いておく。
それが、思考の始まりだ。




