9月24日⑧
あくまで私見だが、あらゆる分析や推理は、1つの立脚点を見つけるところから始まるものである。その「立脚点」は、「(分析の)対象」に見出される場合もあれば、「(分析の)主体」の内部に(ある種の「信念」のようなものとして)いつしか刻み込まれている場合もある。翻ってこのケースを鑑みれば、「立脚点」は前者、すなわち「キノコ」の「嘆き」を具現化したその実際の文言(以下、Nと記載)に備わっていると言ってよい。
例えばその後半部、「もう二度と出てこれんよ」という箇所には、同一の言語体系を常用している者からすれば絶対に無視することのできない明白な特徴を見て取ることができる。……もうお気づきのことだろう。そう、「ら抜き言葉」である。
我が国の口語文法において、「可能」の意味を持つ「助動詞」には、「れる」と「られる」の2種類が存在しており、両者は上に来る語の種類によって使い分けられている。五段活用・サ行変格活用の動詞に接続する場合は「れる」が、その他の場合は「られる」が、それぞれ用いられるということである。そして翻ってNに目を転じ、そこに見られる「出る」がダ行下一段活用の動詞であることを踏まえれば、本来「出てこれんよ」ではなく、「出てこられんよ」としなければならない。それも絶対に確実に間違いなく、間違いのないことだ。
だがもちろん私はここで、口語文法の豊富な知識の披露を行いたいわけではない。
そもそもその種の情報というのは、わざわざ人から教えられずとも、PCか何かを開き、ほんのしばらくの間電脳空間内を揺蕩いさえすれば、それこそ腐るほど入手することが可能である。また、若干パラドクシカルではあるが、「文法を知らずにその言語を話せることが母語話者の定義である」という考え方も世間には事実として存在している。にも拘らず、「文法的には間違っている」だとか何とか、我が物顔でペラペラと並べ立てるのだとすれば、それは「博識」というよりもむしろ可哀そうなまでに愚かな「間抜け」の所業であるとして即座に切って捨てられて然るべきだろう。違うか?
だからそうではなくて私が注意を促したいのは、「キノコ」由来の「嘆き」が、単なる突発的な真情の発露ではなく、明確に私に向けることを意図して構築された、極めて計画的な「メッセージ」だったという点である。なぜならその事実を踏まえると、文法的に破格を来たしているはずの「ら抜き言葉」が、実際には「らを抜け」という指示を内蔵したものであることが判明するからである。
そしてその指示に従うことで、Nは以下のようにまず一つ目の変化を遂げることとなる。
【前】「裁判になったら、もう二度と出てこれんよ」
→【後】「裁判になった、もう二度と出てこれんよ」
だがもちろんこれでは十分ではない。容易に見て取れる通り、その文言の前半部(「裁判になった」)と後半部(「もう二度と出てこれんよ」)の間には明らかに大いなる断絶が横たわっている。ではそれを解消するにはどうすればよいのか?
ここで思い返していただきたいのは、Nには「メッセージ」以外にもう一つ、全く別の性質が備わっていたという点である。その「性質」とはすなわち、「独り言」だ。より正確を期せば、「メッセージ」でありながら「独り言」でもあるという両義的な身分こそ、Nを他と区別して際立たせる重要な特徴だった。そしてだからこそ、今から我々は後者、すなわち「独り言」という性質の側について、より深く掘り下げていかなければならない。なぜならNが「ら抜き言葉」において明確な「メッセージ」性を発揮していることはすぐ前で既に見た通りであり、であるならばその同じNがさらなる真価を発揮するためには、「メッセージ」以外の性質、すなわちそれの「独り言」としてのポテンシャルを最大限引き出してやる必要があるからである。




