第007話 教育
五歳の誕生日という大きな節目を終え、俺の生活には新しく教育という名の彩りが加わった。
ヴァルゼイド公爵家の次男として、左腕のない不自由な身であっても、将来的に領地を支える一翼としての教養は不可欠である。それは貴族としての義務であると同時に、俺を溺愛する両親にとっては、俺が将来、無力ゆえの疎外感を味わわぬようにという、切実な親心の結果でもあった。
父様と母様は、俺に無理をさせたくないと何度も深夜まで話し合っていたようだ。だが、俺自身が書斎にある古めかしい魔導書や歴史書への興味を、子供らしい好奇心を装って示したことで、本格的な家庭教師が招かれることとなったのだ。
「ユウ、今日は歴史の講義の日ですよ。あまり根を詰めてはいけませんからね。気分が悪くなったら、すぐに母様に言うのですよ?」
母様が俺の右手を壊れ物を扱うような手つきで引きながら、専用の学習室へと案内してくれる。
彼女の瞳には常に、俺が左腕の欠落ゆえに心身のバランスを崩しはしないか、過酷な学問の重圧に押し潰されはしないかという、深い懸念が常に揺らめいている。
俺はその不安を霧散させるように、いつものように無邪気な微笑みを返した。
「うん、母様。ユウ、おべんきょうたのしみ。先生、どんな人かな?」
学習室で待っていたのは、伯父上である国王が直々に推薦したという、王国でも指折りの老魔導師であった。その老人は、俺が室内に入ると、貴族に対する儀礼以上に、どこか神聖な物でも見るような目をして恭しく頭を下げる。
だがその視線は、俺の空虚な左袖に一瞬だけ止まり、すぐに深い同情の色へと変わった。
この世界において、肉体の欠損は体内の魔力回路の不全と直結すると考えられている。左腕がないということは、それだけで魔力操作の安定性を欠き、大成することはない。それがこの世界の常識なのだ。
つまり、彼にとって俺は、学ぶ意欲はあっても、その将来には限界が見えている不憫な生徒に過ぎないのだ。
「それでは、ユウ様、本日はこの王国の建国史と、基礎的な魔法の概念について触れていきましょうか。ゆっくり、お身体のペースに合わせて進めてまいりますからな」
教師の声が静かに、そしてどこか、いたわりを含んでいる。
俺は右手に羽ペンを持ち、わざとおぼつかない手つきでノートを広げる振りをしながら、教卓に置かれた古い教科書を眺めた。
「先生、まほうは、こころでつかうの? それとも、この空気に混ざってる何かを使うの?」
あえて稚拙な表現を選びながら問いかけると、老魔導師は感銘を受けたように目を細めた。
「ほほう、それはまた純粋で鋭い問いですのぉ。ええ、意志の力こそが魔力を形作る核となりますのぉ。ですがユウ様、貴方様のように繊細なお身体では、あまり無理に魔力を練り上げてはいけませんぞ。それが逆流すれば、お命に関わることさえありますからな」
老教師の言葉には、明白な憐憫が滲んでいた。俺という存在を、魔法の深淵に触れる資格のない弱者だと決めつけているのだ。
俺を、単なる不憫な子からの無駄な質問として解釈してくれるのは非常に都合がいい。
俺は自らの力を隠し、幼子特有の瑞々しい吸収力を演じながら、この世界の表層的な知識を着実に己のものとしていった。
午後、講義が終わると、扉を蹴り破るような勢いでゼノン兄様とサリア姉様が俺を連れ出しに来た。
「ユウ! 勉強ばっかりしてると、せっかくの頭が痛くなっちゃうぞ! さあ、中庭に行こう。僕が魔法の訓練を見せてやる!」
「私がユウの隣で新しい防御魔法を見せてあげるわ。ユウの周りには、私がずっと丈夫な壁を作ってあげるからね」
