9話
龍の陰に隠れる形でアルカードは浮いていた。龍が男の首を掴み上げる形で、ぶらりぶらりと風に揺らさている。
長身である人型を用いている龍と、あまり背の高い方とは言えない自身とで生じてしまった死角から初めは気がたかなかったけれども。
勝負は一瞬のうちに、それこそ自分如きでは察知すらできぬ須臾の間についていた様子。最強と呼ばれた人も龍には敵わぬ、そう言った題目でその幕は閉じられていた。
「……ぅぐっ」
「……」
苦悶の表情を浮かべ声を漏らすアルカード。きっとエリュファニア様が首を絞める力を増しているからだ、少しずつ彼の首が閉まっていき、顔は青白く変貌している。
私はその様子を後ろからただただ眺めているだけ。
アルカードの唐突の謝罪と、静止間に合わず始まり知覚する前に終了した戦闘とで頭が混乱し続けている私は、何を思えば良くて、何を言えば良いのかわからずにいた。その権利があるのかすらも、今の私には分からない。
喜べばいいのか、かつて私たちを迫害した一因である彼の惨敗に。
怒れば良いのか、自分勝手な謝罪に。
哀しめばいいのか、ただ一人置いてかれているこの状況に。
楽しめばいいのか、これから始まるであろう人類最強の殺害に。
どれが私にとって正しい選択なのか、まったく分からない。敢えて言うのならば、どれも正しい気がする。これらの選択のどれを選んだとしても自然な流れだろう。
しかしじゃあ、そのどれだ、と。突きつけられると私は自分の意思を決められない。この中からどれか一つを選ぶ勇気が湧いてこない。
頭の中が真っ白だ。コレまで生きてきた生の中で培った論理回路と知識とが全く持って機能していない。
早く決めなければアルカードは死んでしまうだろう。焦りが生じて更に思考は纏まらない。頭は明確な答えを決めてくれない。
「……っ」
アルカードの顔は青白いを通り越し、もはや死人のように白一色。血色などもはやなく、頭に血が回っていないのだろう。もう、死は間近だ。
(私はいったい……)
一体、先ほどから何に葛藤しているのか。その理由がそもそも分からない。このまま黙って見守っていればいいだけの話ではないのか。
……。
いや、違う。そうじゃない。私はその選択を選んではいけない理由がある。
「待ってください!」
気が付けば、私は叫んでいた。
「……」
じろり、と龍がこちらを睨みつける。いまだ彼の顔は無表情。しかし私にはその口の両端が少しばかり上がっている気がした。
「いったいどうしたというのだ、ポシェ?」
龍は問いかける。いったいなぜ、自分を止めるのか。何かあったのか。何か『問題』があったのか、と。その行動を容認することにはどんな欠陥があったのか、と。
私は答える。確かなる意志を持って。
「えぇ、エリュファニア様。お話がございます」
「いいだろう、聞いてやる。言ってみろ」
にやりと、更に笑みを深める様な気配を感じる。実際のところ龍は無表情のままだというのに、彼の気配だけがやけに愉快そうなのだ。
その感触に、私は一つの核心を得る。
「アルカードを殺さないでください」
彼はアルカードではなく、私を試していたのだ。
「……」
龍は静かにこちらを見つめる。私もそれに向き合う様にして彼の赤き瞳を見つめ返す。きっとそれだけで彼はこちらの内心を見通すのだろう。
心が読める、ようなわけでは無いと思う。ただ只管に、彼という規格外は私の些細な瞳の動きだけで内心を推し量れる。この数日を共にして、私はそんな気がしていた。
だからこそ、私は彼に意見を言うのならばまず、瞳を逸らしてはいけない、と私強くそう思う。確かな意志もって対面しているのだと認めてもらえねば、彼の龍は聞く価値無し、と判決を下すはずだ。
故にこそ、揺るがない。私は一ミリたりとも視線を動かさない。身長差から下から見上げる構図になろうとも、気持ちだけは横並びでいるのだ。
……。
それからどれだけの空白があったか。時間にして一分程度だろうか。その間、私も龍もアルカードも、誰一人として口を開くことは無かった。
じっとりと背中に冷たい湿り気が広がる。この緊張感で溢れてきた冷や汗が服に染みを作ったのだろう。
「情けか?」
龍が久方ぶりに口を開く。それは最初で最後の問いであると、私は直感した。私の予想があっているのならば、彼が確認したかったことはこれ一つのはずだから。
「いいえ、違います」
だから私も自信をもって答えるのだ。『NO』と。彼の殺害を制止したのは、哀れみからの情けなどではないから。
「ではなぜ止める。この男は浅からぬ縁なのだろう?」
「ええ、彼との間には決して良い記憶などはございません」
「ではなぜ?」
それはまるで宗教などで存在する押し問答のようであった。問いかけによって、確かな正の道を探し試すための方法のそれ。
そしてそういう意味で、確かにこれは押し問答そのものだとも言えると私は思う。
だって龍は、エリュファニア様は確かめたかったのだ、私だけの正の道を。
その道こそ……、
「彼もまた、私の復讐相手ですから」
