第006話 五歳の誕生日
ヴァルゼイド公爵家の次男としてこの世界に生を受けてから、ついに五度目の春が巡ってきた。
この五年間、俺の生活は家族からの過剰なまでの慈愛と、徹底した保護の温もりに満たされていた。
左腕が根元から欠落しているという事実は、俺の成長と共に、俺という存在を『ヴァルゼイド家の不憫な宝物』という地位に不動のものとして据え置いていたのだ。
俺が五歳になったこの日は、公爵邸全体が色鮮やかな装飾に包まれ、まるで王国の祝祭日のような賑わいを見せている。
「ユウ、誕生日おめでとう。さあ、今日はとびきり格好いい衣装を用意したわよ」
母様が、朝一番に俺の寝室を訪れ、満面の笑みで俺を抱き上げた。
彼女の手にあったのは、ヴァルゼイド家の象徴である銀色の刺繍が施された、最高級の礼服だ。
左の袖はあえて短く仕立てられ、そこには見事な紋章の刺繍が施されている。
母様は俺の左肩を優しくなでながら、その瞳に僅かな切なさを浮かべた。
「この左袖に、あなたの不自由な分まで、母様たちの愛を詰め込んでおいたわ」
俺は母様の首に右手を回し、甘えるように顔を寄せた。
その隙に、俺はパサージュの鍵を密かに起動させた。
見えない左肩から溢れ出すのは、虚数解の左腕。
それは物理的な肉体を失った代わりに手に入れた、因果を直接掴み取るための神の腕。
俺はこの見えない腕で母様の周囲を包み込み、もう一つの鍵である福音の揺り籠を優しく展開した。
これによって俺の周囲は『不浄も不幸も存在し得ない聖域』へと書き換える。
母様の背後に漂っていた僅かな疲れや緊張が、銀色の指先が触れるたびにスッと消え、彼女の肌に健康的な赤みが戻っていく。
五歳になり、俺のパサージュの鍵はさらなる進歩を遂げていた。
もはや邸宅の構造を把握するだけでなく、邸宅内の微細な因果の揺らぎさえも、パサージュの鍵一つで整えることができる。
俺は誕生日という今日を完璧なものにするため、母様の背後に漂う僅かな緊張を事象のレベルで剥離した。
「ありがとう、母様。僕、とってもうれしい」
俺の言葉に、母様は救われたような表情を見せて俺を強く抱きしめる。
この不憫で愛おしい子供という役割は、俺にとって最強の盾であり、家族を影から守るための最高の隠れ蓑である。
着替えを終えて大広間に向かうと、そこには父様と双子の兄姉、および伯父上であるエドマンド国王が待ち構えていた。
「ユウ!誕生日おめでとう!これ、僕が選んだ魔導書の図鑑だぞ!」
ゼノン兄様が、小さな体には不釣り合いなほど分厚い本を差し出してきた。
彼はすでに俺の守護騎士を自任しており、左腕のない俺が知識という武器を持てるようにと、日頃から熱心に本を勧めてくれるのだ。
「私からは、このブレスレットよ。ユウの右手が寂しくないように、私が守りの魔法をかけてるのよ!」
サリア姉様が俺の右手に、精緻な装飾の腕輪を嵌めてくれる。
二人の瞳には、俺という存在を守り抜こうとする強固な意志が宿っていた。
俺は二人の手を交互に握り、見えない左腕で彼らの頭をそっと撫でた。
もちろん感触は伝わらないが、パサージュの鍵を通じて流し込んだ安らぎの波動が、彼らの心を温かく満たしていく。
「おお、主役のお出ましだな。ユウ、こちらへおいで」
父様の隣で朗らかな声を上げたのは、この国の国王であり、父様の兄でもある伯父上だった。
王族である彼は、弟の息子である俺を実の子のように可愛がってくれている。
伯父上は俺の前に屈み込むと、その豪華な外套を揺らして笑った。
「五歳か。ガルドに似て、将来はよき男になるだろう。左腕のことなど気にするな。この伯父が、お前のために国中から最高の教師を呼び寄せてやろう」
伯父上の手がつるりと俺の頭を撫でる。
父様と同じく、彼もまた俺を『守るべき弱者』として慈しんでいた。
父様は兄である国王の言葉に深く頷き、俺の空虚な左肩に手を添えた。
「兄上の仰る通りだ。ユウ、お前が五歳になったことを、何よりも誇りに思う。この公爵家の力、および王家の後ろ盾は、すべてお前の未来を切り拓くためにあるのだ」
午餐会には、従兄の王太子ウィンザーも駆けつけてくれた。
彼は多忙な政務を縫ってまで、俺という不憫な従弟のために時間を作ってくれる大切な理解者だ。
「ユウ、五歳か。ますます賢そうな顔立ちになったな。君のその瞳は世界の真実を見通しているかのようだ」
ウィンザーが俺の隣に座り、王宮から持参したという珍しい果実を俺の口に運んでくれる。
彼は俺の左腕の代わりになると公言しているうちの一人だ。
その誠実な献身に、俺は気恥ずかしさを感じつつも、彼の善意を全力で受け取る事にする。
「ウィンザー兄様、おいしい!ありがとう」
俺の笑顔を見て、ウィンザーは満足げに頷いた。
周囲の騎士やメイドたちも、その光景を微笑ましく見守ってくれている。
ヴァルゼイド公爵家の次男、ユウ。
彼は左腕を欠いた哀れな公子だが、その周囲には常に溢れんばかりの愛と、誰にも侵しがたい聖域のような平和が漂っているのだ。
それが、この邸宅に集う者たちの共通認識となっている。
だが、そんな幸福な空気の裏側で、不快な雑音が俺の耳に届く。
