第009話 王太子の来訪
ヴァルゼイド公爵家の次男、ユウとしての平穏な日々は、王太子ウィンザーの突然の来訪という大きな波紋によって、さらなる変容を余儀なくされていた。
五歳という幼い肉体、そして左腕が根元から欠落しているという目に見える不自由。
それがもたらすのは、周囲からの限りない同情と、それ以上に深く、時に献身的な愛である。
だが、その守られた温室の裏側で、俺は、パサージュの鍵を媒介に、この世界の理を静かに、かつ確実に掌握しつつある。
今日の広間には、王家の象徴である黄金の紋章が刻まれた、この世界の伝統的な盤上遊戯『星盤』が用意されていた。
この星盤という遊びは、円形の盤の上に、魔力を帯びた色とりどりの星石を交互に置いていくものだ。
ルールは至って単純で、自分の石同士で相手の石を挟めば、その石を自分の色に塗り替えることができる。
最終的に盤上を自分の色で埋め尽くした者が勝者となるが、高度な対局になれば、石が放つ魔力の繋がりを読み合い、数手先までの陣取りを計算する極めて知的な遊戯であった。
ウィンザーは数年前よりも一層、次期国王としての威厳を纏い、俺の正面に座っている。
「ユウ、随分と大きくなったね。君の類稀なる知性が王宮で噂になっているよ」
ウィンザーの声は穏やかだったが、その瞳には愛しみと同時に、俺の資質を見極めようとする鋭い光が宿っていた。
俺は子供らしい無邪気な微笑を浮かべ、空いた左袖を揺らしながら、右手の指先で青い星石に触れた。
「ウィンザー兄様、はやくほしばん、やってみたい」
母様が心配そうに傍らで見守り、父様は腕を組んで、厳しい眼差しで盤面を凝視していた。
俺にとっての星盤は、単なる石の取り合いではない。
盤上に展開されるのは魔力の潮流の縮図であり、銀色の粒子が石の配置に合わせて因果を編み上げる、神聖な魔術儀式にも似た精緻な作業だった。
対局が始まると、ウィンザーは王道でありながら、相手の魔力動線を完全に封じ込める鋭い一手を次々と放ってくる。
俺は見えない左腕を盤上に滑らせ、神の視点から事象の最適解を視認するパサージュの鍵の『観測の鍵』を静かに回す。
この鍵が開示するのは、複雑に絡み合った因果が最も美しい正解へと収束するまでの最短ルートである。
物理的な右指で石を一つ置くたびに、見えない左指は盤上の空間そのものを静かに固定し、ウィンザーの思考が到底及ばない確定した勝利へと運命を誘導していく。
「ほう、その配置で私の石をすべて奪うつもりか……」
ウィンザーが驚嘆の声を漏らし、端正な額に微かな汗を浮かべた。
俺はただ、きれいな模様を作るように石を並べただけのように振る舞い、無垢な瞳を盤面に落とす。
だが、その一手一手が、『観測の鍵』によって視認された勝利への絶対経路をなぞり、数十手先の致命的な包囲網を冷徹に構築している。
盤上で渦巻く銀色の粒子は、ウィンザーが放つ魔力の攻勢を、事象の根源から解きほぐすようにしてすべて静かに無効化していく。
「ウィンザー兄様、ここ、ひかったよ」
俺が静かに最後の一石を盤の端へ置くと、盤面全体が銀色の輝きを放ち、ウィンザーの色だった石が一瞬ですべて俺の石の色へと塗り替えられた。
広間は凍り付いたような静寂に包まれる。
次代の英雄と目される王太子が、わずか五歳の、しかも不自由な身である幼子に、一度の隙もなく敗北したという事実。
星盤では、誰が相手であっても無敗を誇っていたウィンザー。
それは周囲に控える家臣たちに、計り知れない衝撃と戦慄を与えていた。
ウィンザーは呆然と盤面を見つめていたが、やがて敗北を受け入れるように、爽やかな笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。
「完敗だ。ユウ、君はやはり、稀代の天才と呼ばれるだけの事はあるな」
その言葉に、傍らにいた母様の顔が微かに曇った。
彼女にとって、俺が有能であることは誇らしい反面、その突出した才能が俺を過酷な権力争いの舞台へ引きずり出すのではないかという、母としての新たな恐怖でもある。
母様は俺をそっと引き寄せ、欠落した左肩を愛おしそうに、そして庇うように抱きしてきた。