私のこれからの行く末、展望、そして野望。私の『復讐』という原点を。
(エリュファニア様……)
内心、龍の名前を呼ぶ。その心の声色には若干ばかりの呆れと、そして感謝を乗せて。きっと彼が望んだような反応じゃあないだろうけれど。
彼は結局のところ、目の前で実際の復讐相手を殺そうとした時の私の反応を見ようとしただけなのだろう。
そしてここで見殺せば彼はきっと、そのまま歩きだし、少しばかりして思い出したと言わんばかりにこう言うのだ。
『そう言えば貴様の復讐はなんであったか。確か、本を書く、とか言っておったな』
『あぁ、あぁ。我は期待しておるぞ、きっと貴様は書き上げるであろうよ。復讐の物語を』
『それを書き上げるうえで邪魔な者、書き上げた上で響かぬ者は間引かれるであろうからな。あぁ、その夢は確かに成されるだろうさ。アルカードとやらのように、邪魔なものたちは見て見ぬふりをすればよいのだからな』
なんという悪辣さ、なんという意地の悪さだ。いや、これは確かに私の妄想。彼がそう言うと言った確証はない。しかし、この短い付き合いの中だけでも、きっと彼はコレに類するようなことを言うだろうと私は確信していた。
今回の件はそれを言うための、私を試し、期待に添わなければ貶めるためだけの罠が張られていただけ。何度も言うが、試されていたのはアルカードではなく、私の方。
でも私はその罠にこそ感謝をする。
この過程が無ければきっと、私はどこかで折れていたか、道を歪めてしまっていた。文学による復讐という道に、どうしても敵わぬ敵がいるからと例外を設けていたはずだ。
この罠が転じて甘えに走る前に、覚悟を決める最後のピースとなった、と。今はそう胸を張れないけど、きっとすべてが終わったころにはそう言えるだろうと、私は思う。
「――っく」
龍が私の主張以来、初めて口を開く。
「っくく。ククク……」
くつくつと肩を揺らし、震わせる。もう用は済んだとばかりに龍は掲げたアルカードを適当に投げ捨てた。
ズザザッ、と地に堕ちたアルカードも何が何だか分からないと言った表情のまま、久方ぶりの制限の無い呼吸を謳歌する。
「あっははははは!!」
それは初めて聞く、心底愉快そうな笑い声であった。何度か気分が良さそう、愉快そう、という場面があったがここまで強く感情を露わにしているのは初めてだと思う。
ケタケタと腹の底から笑い、耐えきれないのか腹を抑えて。全身を震わせてそのおかしさを主張する。
返答はいらなかった。彼のこの態度こそが悠然と、私の願いに対する返答となっている。
「……嬢ちゃん、これは」
「貴方も勘違いしないで下さいね!別に許したわけじゃあありませんから!」
アルカードはそんな龍の異常な様子に気圧され、私に向かいいったい何が?と尋ねる。しかし、私には別にそれに応える義理など無いし、そもそも言いたくも無かったのでその質問には答えない。
ただ、黙ったままというのもアレであったので、一つ注意しておかなければならないことを念押ししておく。
別に今殺すなと言ったのは、助けるためなんかじゃないから勘違いなんかするな、と。
「ただその内、きっと、必ず!貴方を含めたすべての人たちに復讐いたしますので!お気遣いなく!」
有無を言わさぬ発言。しかしそれは傍から聞いたら荒唐無稽であっただろう。どこの世界に、その内復讐をするぞ、といった発言をする奴がいるというのか。そう言ったものは、内心に秘めておくものだろうに。
当然アルカードも急に何を言っているのか、と目を丸くして驚いたような表情をこちらにも向けだす。あっちの龍は笑い転げていやがる、こっちの娘は気でも違えたか、と。
だが少しして彼は何かを感じ取ったのか、
「……ははっ、そっかぁ。そうだなぁ、嬢ちゃんにならいっかな」
と。何が良いのかこちらは全然分からないが、何かを分かったような表情のまま言葉を続ける。
「わかったよ。お前さんが何企んでいるのかはわからんが、そこまで惨いモノでもないようだし……」
「そもそもオレは敗けた身だ。ありがたくも残してもらったこの命でお嬢ちゃんの裁きを待つとするよ」
そう彼は言い切ると、ばたり、と後ろに倒れ込む。
きっと限界だったのだろう。それも仕方がない、エリュファニア様にずっと首を絞め続けられていたのだ。むしろ生きている方がどうかしている。
でも、倒れている顔が笑顔で何かに満足した用でいるのは気に食わない。
私は適当に靴で地面の砂を巻き上げ、ざっ、ざっと振りかけた。いくら文学による復讐を誓ったと言ってもこれくらいは許して欲しい。そう、誰に願うのでもなく内心ごちる。
「ほらほら、エリュファニア様!いつまで笑ってるんですか!さっさと行きますよ!」
「あははははっ!」
倒れているアルカードは無視して、そのまま笑い続ける龍の手をぐいっと引いた。
何が彼にこんなに良く刺さり、壺に入ったのかは分からないが本当に愉快そうだ。笑い声が止む気配が無い。
――些か締まりが無いのは確かだが、こうして私たちの旅は始まった。