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欠落の聖遺物(レリック) 〜神の鍵束は、僕の左腕に宿る〜  作者: スフィーダ


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第004話 銀光の夜

 ヴァルゼイド公爵家の次男として転生し、一歳という幼児期の入り口に立った俺の日常は、相変わらず過保護という名の温かな繭に包まれていた。

 左腕が根元から欠落しているという事実は、この家において、俺を『守るべき絶対的な弱者』として扱われている。


 一歳。

 本来ならば何かに掴まって立ち上がり、一歩、二歩と伝い歩きを始める時期だが、俺が少しでも床に手を突こうものなら、周囲のメイドたちは顔を青くして駆け寄り、まるで洗濯したての布が汚れるのを恐れるように俺を抱き上げるのだ。

 物理的な均衡を欠き、常に重心を危うくしている俺の姿は、彼らの目には硝子細工のように映っているのだろうか。

 この屋敷において、俺の周囲数メートルは常に誰かの監視の目に置かれ、鋭利な角を持つ家具はすべて排除され、足元には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。

 それは徹底された安全管理であり、同時に、一人の人間としての自立を阻むものであろう。


「ユウ、無理をしてはいけませんよ。移動するときは、必ず母様が抱いてあげますからね」


 母様が俺の小さな身体を横から支えながら囁いた。

 彼女の瞳に宿る深い慈愛は、一年が経ち俺が知恵をつけ始めても色褪せるどころか、日ごとにその密度を増している。

 彼女は時折、俺の左肩にある『空白』を見つめ、辛そうに目を伏せる。

 そのたびに俺は、子供らしい無邪気な笑みを浮かべ、小さな手のひらで母様の指をぎゅっと握りしめるのだ。


「あぅ……ふふ、まーま」


 一歳児らしい、ようやく口からこぼれた単語が母様の胸を打つ。

 彼女は俺を愛おしそうに抱き上げ、その頬を俺の欠落した左肩に寄せた。

 そこには肉体的な腕は存在しない。

 だが、俺が常に纏わせている左腕から延びている銀色の粒子が、母様の心身に蓄積した僅かな不協和音を、概念のレベルから静かに調律していく。


 パサージュの鍵による事象の微調整。

 俺は愛される不憫な子という役割を完璧にこなしながら、家族の健康と安寧を、この左肩の空白に宿る力で守り続けている。



 夜、家族が寝静まった後、いつもの俺の活動時間が始まる。

 一歳となった俺にとって、自力で部屋を横断することは難しい。左腕がないことで身体の重心が右に偏っており、まともに座ることさえ、本来の肉体能力では覚束ない。

 だが、俺の左肩に宿る権能は、その物理的な不自由を静かに無効化する。

 俺は寝台の上で身を起こし、青白い月光が差し込む寝室の床に視線を落とした。

 壁を支えにしなければ数秒も立っていられない、肉体的な脆弱さ。

 しかし、俺の意志は銀色の粒子を触媒として、自身のすぐ周囲にある物理法則へと直接浸透していく。

 俺は意識の奥底で、パサージュの鍵の一つ、『均衡の天秤アライメント・スケール』を静かに解錠した。


 この鍵は、対象の重さや重心、あるいは空間的な配置を、俺の意志一つで自在に書き換える権能だ。

 物理的な腕を伸ばして身体を支える必要などない。

 俺は自身の左肩を中心とした、半径数メートルほどの空間に意識を凝縮させる。

 まず、俺は自分自身の肉体へと権能を向けた。

 欠落している左側の『存在しない質量』を概念的に補填し、右側に偏った身体のバランスを完璧な水平へと整えていく。

 さらに、俺の足の裏と床との間に働く重力を局所的に調整し、どれほど不安定な体勢であっても決して倒れない絶対的な安定を定義させる。


 パサージュの鍵を回すと、一歳の俺の肉体は、物理法則を無視して床へと着地した。

 音も、衝撃もない。

 床に触れる瞬間の重さを天秤で量るように制御し、静寂の中で俺は直立する。

 左腕がないという欠陥は、この『均衡の天秤』によって完全に無視されていた。

 深夜の静かな修練は、幼児の俺に残された、世界を調律するための大切な、そして密かな訓練だった。


 ふと、廊下の奥から、極めて静かだが力強い足音が聞こえてきた。

 俺は瞬時に寝台へと這い戻る。

 数瞬後、扉がわずかに開き、細い光と共に巨大な影が差し込んだ。

 そこには、王国元帥という重責を担う武人、父様の姿があった。

 鎧を脱ぎ捨てた部屋着姿であっても、その肉体から放たれる威圧感は隠しきれないほどである。

 だが、俺を見つめるその瞳だけは、いつものように温かかった。


「……ユウ、良い夢を見ているか。腕がないことで、夜中に痛みや疼きが眠りを妨げていなければよいのだが」


 父様は、戦場で数多の敵を屠ってきたであろうその大きな掌を俺の額にそっと置いた。

 その指先は、まるで壊れやすい宝物に触れるかのように震えている。

 彼の中に渦巻いているのは、王国最強の武人としての誇りではなく、息子に完全な身体を与えられなかったという底知れない自責の塊だ。

 父様は俺の寝顔を見つめながら、自らの無力を呪うように拳を握りしめた。


「大丈夫だ、ユウ。例えその腕が空を掴めず、剣を握ることが叶わなくとも、父がお前の行く手を阻むすべての障壁を切り伏せてやろう。お前が一人で風に煽られ、涙を流すことなど、生涯にわたって一度たりとも許しはせん」