二人は俺の左右を固め、最強の護衛騎士さながらの構えで中庭へと進む。
十歳になるゼノン兄様は木剣を力いっぱい振り回して自身の力強さをアピールし、双子のサリア姉様は額に汗を浮かべながら、懸命に小さな魔力障壁を展開してみせる。
二人とも、左腕のない可哀そうな俺を自分たちが一生守り続けなければならないという、悲壮な使命感に突き動かされている。
二人の輝く笑顔を見て、俺も心地よい充足感に包まれる。
家族が俺を愛し、不憫に思い、守ろうとすることで得られる平和。その平和を維持するために、俺は影から知覚の糸を張り巡らせる。
彼らが『自分たちが守っている』と信じ、その自負が彼らを強くするなら、俺はその幸福な錯覚をどこまでも守り抜くつもりだ。
夕暮れ時、空が燃えるような朱色に染まる頃、父様が遠征から帰還した。
彼は王国元帥としての威厳に満ちた鎧を脱ぎ捨てる間も惜しんで、埃にまみれた姿のまま、俺の元へと駆け寄ってくる。
「ユウ、勉強はどうだった。先生は厳しくなかったか? もし辛いようなら、いつでも中止させていいのだぞ」
父様の大きな掌が、俺の空虚な左肩にそっと置かれる。
その温もりには、戦場で数万の部下を率いる冷徹な武神としての顔ではなく、欠損を抱えた息子に何を与えてやれるか苦悩する、ただの一人の父親としての切実な祈りが込められている。
俺は父様の頑強な腰にしがみつき、その胸に顔を埋める。
「とってもたのしかったよ、父様。ユウ、世界のこと、もっといろいろしりたいな。本を読めば、どこにでもいける気がするんだ」
「そうか……。無理はするなよ。お前がただこうして笑って過ごせるなら、父様はそれだけで救われるのだ。お前の不自由は、この父がすべて肩代わりしてやるからな」
父様の低く太い声が、語尾に向かって微かに震える。
彼らが俺の欠落を不憫だと嘆き、そして涙するなら、俺はその嘆きを糧に、彼らに最高の安らぎを約束しよう。俺がこの家を、この領地を、世界のあらゆる災厄から切り離して管理すればいいだけのことだからな。
夜、自室のベッドに潜り込んだ俺は、月光に照らされた自身の左肩を見つめた。
五歳という肉体はまだ小さく、魔力の貯蔵量もたかが知れている。
だが、家族の寵愛を受け、徐々に貯蔵量も増えている様だった。
不自由な腕の代わりに手に入れた、世界そのものに触れるパサージュの鍵。
これがあれば、俺はこの過保護で温かな楽園を永遠に、密やかに守り続けることができるに違いない。
不意に、母様が寝かしつけに来る足音が聞こえて来た。
「ユウ、もう眠ってしまったかしら。良い夢を見るのよ、私の愛しい宝物」
母様の温かな唇が、俺の額に落ちる。
ヴァルゼイド公爵家の、腕のない不憫な御子。
その真の姿は、家族の愛に甘えながら、世界の理を自在に編み直す幼き超越者だ。
明日もまた、俺はこの幸せな嘘を貫き通すしかない。
五歳という年齢は、学びの始まりに過ぎない。
俺は自身の異能を隠しながらも、家族が望むような、賢く健やかで、守りがいのある子供としての役割を演じきってみせよう。
魔法の基礎、歴史、そして社交。ありとあらゆるものを、俺はこの見えない腕で手中に収めてやる。
俺はそっと自身の右手を、鼓動を刻む胸に当てた。
そのリズムは力強く、そして穏やかだ。
この安らぎを乱す者、この家族の笑顔を曇らせる因果があるならば、俺はこのパサージュの鍵を使い、世界の記憶ごと抹消してやろう。
だが、今はまだ、その牙を見せる必要はない。
そう、今はまだ、俺はただのユウとして、家族の愛に包まれていればいいのだから。
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