小休止③
その様子を見た私は呆れるよりも前にまず憤慨した。例えば雲梯と接触していない時間が5分を超えると、自動的に呼吸困難に陥って命の危険があるといった理由をお持ちなのであれば、私も場所を譲ることにやぶさかではないが、他人が酒を飲んで気持ちよくなることと引き換えに、自身がさらなる「高み」を目指す機会を奪われたとあっては、さすがの私も堪忍袋の緒をブチ切らないわけにはいかない。
それゆえ私は例によって常に携帯している「黒ひげ危機一髪」のナイフをポケットの上から触れて確かめつつ、音もなくSに近づいて言ったのだった。
「おい、おっさん」
「……」
星座鑑賞のシミュレーションでもしているつもりなのか、のどぼとけが鋭く出っ張るほど顔を上げてまだ明るさの残る空を見ていたSは、何も言わないままゆっくりと視線を落とし、私を見据えた。脳の襞の一つ一つまで、隈なくアルコールが回っていることを窺わせるような、非常に胡乱な目つきだった。
私は余計な面倒事を避けるため、さも初対面であるかのような口ぶりでさらに言葉を続けた。
「おっさん、邪魔だからちょっとそこ降り」
「あなたはこの世界は何もかもが間違っていると、そのように思ったことはありませんか?」
「は?」
「この世界の全てが完全におかしく完璧に異常であると、そう思ったことはないか?」
「……あのなあおっさん、あんたには時間が無限にあるかもしれないが俺は忙しいんだよ、さっさとそこを」
「¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥……」
ただ純粋に聞き取ることさえ困難なセリフを叫び散らし始めるのと同時にSが駆け出したのは次の瞬間だった。
この明らかに問題含みなSの行動を、ごく普通のありふれたものであるとして、穏やかに受け流すことのできる者は、極限まで神経を弛緩させた有象無象どもがアホ面晒して闊歩するこの世界にあってさえ、さすがにそう多くはいまいだろう。逆に言えば、それを爽やかに笑うなどして軽く受け流せる類いの人物は、マハトマ・ガンディーよりもよほど慈悲深い反戦主義者として、即座にノーベル平和賞を授与されて然るべきか、もしくはあまりに多くの困難を経験しすぎたせいで著しく注意力を鈍麻させたある種の心神耗弱者として、即座に心療内科に移送されて然るべきだろう。それくらい、ここでSが披露し始めた行動のおかしさは明白ということだ。
だがそれでいて反面、くだんの行動における「最大の問題」に気づける者は、そう多くはないはずである。
難しいことを考えずいったん頭を空っぽにして、やはり虚心坦懐に考えてみたまえ。ほとんど見ず知らずの人物が突然すぐ近くで「ただ単に聞き取ることさえ困難なわけのわからない言葉を叫び散らし始め」た場合、偶然その周囲を通りかかった者は、例外なくその「叫び」の方にこそ意識を捕らわれてしまうのではなかろうか。当然と言えば当然だ。これまで幾多の修羅場を潜り抜けてきた私でも、その「叫び」は日常の中に含まれてはいない。
しかし、実際により重要なのは、0コンマ数秒の間隔を経て実践に移された後半の行動、すなわち「駆け出した」という方である。
思い返してみれば直前、男は雲梯に腰かけるようにして足をぶらつかせていたのであった。例えばその体勢から即座に「叫び散らす」へと移行することは、倫理的かつ常識的な基準からすれば、通常は限りなく実行に移されにくいものでこそあれ、それでも「可能か不可能か」という観点に限って言えば、全く以て不可能ではない。普通の感覚の持ち主は、そのような「凶行」に手を染めることは絶対にないが、それでも、やってやれないわけではない、ということだ。
だが、反面「駆け出した」という点に関しては、話が別である。なぜなら何度でも繰り返すが、その直前Sは雲梯に腰掛けていたからだ。
もちろん仮に「いったん雲梯から降り、その後地面を駆け回った」というのであれば、特に問題は生じないのかもしれない。だが残念ながら、そのある種「好都合」な展開の仕方は、ここではもとより発生しうる出来事のパターンから排除されている。これまでの記述から明らかな通り、「名探偵」の私は「厳密さ」を何より重んじる性格であり、それゆえ仮にSがそこで「いったん雲梯から降り、その後地面を駆け回った」のであれば、「雲梯から飛び降りた」といった類の描写を確実に挿入したはずだからだ。
翻って考えれば、だからそうではなく、「ただ純粋に聞き取ることさえ困難なセリフを叫び散らし始めるのと同時にSが駆け出した」とだけ叙述したのは、内容に含みを持たせ、何となく意味深な感じを演出したかったのではない。そのようなプロセスが、現実に、実際に、存在しなかったがためだ。
では改めて問うてみれば、Sは雲梯から降りることもせず、いったいどのようにして「駆け出した」というのか。