「ウィンザー殿下、ユウはまだ幼いのです。あまり重い言葉をかけて、この子を疲れさせないでくださいませ」
「わかっているよ、叔母上。ですが、これほどの至宝をただ隠しておくことは、王国にとっての損失だ。私は彼を誰よりも大切に育て、導きたいと思っている」
ウィンザーの瞳には、打算のない純粋な信頼と親愛があった。
彼は俺を左腕のない不憫な次男としてではなく、対等な知性を持つ一人の人間として、そして守り抜くべき国の宝として認めてくれた。
俺は母様の温かな胸の中で、見えない左腕を伸ばし、ウィンザーの背後に漂う宮廷特有の不浄な澱みをそっと拭い去る。
彼のような誠実な人間が王位に就くことは、俺が守りたいこの安らかな日々を維持するための、最も重要な条件の一つだからである。
夕暮れ時、ウィンザーは満足げな表情で帰路に就いた。
入れ替わるように、ゼノン兄様とサリア姉様が俺の元へと駆け寄ってくる。
「ユウ!王太子様に勝つなんて、やっぱりお前は僕たちの自慢だよ!」
「ユウ、あんまり無理しちゃだめよ。知恵熱でも出たら大変なんだからねっ」
二人は俺を挟むようにして歩き、いつものように段差一つまで気を配りながら、俺を自室へと運んでくれる。
この過剰なまでの、しかしどこまでも純粋な過保護の空気こそが、俺がこの世界で手に入れた最も価値ある対価である。
俺は右手にサリア姉様が作ってくれた、稚拙ながらも魔力が込められたお守りを握りしめ心の中で静かに呟く。
俺のこの空白の腕は、決して何かを奪うためのものではない。
この温かな日常を、そして俺を無条件に愛してくれる家族を守り抜くためのものだ。
五歳という肉体の制約は、むしろ俺にとって最高の隠れ蓑だった。
弱々しく、守られるべき弱者として振る舞うことで、俺は誰の警戒心も煽ることなく、世界の根源へと深く指先を沈めることができるのだ。
不自由を憐れむ周囲の視線は、俺の力を隠蔽し、敵対者の目を逸らすための最良のヴェールであるのだから。
翌朝、父様が俺を訓練場へと連れ出した。
そこには、ヴァルゼイド家が誇る、鋼の如き精鋭の騎士たちが整列していた。
父様は俺を自らの強靭な馬に乗せ、騎士たちに向かって、雷鳴のような声で力強く宣言した。
「見よ!我が愛息子、ユウだ。彼は左腕を神に捧げる代わりに、天をも動かす智恵を授かった!お前たちは、この至宝を己が命に代えても守り抜け!」
騎士たちの熱狂的な大きな喚声が、空気を震わせる。
彼らの眼差しには、弱き者への純粋な憐れみと、同時に計り知れぬ稀代の天才への畏敬が複雑に混ざり合っているようだった。
俺は父様の太い腕の中で、小さく、守られるべき子供として頷く。
ヴァルゼイド家の次男。
左腕のない、不憫な御子。
その真実の姿を、今はまだ誰も知る必要はない。
俺はただ、彼らの無償の愛を糧に、パサージュの鍵の力を蓄積していく。
それとは別に、教育、魔法理論、そして領地の統治学も知識として蓄えるのだ。
これから、俺が学ぶべきことは山ほどあるが、そのすべては俺の見えない左腕を通じて、瞬時に本質へと到達する。
古びた書物の文字を読むたびに、その記述の裏にある真理が銀色の粒子となって脳内に浸透していく。
母様が歌う古いバラッドの旋律さえも、俺にとっては世界の振動を制御するための公式の一部に見えた。
俺は自身の右手を、欠落した左肩にそっと添えた。
そこには肉体的な腕は何もないが、確かに世界を掌で握りしめている、確固たる感覚がある。
「ユウ様、おやつを持って参りました。今日は蜂蜜のケーキですよ」
メイドが扉を優しく叩き、甘い香りのする小皿を運んできた。
俺はすぐに思考を隠し、五歳の子供としての表情を作る。
「いつも、ありがとう!あまいの、だいすき」
この小さな、しかし何物にも代えがたい幸せを守るためなら、俺は一生、不自由な子供を演じ続けても構わない。
ヴァルゼイドの子として生きるこの人生こそが、俺が前世で最後に望んだ、本当の意味での救済の形だったのかもしれないと思う。
明日もまた、この不自由で幸福な日常が続くだろう。
俺は自らの運命を愛し、この静寂に身を委ねるのだ。
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