 父様の誓いは、あまりにも重く、温かかった。

 彼は俺が、指先一つ動かさず自身の周囲で世界の理を弄んでいることなど、夢にも思っていない。

 俺は狸寝入りのまま、右手を伸ばして父様の太い親指をぎゅっと握りしめた。

 父様は驚いたように目を見開き、やがて強張っていた肩の力を抜いて、柔らかな笑みを浮かべた。


「不思議だな。お前がこうして手を握ってくれるだけで、澱んでいた私の心までが清められていくようだ。ユウ、お前は我が家の、希望の光だ」


 父様が名残惜しそうに去った後、俺は再び天井を見上げた。

 家族の誓いは、俺を『無力な弱者』として邸に閉じ込める鎖ではない。

 それは、俺が真の力を育み、自身の周囲の理を確実に掌握するための、最も安全で、最も愛に満ちた繭である。

 俺はこの過保護な愛を、甘んじて受け入れよう。

 俺を不憫だと想い、守ろうとする彼らこそが、俺がその実力を隠し通し、陰から世界の敵を排してでも支えるべき対象なのだから。



 翌朝、陽光が重厚なカーテンの隙間から差し込むと同時に、ゼノン兄様とサリア姉様が、嵐のように部屋に駆け込んできた。


「ユウ!おはよう!今日は僕がつかまり立ちの練習を助けてあげるよ!」

「私が後ろからしっかり支えてあげるわ. ユウ、怖がらなくていいのよ。姉様がずっと手を引いていてあげるからね」


 二人は俺を、精巧なガラス細工のように扱い、俺が少しでも腰を浮かせるたびに大騒ぎをする。

 もちろん、一歳の俺に自力で歩き続ける体力はなく、両脇を二人に支えられながら、ようやく数歩を刻むのが精一杯だ。

 ゼノン兄様とサリア姉様に引かれるようにして中庭へと連れ出される際、俺は再び、左腕の『空白』を起点に『均衡の天秤』を起動させた。

 自分の質量を二人にとって『羽毛のように軽く』調整し、俺がどちらに傾いても自動的に重心が中心に戻るよう、物理法則を一時的に書き換える。


「えへへ、今日のユウは全然重くないわ。なんだか、ふわふわ浮いてるみたい!」


 サリア姉様は自分の力が強くなったのだと勘違いして得意げに胸を張り、俺を花壇の前へと連れ出した。

 中庭に咲き誇る、深紅の薔薇。サリア姉様が俺に見せようとして摘み取ろうとしたその一輪には、鋭く硬い棘があった。

 彼女がその繊細な指を傷つけそうになった瞬間、俺は左肩の別の鍵、『因果の筆(コーザル・ペン)』を起動させた。


 それは、既存の物質が持つ属性や定義を、現在の因果から切り離して上書きする権能だ。

 俺は至近距離にある薔薇の棘が持つ『鋭利である』という定義を、即座に『柔軟である』という属性へと書き換える。

 物理的な変容は銀色の粒子の瞬きと共に完了し、指を裂くはずだった棘は、まるで柔らかな産毛のような質感へと変貌した。


「あら、この薔薇、全然痛くないわ. きっとユウが側にいてくれるから、お花もトゲを隠して優しくなったのね」


 サリア姉様が不思議そうに笑った。

 その純粋な言葉に、俺は少しだけ胸を痛めた。

 真実を打ち明けるには、まだ早すぎる。

 俺はこのまま、彼らの愛おしい不憫な弟として生きていくのだ。

 物理的な左腕はないが、俺には『世界の理を自在に操作する自由』がある。

 この見えない力があれば、俺を愛してくれる彼らの指先一つ絶対に傷つけさせはしない。



 午後、俺は母様の膝の上で心地よいまどろみの中にいた。

 彼女は俺の左肩、何もない空間を、まるであるべき腕が存在するかのように優しくなぞりながら、静かに絵本を読み聞かせてくれる。

 その声は温かく、前世の記憶を洗い流していくようだった。

 俺は母様の胸に顔を埋め、右手で彼女の衣を強く掴んだ。

 自力ではまだ満足に歩けない幼児であっても、この『鍵』がある限り、俺は家族の心を守り、寄り添うことができる。

 家族には、ずっとこのままでいてほしい。

 俺を不憫に想い、惜しみない愛を注ぎ続け、俺の欠落を自分たちの痛みとして共有してくれる、優しい彼らのままで。

 そのためなら、俺はこの『空白』に宿る全能の力を振るい、自身の及ぶ範囲の理をいくらでも書き換えてみせる。


「あぅ……あー……」


 意味のない、だが確かな幸福に満ちた声が、午後の静かな部屋に溶けていく。

 ヴァルゼイド公爵家の末子。

 左腕のない、不憫な御子。

 その小さな体の中に、神の如きパサージュの鍵が眠っていることなど、今はまだ、誰一人として知らなくていい。

 俺は母様の腕の中で、銀色の夢を見ながら、深い眠りへと落ちていった。

 明日もまた、家族の温かな声で目覚めることができる。

 その当たり前の、けれど何よりも得がたい幸福を守り抜くことこそが、俺に与えられた、新しくも絶対的な使命だった。


 左肩の奥底で、パサージュの鍵が静かに、そして力強く、俺の幼い鼓動と共鳴していた。

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