小休止⑨
可能な限り客観性を担保するため、ひとまず「音」と表現しておいたが、実際にはその「実質」は言うまでもなく、「Wの歌声」である。そう、奴は私を黙らせた後、帽子を跳ね飛ばさんとばかりに頭を大きく揺り動かしながら熱唱を開始したのだ。その様子を呆然と眺めながら、私は不意に、「どこかで同じ光景に出くわしたことがある」との思い(通称「デジャヴ」)に襲われたが、ほどなくして「熱唱」の「曲目」がベートーヴェンの「交響曲第5番」だと気づくのと同時に、Wに自分がダブらせているのが、奴の話の中に出てきたハギワラヨウコだということに思い当たった。ヘッドバンキングと突然のクラシック音楽の熱唱……。だからすぐ前に明示しておいた「ジャジャジャ……」とか何とかいう「音」の表記についても、私自身が表現力の貧困さゆえ、あまりに陳腐な「音写」(例えば犬の鳴き声を「ワンワン」と表記するような)を行ってしまったのだと受け取ってはならない。むしろただ単に、Wがそのような「音」を、実際に口から発していたというだけの話なのである。
身の内から湧き上がってくる様々な感情の渦を必死に押さえつけながら私が黙ったままでいると、Wはやはりその同じフレーズだけを延々飽きもせず繰り返し続けた。初めのうちは非常に斬新なギャグとして、ある意味興味深い見世物のように思われなくもなかったが、残念ながらもちろんそんなのは所詮「初めのうち」だけだ。
わりと余裕をもって空に残っていたはずの日が完全に沈んでしまったところで私は1つ大きなため息をつくと、「壊れた蓄音機」と化したWの脇をすり抜け、ブランコに近寄った。そしてもともとそこで予定していたトレーニングメニューを駆け足でこなすと、今度は本当に公園を後にし、「事務所」に戻った。
一応「鍛錬」の目的は果たせたとは言え、なかなかどうして稀有な体験で満ち満ちた、刺激的な幕間であった。私は走りながらもう一度ため息を漏らし、それ以降、周囲に反響する規則正しい足音にのみ耳を澄ませた。
だが結論を先取りする形で予め申し上げておけば、この公園で出会った2人のうち、少なくともWの方だけは、一見そうは見えなくとも、実は私に対して非常に有益な情報を提供しようとしてくれていたのだった。
「事務所」の扉を開け、何に入ってすぐのことである。
「あ、やっと帰ってきた、遅いすよ」
屈んで靴を脱いでいた私が、その声に思わず顔を上げると、目の前に意外な人物が現れた。
「おま……、なんで?」
「ナンデ……、も何もないすよ、今何時だと思ってるんすか? 勤務時間、とっくに終わってますよ、残業代、期待していいすよね」
「……」玄関のタタキから少し離れた廊下に立ち、気色悪い微笑を浮かべながらこちらを見ている人物、それは間違いなく、失踪していたはずのオオタニだった。
……今までいったい、どこにいたのか?
姿を認めた瞬間、ほぼ条件反射のように脳内にその疑問が浮上したのとほぼ同時に、私は公園の雲梯のところで「振り返り」をした際、自分が忘れていたのがオオタニだったということに気がついた。しばらく会っていなかったので存在自体を失念していたが、言うまでもなくオオタニこそ、本来「異常者」のカテゴリの中心に据え置かれて然るべき超重要人物だろう。
だが、それだけではない。
私はその時、同時にもう一つ、重大な天啓を得ていた。
それは先にも軽く触れておいたが、Wがイカれている風を装っていながら、実際には非常に重要な示唆を私に与えてくれていたというものである。どこに潜んでいるかわからないスパイの類に盗聴されるのを恐れ、敢えて意味不明な言動を繰り返し、本当に伝えたいことをその中に巧妙に混ぜ込んでいたということだ。根拠は奴が言葉に力を込め、「この世界がおかしい」などと戯言をほざいていた箇所において、最後に次のような疑問を呈していたことである。
「大本を断つには、どうすればいいのか?」
より正確を期せば、重要なのは疑問を提示したことではない。その「疑問」それ自体である。……お分かりいただけるだろうか?




