レモンは嘘をつかない〜恋の媚薬を所望する氷の騎士がよく来るけれどそんなにたくさん売ってない〜
「はあ……」
神谷柚希は独身。趣味は家庭菜園、そして、異世界転生者だ……いや、笑えない、笑えない笑えない。
気づいたら見知らぬ森の中で、スマホの電波は圏外で手元にあるのは、なぜか土まみれのスコップと見覚えのないレモンの苗だけ。だったけど幸い、ここは言葉が通じる世界の森の奥にあるという村にたどり着くと、村人たちは森の恵みをもたらす聖女様と崇め、手厚くもてなしてくれた。
おかまいなく、おかまいなく。
正直、聖女なんて呼ばれるのは気恥ずかしいし、やたらとキラキラした服を着せられるのも抵抗があった。この異世界ではレモンが激レアらしい。酸っぱくて爽やかな香りがするこの果物は、貴族の間では恋の媚薬として高値で取引されているという。
そういえば、元の世界でレモン農家を営む祖父からレモンは正直だ。手をかければ必ず応えてくれると教わったっけな。言葉を思い出し、レモンを育てることにした……毎日、せっせと土を耕し、水をやり、話しかける。
幼い子供を育てるように、大切に大切に育てた甲斐あって、レモンはすくすくと育ち黄金色の実をつけ始めたある日、村に一人の男がやってきた。
全身を黒い鎧で覆った騎士団長、リュレイス・ハーゲンといい、端正な顔はいつも無表情で、氷のように冷たい瞳の持ち主を村人たちは恐れていたが、淡々とレモンの買い付けに来たみたいで。
「そちらのレモン、すべて買い取らせていただきたい」
リュレイスは私に向かって言った声は低く、無機質な機械。
「えっと……全部ですか?」
戸惑った。このレモンの木は初めて手塩にかけて育てたものだから売るのはいいけれど、少し寂しい気持ちになった。
「ああ。代金はいくらでも構わない」
無造作に金貨を積み上げた金額は、村一つ買えるほどの大金だったけど首を横に振る。
「申し訳ありません。これは、私の初めてのレモンの木なんです。もしよければこの木から採れた一番大きな実を一つだけ、お分けします。あとは、また実がなったら……」
何も言わず、ただじっと見つめた瞳の奥に、ほんの少しだけ驚きのような感情が揺らいだ気がした。
「……構わない。では、その実を」
差し出したレモンを宝物のように大切に受け取ったら何も言わずに去っていった数日後、村の広場でいつものようにレモンを売っていると、またリュレイスがやってきた。
「どうしたんですか、リュレイス様。まだ次のレモンは実ってませんよ?」
「いや、レモンを買いに来たのではない」
目の前に小さな箱を差し出した。
「これは、君がくれたレモンだ。食べずにずっと見ていたらなんだか少し、心が温かくなった気がした、ので……これを、お礼に」
箱の中には、見たこともないほど美しい、小さな花の髪飾りが一つ入っていた。
「……え?」
「君のレモンは、嘘をつかないな」
彼は少しだけ口元を緩めたそれは初めて見た、彼の心からの笑顔。レモンは、正直だという祖父の言葉がなぜか胸に響いた。
レモンを渡してから、リュレイス・ハーゲンは頻繁に村へ来るようになって、最初は寡黙にレモンを買い付けていくだけだったが、いつの間にか村の井戸端会議に混ざったり、子供たちに剣の稽古をつけたりするようになった。
氷のように冷たかった表情は少しずつ柔らかく、固く閉ざされた蕾が少しずつ開いていくように開く。
「あの騎士様、柚希さんが来てから変わったわねぇ」
「ええ、魔法みたい。やっぱり聖女様だわ!」
村人たちはからかうように微笑んだ。聖女なんて、似合わないけどリュレイス様が少しでも心を開いてくれたなら、それはレモンのおかげだろう。そう、レモンは正直だから手をかければ、必ず応えてくれる。
収穫したレモンを使ってタルトを焼こうとしていたのは元の世界で、祖母がよく作ってくれたレシピ。爽やかな香りが村中に漂い、何人かの子供たちが「食べたい!」と集まってきた。
