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小休止④

 しかし「思考」の周囲に巻き付かされた「常識」という名の縛りを取り払ってみれば、Sの行動は結局のところ、全く以て凡庸なものに成り下がることとなる。ここで言う「凡庸なもの」とは、「誰もが日常的に取り組むもの」という意味ではなく、「特別立派な頭を持たずとも理解できるもの」という意味合いで理解されたい。「飛び降りた」わけではないのだとすれば、「駆け出す」方法はもとよりただ一つしか存在しない。そう、雲梯の上部を疾走するのだ。すなわちSは、私の再度の声掛けに反応し、さらに熱意を込めて叫びを口から溢れ出させたかと思うと、跳ねるようにして雲梯の鉄棒の上をものすごい速度で往復し始めたのである。

 ほんのわずかだけ遅れて絶大なボリュームの金属音が周囲に響き渡った。まさかお忘れなどということはないように思うが一応注釈を施しておけば、Sはスパイクを履いており、その裏面には複雑な形状の金具が装着されているはずだった。つまりその金具と雲梯の鉄棒パイプとが容赦なくこすれ合いぶつかり合ったわけである。聞くだけで身の毛のよだつような叫びと、耳障りな金属音……。それらが互いを相殺し合うようにして飛び交う一帯においては、その時ごく控えめに言って、「地獄絵図」以外に如何とも形容しがたい正真正銘の「愁嘆場」がお披露目されていたと言ってよい。

 とは言えその「地獄」は、本来であればそれほど長くは続かないはずだった。なぜならどれだけ忌まわしき「呪物」めいた代物であろうと、公園の雲梯など所詮、単なる「遊具」でしかあり得ないからだ。サイズを甘めに見積もってみたとしてもせいぜい全長10メートルほどがいいところであり、それゆえ駆け出して数秒もすれば端に辿り着くだろうということはあまりにも自明に過ぎた(あくまで梯子状のその「道」を、最後まで駆け抜けられればという話だが……)。

 ……つまりほんの少しだ、ほんの少しの間だけ、心を殺してじっとしていればよいのだ、そうすれば雲梯は空くことになり、晴れて俺に使用する順番が巡ってくる、それまでの辛抱だ、もちろん「それまで」の間だけでも、自らの精神に多大なるストレスがかかることは否めない、だが「名探偵」として経験してきた数々の苦境に比べれば、全く恐るるに足るものではない……。

 私は呆気にとられながらも、脳の中にかろうじて残った冷静な部分で自らにそのように言い聞かせながら、「心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却……」と繰り返し、何とかその場を乗り切ろうとした。

 しかし残念ながら、雲梯の上を叫び散らしながら駆け出すという行為が何よりも雄弁に示している通り、通常の人間とはあまりに大きくかけ離れていると思しき生き物に、所詮「対症療法」に過ぎない私の場当たり的な「処世術」は全く通用しなかった。「通用しなかった」というよりも、そもそも「適用させる余地すらなかった」とするのが正確だろうか。なぜなら雲梯の上でのSの疾駆は、結局のところ「終わらなかった」のだから。

 奴は雲梯を「駆け抜ける」のではなかった。あたかも極限まで頭が沸いてしまっているようでいて、実際にはそれなりに理性を保てていたということなのか……? 本当のところはわからないが、いずれにせよ、雲梯の端まで来たSは、そのまま中空を駆け抜けて地面へ突っ込んでいくのではなく、むしろその展開を回避すべく、素早く身を翻して引き返した。そしてまた逆側の端まで達すると同様の動作を実行し、結果的に「反復横跳び」よろしく、複数回の往復を達成したのだった……。

 これにはさすがの私も恐れ入った。非常に恐れ入らされた。このところ連続して襲ってきた数々の異常事態のせいで、少しは耐性が付いたと思ってはいたのだが、「現実」は私の成長速度を軽々と上回るスピードで「ヤバさ」を更新してくれているようだった。

 そしてその最中ふと気づいた時、Sの「叫び」はいつしか「わけのわからない雑音」から「意味の理解できる声」へと変貌を遂げていた。私の聞き取れた範囲でそれを記述すれば、以下のようになる。

「うるせえんだよ、うるうせんだよっ! るるせえんだっ! いったいなんなんだおまえらクソガキはよぉっ! なんか勘違いしてねえか、あああ? テメエらクソガキどもは、自分たちが存在しているだけで邪魔だということに全く気づかず、むしろ生きていてよいのだと神からお墨付きを頂いているかのように、毎日のうのうと他人に迷惑をかけながら生きておりくさりやがる、なぜそんなことが平気でできるのか? 恥ずかしくないのか? ……まったくいい身分だ、いいご身分だ、だが俺は認めない、絶対に認めない、全てぶち壊してやる、全て滅茶苦茶にしてやる、覚悟しておけ、震えて眠れや」

「……」たわけている、あまりにたわけていすぎる……。


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