9月24日⑤
「事務所」内のどこかから、いつか耳にした記憶のある「ぎゃーてーぎゃーてー」が聞こえ始めた気がしたところで、私は耳の後ろ辺りが粟立つのを感じ、それに駆り立てられるようにして走り始めた。先に述べた通り、私の動向は今現在Hに筒抜けらしいので無駄なのかもしれないが、オオタニに自らの意図を気取られないようにするためというのもあり、玄関ではなく、例の「書斎(=子供部屋=封印領域)」の方へ向かった。だが今回の「意図」は、そこの「調査」ではなかった。
足早に部屋を突っ切るとガラス戸を引き開け、ベランダに出た。「戸」の「ガラス」の表面にガムテープか何かが大量に張り付けられて彩を添えているように見えたのは、恐らく気のせいだろう。そう言い聞かせながら、勢いそのままに柵の上に飛び乗ると、一気に踏み切った。
飛翔が始まった最初のタイミングでは、ただひたすら心地よさだけに支配されていた。少しずつ秋が深まりつつある時期の宵の空気が、火照った身体を優しく包み込む。
しかしもちろんそれは長くは続かない。
やがて下向きの移動が始まるのとほぼ同時に、下腹部のあたりに嫌な冷たさが走る。地面に向かって引き付けられる感覚が生まれ、肉体と内臓とで落下の速度にズレがあると感じた時、初めて強い恐怖に襲われた気がした。コンマ数秒経過すれば、今考え感じている全てが消えてなくなるかもしれない……。それはある意味で理想的な展開とも言えるが、ほどなくして実現し得る事象として目前に突き付けられると、やはりひどく虚しく、寂しく、恐ろしいことのように感じられるのだった。
だが結局その恐怖も一時のことに過ぎなくて、気づけば私は既に自転車置き場の屋根に到達していた。「事務所」のベランダのほぼ真下に設けられたその屋根は、建物の2階ぐらいの高さに位置し、またプラスチック?のような材質でできているためなのかそれなりにクッション性もあって、飛び降りるにはもってこいの場所なのだった。
「名探偵」であるからにはあらゆる事態を想定しておかねばならないのは自明であり、中でも「事務所」からの脱出というのはその「事態」の典型と言える。それゆえ私は玄関から外へ出る正規ルートの他に、今回の「ベランダ→自転車置き場の屋根」というパターンに関してもシミュレーションを重ね、緊急用のルートとしてひそかに(脳内で)開発を進めていた。「マンドリル」の手による凶悪事件の発生を受け、私が即座に「脱出」への道筋を立てることができたのも、ひとえに常日頃からの訓練(脳内での)の賜物である。
しかし「想定」と「現実」とにはやはりわずかながら齟齬があった。大きなところで言えば着地の音、そして着地時の衝撃である。前者に関しては、実際の着地の瞬間の一回だけでなく、その後何度か繰り返して屋根を踏み鳴らしながら、「地震雷火事親父とはまさしくこのことか……、うわぁ、雷キタぁ! 雷が来たぞぉ! 早く隠れろぉ! 雷が、来たぁ! 俺の臍を取りに、雷の野郎がァ……キタぁ!」とか何とか、適当にしばらく叫び続けることでカムフラージュすることができた(つまり「着地音」を「雷が落ちた音」に紛らせたということ)が、後者に関してはそれなりに参った。「プラスチックか何か」だと思い、舐めていたのだが、金属製のバーが屋根を支えるようにいくつも交差する形で渡されていて、そのせいでまともに衝撃を受ける形になった足首が、動かそうとするたびに刺すような痛みを訴えるようになってしまった……。
だがもちろんそんな個人的な問題にかかずらっている場合ではない。と言うかそもそも大した問題でもない。ただ私のシミュレーションと、日々の鍛錬が足りなかったというだけだ。
それゆえすぐに気持ちを切り替えると、痛み止め代わりにそこらへんの樹木の草をむしって食べた後、私は再び走り始めた。オオタニをはじめとするHの連中が、少なくとも視界に入る範囲にはいないことを確認しつつ、Rからいただいた教訓(「人間が人間であるためには、人間であることをやめなければならない」)を踏まえ、人外レベルの加速へと移った。ほとんど四つん這いになりそうな姿勢で、全身を最大限伸縮させながら前へ前へと進む様は、すれ違う者に、まさしく獲物を追うチーターを彷彿させたことだろう。
ところで、それほどまでに急いで私はどこへ向かおうとしていたのか。




