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グルビーナ

作者: イチジク



父の死から三日後、私は湖畔の館に戻った。

 春は近いはずだったが、湖はまだ氷を抱いていた。

 割れた水面には、空と同じ色の沈黙が漂っていた。


 村の者たちは、私に話しかけなかった。

 いや、私が目を合わせなかったのだ。

 何も変わっていなかった。ただ、私の中がすっかり別物になっていた。

 父の死がそうさせた――と言いたいところだが、それは方便にすぎない。

 変わったのは、もっと前。

 あの夜からだ。湖に彼女を沈めた、あの夜から。


 館には父の匂いがまだ残っていた。

 湿った煙草と、煤けた本の匂い。それに、よく分からない鉱物の匂い。

 私は食欲がなかった。眠気も、感情もなかった。

 ただ、あの水面だけが脳裏に焼きついていた。

 あの、ぐらりと揺れて、なにもかもを飲みこんだ、冷たい水面――


 その夜、音がした。

 廊下の奥から、ぽちゃんと。

 水滴が落ちる音。


 寝室のドアを開けると、床が濡れていた。

 冷たい水たまり。けれど天井からは雨漏りなどしていない。

 何より、靴の跡があった。裸足だった。


 私は思わず息を呑んだ。

 それは――彼女の足だった。


 あの夜、私の手で湖へ沈めた女。

 彼女は死んだ。だが、私の中では、まだ足音を立てていた。



 翌朝、私は村の老人を訪ねた。

 かつて父の友人だった神父――というより、今では“狂人”と呼ばれている男だ。

 彼は水と死について、こう言った。


 >「お前はまだ、底まで沈んでいない。だから、見えるのだ。

 > 本当に深く沈めば、何も見えなくなる。音も、声も。だがそれは――救いではない」


 私は言葉の意味が分からなかった。

 だが、夜になって分かった。


 再び、水音がした。

 今度は、囁き声も混じっていた。


 >「わたしはここにいるよ……あなたのなかにいる……」


 凍りついた。声は、確かに彼女のものだった。

 あの、笑うでも泣くでもない、奇妙に静かな声。

 私はあの夜を思い出した。

 彼女は私の頬を撫でて、

 >「きっと、あなたは誰も殺さない人になると思ってた」

 そう言った。そう言ってから、湖に落ちた。


 違う。私は――私は彼女を殺してなどいない。

 選んだだけだ。沈めることを。



 次の夜、私は水音を追って地下室へ降りた。

 懐中電灯を灯すと、そこにも水たまりができていた。

 そして、壁には父の声が彫りつけられていた。


 >「罪を記憶する者は、幸福にはなれない。

 > だが、忘れる者は人間ではない。」


 私は嗤った。声を出して、狂ったように嗤った。

 父は知っていたのだ。

 私が湖の底に沈めた“良心”を。

 私が静寂という仮面の下で、何を隠してきたかを。


 そして今――それは戻ってきた。

 水となって、声となって、足音となって。

 私の中にいた彼女。

 私の中にいた、もう一人の私。



 私は今、湖のほとりに立っている。

 氷はすっかり溶け、底が見えないほど澄んでいる。

 だが、私はその底を知っている。

 その深さを、沈黙の重さを。


 声はもう聞こえない。

 水音も、足音も、囁きも。

 きっと私は、本当に沈んだのだ。


 ――だから、もう何も怖くない。

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