「はい、みんなで分けて食べてね」
子供たちにタルトを渡していると、背後から聞き慣れた低い声が聞こえた。
「その香りは……レモンか」
振り返ると、そこにはリュレイスが立っていていつも通りの黒い鎧姿だが、瞳はタルトに注がれていた。子供たちが持っているタルトを見つめる顔は、子供のように純粋な好奇心に満ちている。
「よかったら、リュレイス様もいかがですか?」
余ったタルトを差し出すと彼は一瞬戸惑ったが、やがてそっと受け取った。余程欲しかったらしい。
「……美味い」
一言だけ呟いた言葉の重みになぜか胸がキュンとなった。
「故郷の、祖母がよく作ってくれたお菓子なんです。レモンは、タルトにするとより美味しくて……」
「君は、不思議だな」
リュレイスはタルトを一口食べながら言う。きょとんとなるこちら。
「初めて会った時から、君は他の者とは違っていた。私の力や財力に興味を示さず、ただ自分のレモンを愛おしむように育てていた」
「それは、レモンが私の初めての友達だからです。右も左も分からなかった私を、レモンだけが受け入れてくれた。だから、私もレモンに正直に向き合いたいんです」
リュレイスは何も言わずに、じっとこちらを見つめている。
「祖国は、レモンがほとんど育たない。果実の酸っぱさが毒だと考えられているからだ。だが、君のレモンは癒してくれた。毒ではないと教えてくれた」
少しだけはにかむように微笑んだ。
「君のレモンは心を解き放ってくれた。君自身も……」
心臓が大きく跳ね、タルトの甘酸っぱい香りのように胸いっぱいに広がっていく。
「毒だと恐れず、受け入れてくれたのは、君が初めてだ」
彼の心を覆っていた冷たい鎧を、一枚ずつ剥がして、レモンとタルトを囲んで他愛のない話をしながらも気づいた。リュレイスが求めていたのは、高価な恋の媚薬ではなく、ただ、心を溶かしてくれる正直なレモンだったのだと、レモンを育てる私のことを少しずつ、大切に思い始めてくれているのかもしれないと。
レモンは、嘘をつかない。
祖父とリュレイスの声が重なって聞こえたのは決して幻聴ではないのだろう。タルトの一件以来、リュレイスは日課のように私の元を訪れるようになったことに、村人たちは微笑ましく見守り。
子供たちは「リュレイス様、また柚希さんに会いに来たの?」とからかわれ周囲から、以前の「氷の騎士」という異名はすっかり消えていた。
一人でレモンの木の手入れをしている中、夕焼けに照らされたレモンの木は黄金色の実をより一層輝かせて見せる様子を眺めていると、背後からリュレイスの声。
「ずいぶん、立派になったな」
「はい。ずっと大切に育ててきたので」
「……レモンは、もう収穫の時期か?」
リュレイスはレモンに触れようとしたが手は途中で止まり、少しだけ震えているようだった。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
手を引っ込めた表情に、ほんの少しだけ戸惑いと何かを隠しているような影が見えた様子が気になり、やはりと尋ねた。
「あの、リュレイス様。何か、ご心配事でも?」
それでも答えず、遠くを見つめていつもより寡黙で何も言わずに去っていったから様子が気になり過ぎて夜、ろくに眠れなかった。
翌日は、気持ちを少しでも和らげたいと思い、あるものを作ることに、レモンを模した小さなレモンのストラップを作ろうといきりたつ。
元の世界で趣味で作っていた、フェルトマスコットの技術を応用した黄色いフェルトで、レモンの形を作り、葉っぱのフェルトを縫い付けて、ストラップの金具をつける。
一つ一つ、丁寧に手縫いをして、騎士を想いながら作った翌日、村にやってきたリュレイスに出来上がったばかりのストラップを差し出した。
「これ、よかったら、リュレイス様のお守りに」
驚いたように目を見開いた。