バルコニーの近くに陣取った数人の招待客である貴族たちが、俺たちに聞こえないと思っているのか、声を潜めて嘲笑を漏らしていた。
「……陛下も公爵も、あのような欠陥品を。ヴァルゼイドの武芸も魔道も、あの片腕のせいで先が見えましたな」
「左様。あれでは剣も杖も持てぬ。不吉な象徴を祝うとは、この国も堕ちたものだ」
俺の中に眠る保育士としての矜持が、その悪意を捉えた。
俺を愛し、守ろうとしてくれる家族たちの想いを、こいつらは汚している。
俺は母様の腕の中で、眠たそうに目をこすりながら、左肩の空白を彼らの方へ向けた。
『忘却の楔』
俺はパサージュの鍵を起動し、その因果の深淵を解き放つように鍵を回す。
カチリと回せば、銀色の波紋が音もなく広がり、彼らの意識に干渉する。
これは世界という記録から、彼らが今抱いている悪意を一時的に忘れさせ、存在しないものとして上書きする力だ。
次の瞬間、嘲笑っていた貴族たちの顔から表情が消え、彼らは呆然と立ち尽くした。
さらに俺は、彼らが手に持っていたグラスに向けて、見えない『左の指先』を突き立てた。
『世界律の欠損』
因果律のバグを指先でつまみ、物理法則を無視する。
俺は彼らが持っているグラスの『頑丈さ』という定義を世界の方程式から一時的に消去し、それを脆い『灰の塊』へと無理やり書き換えた。
衝撃も何もないはずの空間で、最高級のクリスタルグラスは自重にすら耐えられず、一瞬にして音もなく崩壊し、粉々に砕け散った。
「ひっ……!? なんだ、何が起きた!」
狼狽する彼らを、俺は冷ややかに見下ろした。
しかし、俺の制裁はこれだけでは終わらない。
俺の家族を侮辱した報いは、単なるグラスの破損程度で済むはずがなかった。
俺は再びパサージュの鍵を操り、彼らの『足元の摩擦係数』と『衣服の固定概念』に干渉した。
「うわっ、あだっ……!?床が、滑る……!」
一人の貴族が、氷の上を歩くかのような無様な仕草で足を滑らせ、踊るように宙を舞った。
それを支えようとした別の貴族の手が、相手の豪華な礼服に触れた瞬間――。
『事象の脆弱化』
俺が、また違うパサージュの鍵を回すと、礼服を繋ぎ止めていた繊維の結合エネルギーをゼロに書き換える。
ビリッ、という鈍い音と共に、その貴族のズボンの股下が無残に裂け、さらには上着のボタンが一斉に弾け飛んだ。
「う、うわあああああ! な、なんだこれは!?」
裂けた服の間から、なんとも形容しがたい派手な刺繍の入った下着が露出し、その貴族は泡を食ってその場に蹲った。
さらには、滑り落ちたワインの染みが、彼の顔面を直撃するように因果を誘導する。
高級な赤ワインは、計算されたかのように彼の鼻腔へと飛び込み、彼は激しく咽せながら、床の上で転げ回った。
「ひ、ひぃぃ……!な、なんだ、助けてくれ……!」
周囲の貴族たちが呆然と見守る中、俺を侮辱した者たちは、自らの失態によって完膚なきまでにそのプライドを砕かれた。
大広間に響くのは、彼らの悲鳴と、あまりの無様さに堪えきれず漏れ出した周囲の失笑だけだ。
騒ぎに気づいた父様が歩み寄り、冷徹な視線を投げかける。
「我が息子の大事な大事な誕生日の席で、それほど無様にワインを零し、挙句の果てには衣服まで乱すとは。貴殿らの家門の教育はどうなっているのかね」
父様の言葉は刃のように鋭く、彼らの息の根を止めた。
もはやこの場に、彼らの居場所はない。
「も、申し訳ございません……!」
彼らは顔を真っ赤に染め、股間を隠しながら、逃げるように大広間を去っていった。
俺は母様の腕の中で、満足げにその背中を見送る。
午後の庭園、俺は一人でベンチに座り、心地よい日差しを浴びていた。
賑やかな宴の喧騒を離れ、俺は意識を世界の深淵へと沈める。
五歳という節目を迎え、俺のパサージュの鍵はその真の力をさらに解放しつつある。
俺は空を見上げ、見えない左手で流れる雲の形を弄った。
まるで子供が粘土遊びを楽しむように、俺はこの世界の理を望むままに成形していく。
夜、一人になった寝室で、俺は窓の外に広がる星空を眺めていた。
家族からの愛、伯父上やウィンザーからの信頼、および周囲の者たちの憐憫。
そのすべてが俺にとっての力となり、この『空白の腕』をより強固なものへと変えていく。
五年前、この世界に生まれたばかりのあの時、俺はただの無力な赤子だった。
だが今は違う。
俺はこの不自由な身体という仮面を被りながら、世界そのものを抱きしめることができるパサージュの鍵がある。
俺はパサージュの鍵を静かに胸の奥へと収めた。
左肩の深淵には、銀色の粒子が穏やかに渦巻いている。
明日からもまた、俺は家族の可愛い不憫な子供として目覚めるだろう。
彼らが俺を愛してくれる限り、俺はこの完璧な箱庭を守り続ける。
その誓いを新たに、俺は深い眠りの中へと意識を沈めていった。
ヴァルゼイド家の次男。
左腕のない、不憫な御子。
その存在が、この王国の運命そのものを影から操る、神の指先であることなど、今はまだ誰も知らなくていい。そう、まだだ。
俺は満足感とともに、幸福な五歳の誕生日を締めくくったのである。
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