9月24日③
混乱する気持ちを少しでも制御するため、カーテンレールを手でつかみ、懸垂の要領で身体の上げ下げを繰り返していると、唐突に声がかかった。
「あれ? これってもしかして……、キクチさんキクチさあん! ちょっと来てください! キクチさあん!」
遠くの方、恐らく応接室兼リヴィングの辺りから廊下を経由する形で大声が届けられたわけだが、声の主は言うまでもなくオオタニだった。「~だった。」だなどと大仰な口調で断定してはみたものの、もちろんその事実自体にはその実何らの破綻も特筆すべき点も見受けられない。室内でいきなり大声を上げるというのは間違いなく異常行動の典型であるが、オオタニもまた、まさしく異常者の典型であるからだ。
だが反面個人的には、まず「遠くから大声で呼びかける」という行動自体が常識の範疇から超え出ており、それゆえ生理的に不快でならず、その結果、即座に頭部から顔にかけての皮膚が微細な粒子で覆われるというイメージに襲われることが始まった。曲がりなりにも「野獣」の類ではなく「人間」を自称するのであれば、何か伝えたいことがある時には遠くから叫ぶのではなく、まず近づいてきてそれから静かに丁寧な口調で話してくれ、と私はそういう至極真っ当なことを思い、写真の件で既に落ち込んでいた気分が、最底辺のさらに下へ下へと徐々にだが確実に沈み込んでいくのを強く実感した。……だが。
だが、オオタニが黒幕なのであれば、ここで取り乱すのはむしろ思う壷であろう。
そう見事に冷静に状況判断を行い、半ば無理やり気鬱を封じ込めた私は、いったん台所に立ち寄り、買いだめしてあったエナジードリンクを一気飲みしてからリヴィングへ向かった。その正体が黒幕と判明してからも、私はそれまでと変わらない距離感でオオタニと接してはいたが、それでも面と向かって対峙する際には緊張せざるを得ず、それゆえそのような必要性が生じた際には、事前にエナドリを充填し、可能な限り意識を覚醒させておくことを心掛けていた。
だが結論から申し上げれば、その時リヴィングにいたのはオオタニだけではなかった。
点けっぱなしのテレビの画面の左右に分かれるようにして立ち、何やら話し込んでいるのは、オオタニと……、Z? そう、間違いなく「サ●エ」そっくりのあいつだった。
……いや、だがこの女はいつも本当にいったいどこから沸いてきやがりくさるのか? もしかして、この「事務所」内に生息しているのではあるまいな……。
怪訝に思った私がひそかに顔をしかめていると、オオタニはこちらに目線だけを送ってチラリと一瞥した。そして次の瞬間、真正面からZに素早く近寄り、その肩をほとんど叩くような強さでわしづかみにした。これだけ出没が頻発すればもはや偶然で片づけることなどできず、だからその時点の私の中で、Zは「単なる不審者」どころではなく、「犯罪者(不法侵入・不法滞在)」に該当するとの理解が生まれていた。それゆえZに同情するなど、どうまかり間違っても絶対にあり得ることではないのだが、それでも事実として、「脱臼」や「骨折」の恐れが気遣われるほど、Zの肩回りはか細く、またオオタニのその肩を握る力は強そうだった。
しかしもちろんオオタニはそれだけで済ますことはせず、Zの肩を激しく揺さぶるとともに、「お前じゃない」と繰り返し呟くことを開始した。愛想も何もないその無機質な声音はお経でも唱えているようで、普段私と接する際、奴がどれだけ自らを粉飾しているのかということがはっきりと知れた。その言わば「機械的」な働きかけに対し、Zはこの期に及んで、「ちょ、何? やめなさいよ、あんたの辞書には『親孝行』の文字はないの? いい加減にしてよ、もう嫌だ、何もかもが嫌になった、飼い犬に手を噛まれるとはまさしくこのことか……」とか何とか戯言を漏らし出したが、オオタニはそれに全く取り合わず、やがて無言になってZを押すようにすると、私の脇を通過して部屋の外、廊下の方へと追いやっていったのだった。
呼ばれたのでわざわざ来てやったというのに、結果的に一人取り残される羽目に陥った私は、とりあえず椅子に腰を下ろすと、膝に肘を乗せて頬杖を突き、何の気なしにテレビの画面をぼんやりと眺めることをしていた。机の上には灰皿が置かれていて、タバコの吸い殻がいくつも積み重なって残されているのがわかった。視界の隅で捉えただけで頭に血が上る。……あのヤロウ、こちらの気も知らないで、一人でくつろいでいやがったな……。
改めて怒りに駆られるのを感じたのも束の間、あたかも私個人目がけて敢えて放たれたかのような偶然のタイミングで、テレビからとんでもない情報が流れてきた。
「……なん、だと?」