「これは……君が?」
「はい。レモンはお守りのような存在なんです。だから、リュレイス様にも、レモンが側にいてくれたら、少しでも心が軽くなるかと思って……あはは」
何も言わずにストラップをじっと見つめ、そろりと受け取った。
「ありがとう……。実は、明後日、遠征に出る。少し危険な場所へ向かう」
ようやく昨日の沈黙の理由を明かされ驚いたが、正直な告白に胸が熱くなる。
「レモンに触れると、心が落ち着く。君のレモンは癒しだ」
ストラップを大事そうに、胸のポケットにしまう。
「無事に帰ってきたら、また君のレモンタルトが食べたい」
自分に向かって、今までで一番優しい、太陽のような笑顔を見せられて、無事を祈りながらそんな笑顔をいつまでも、胸に刻んでおこう。レモンは嘘をつかない、この想いもきっと嘘ではない……戻ってくるまで大切にレモンの木を育て続けようと心に誓った。
リュレイスが遠征に出てから、心は落ち着かなかった。村人たちは「きっと無事に戻って来るさ」と励ましてくれたが胸ポケットに収められたレモンのストラップを思うと、どうしようもなく不安になってしまう。
不安を打ち消すように、レモンの世話に没頭し、葉っぱを一枚一枚丁寧に拭き、水をやり、話しかけると収穫したばかりのレモンの皮を使って、食べてもらいたい料理を試作し始めた。祖父がよく言っていた。
「レモンは、皮まで全部使えるんだ」
言葉を思い出し、まずはレモンの皮のコンフィチュールを作ろうと思い、刻んだ皮を砂糖で煮詰めていくと爽やかな香りがキッチン中に広がる。
パンに塗って食べてみるとほんのりとした苦味と甘さが絶妙にマッチして、とても美味しかったので次に作ったのは、レモンピールの砂糖漬け。
ホワイトデーのお返しによく作ったお菓子だ。
皮を細切りにして、何度も茹でこぼして苦味を取り、砂糖で煮詰めてからグラニュー糖をまぶすとキラキラと輝くそれは、まるで宝石みたいになるからおすすめ。
最後に、レモンの皮をすりおろして、鶏肉のソテーにかけるのは当たり前だったが、この世界では「皮は捨てるもの」という常識がある。
恐る恐る口に運ぶと、鶏肉の旨味にレモンの香りが加わり、さっぱりとしていて、何個でも食べられそう。
そんな日常を過ごすこと、三週間。村の入り口から、黒い鎧を纏った騎士たちが近づいてくるのが見え、真ん中に見慣れたシルエットがある。
「リュレイス様!」
思わず駆け寄ったら彼の顔には少し疲労の色が見えたが、瞳はしっかりとまっすぐに見つめていた。
「ただいま、柚希」
グッと無性に胸がいっぱいになったまま、彼が前に立つと自然と胸ポケットに目をやったそこには、作ったレモンのストラップが少し汚れてはいたけど、無事な姿で収まっていた。
「……よかった。無事だったんですね」
つい、胸に顔を埋めた。身体からは、遠征で付いたであろう泥と、少しだけ血の匂いがしたことも、とても安心できる香り。猟奇的な意味ではなく、この人が無傷だということだけで十分だから。
「ああ。レモンが守ってくれた」
リュレイス様は抱きしめてきて、顔が耳元に近づき、小さな声で囁いた。
「レモンの香りが、戦場での不安を何度も拭い去ってくれた」
彼の言葉に、グワッと目頭が熱い。
「あの、リュレイス様。遠征から戻ったら、食べてもらいたいものがあるんです。レモンの皮で作った、とっておきの料理です。いかがですか」
手を引いたら少し驚いたようだったが、優しい笑顔で後をついてきてくれた。
「君の料理は、どんな薬よりも癒してくれるだろうな」
微笑む彼の姿は、もう以前の氷の騎士ではなかった顔つきにレモンは、彼の心を溶かしたのだなと笑う。
「スタミナもつきますよ!」
レモンは、嘘をつかないと再確認した再会だった。
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