接触Ⅱ⑮
まずインターフォンを鳴らしてみた(ボタンは門柱に埋め込まれていた)。1度目は何も応答がなく、さらに何度連打してみても反応はなかった。庶民の相手はしていられねえと、要するにそう考えて居留守を使っておりくさりやがるわけだと、私は事態をこれまた正確に看破し、同時に非常に嫌な気分に襲われることとなった。そもそも一応確認しておけば、「ここ」へやってきたのは私の望みではないのである。怪しい人物を予め掃討しておくことで、近い未来に確実にこの街で起こるであろう事件の数々を未然に防いでやろうという、極めて感心な奉仕精神に基づく利他的行動というのが、この時の私の「お宅訪問」の真実なのである。にも拘らず、なぜこれほどまでに見事に無視されなければならないのか? 全くもって、理解に苦しむ……。
しかし、傘地蔵のジジイもひれ伏すレベルで寛大な俺は、それでもなおしばらくの間努力を続けた。
インターフォンを押すだけではあまりに芸がなさすぎたかと反省し、もっと相手を楽しませてやろうと、門の表面を握りしめた拳で思い切り殴りまくりながら、どこかで聞きかじった歌を覚えているがままに熱唱してやったのである。
「のっくのっくのきのんへぶんずだああ、のっくのっくのきのんへぶんずだああああ♪」
もちろんそれはボブ・ディランの「Knockin' on Heaven's Door」である。要するに、ただ無料で美声を聞かせるというサービスを施してやるだけではなく、その家のご立派な門に、「天国の門」という称号を与えることまでして差し上げたという寸法なわけだった。あまりに事実と乖離した「持ち上げ」っぷりに、ごく普通の神経を持つ者であれば赤面を禁じえないはずである。だが殊に「目的の遂行」という点にのみ特化して考えれば、この時の私の試みはどうやら功を奏したらしかった。
姿を見ることができなかったため、確証があったわけではないが、恐らく「家主」と思われる人物が、「インターフォンのスピーカー越し」などという非常に僭越な手段で以て私に語りかけてきたのだ。
「うるせえな、警察呼ぶぞ」
それだけだった。私の人知を超えたレベルの思いやりに対し、ただ一言、それだけを呟くと、「家主」は通信を断ち切り、再び辺りは沈黙に満たされた。近くの公園で羞恥心の類いをほんの欠片も持たないことを敢えて表明するかのように好き放題大暴れしまくっているらしいクソガキどもの奇声や、時折通過する車のエンジン音がやけに大きく誇張されて響いて聞こえる……。
恐らく預言者「卑弥呼」でさえ予想できなかっただろうこの(裏の意味での)「神展開」に対し、私が非常に激烈な勢いで憤慨しただろうことは想像に難くない。何しろ何度でも繰り返すが、その時私が取り組んでいたのは、はっきり言ってある種の「ボランティア」であり、「無償の愛」、すなわち所謂「アガペー」の極めて理想的な形態における発現にすぎず、しかも特に私自身、それをしたいと強く望んでいたというわけでもなかったのだ。私はただ、完全な意味で善意から、故イマニュエル・カント翁流に言いかえれば、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為」しただけなのである。「非常に激烈な勢いで憤慨」したのは、明らかに正当な反応であったと言えるのではなかろうか……。
実際、生まれてから死ぬまで「暖かな家庭」とかいう名称の温室に浸りきり、外界に対するセンサーの機能を極限まで鈍麻させた世間一般の偉い偉い人間様ならば、その「激情」にごくごく単純に身を任せる形で例えばインターフォンを力任せに叩き潰し、その結果「SEC⚫︎M」に確保されるといった運命を免れ得なかったはずである。
しかし私は違った。
「名探偵」の地位と名声を恣にした時から、「自分」というものを完全に手放し、どんな時でも常に無意識に「他人」の側に自らを位置づけるよう鍛錬し続けてきた私は、この時もまたその習慣を照らし合わせて行動を起こさないわけにはいかなかった。もちろんそれは「無意識」、言うならば自動的に発動したのであるからして、「行動を起こさないわけにはいかなかった」などと、何か自らの意志に基づいて行動したかのように言うのは本当は語弊があるのであるが、まあそんなことはこの際どうだってよろしい。重要なのはその思考のスタンスとでも言うべきものが、私に対して如何ように機能したのかということである。すなわち、私以外の誰もが「失礼」であり「不愉快だ」と感じるであろう先のセリフに対し私は、確かに心の片隅ではそいつらゲス(=「私以外の全員」)と同じようなことを考えていながらも、すぐさま事象を客観的に捉え返し、別の可能性を思いつくまでに至ったのだ。もう少しわかりやすく言えば、故エトムント・フッサール翁がドヤ顔で唱えているところの「エポケー」(あらゆる先入見の類いを廃し、対象を可能な限り虚心坦懐に眺めやること(=「カッコ入れ」)、と私は解釈している)の技術に非常に長けている私は、ここでもやはり「自然的態度」に「カッコ入れ」を施した上で先のセリフに立ち向かうことができ、結果的にその表面的な攻撃性の背後に巧妙に隠された真の意味を見抜くことに成功したのだった。もちろんここで言う「真の意味」とは、ある特定の個人の恣意的な解釈により外的に付与されるものではなく、事物自体にもとより備わった、ある決定的な因子のことを指している。




