接触Ⅱ⑦
それだけの情報を、私は目の前の光景から即座に瞬時に抽出していた。
もちろんその卓越した状況把握能力は、私からしてみれば取り立てて特別なものでもない。そもそも「名探偵」である私にとって、「監視」というのは息を吸うのと同等に馴染み深いある種の「行住坐臥」であり、だからこそ私はそれに対して一家言を有していると言ってよい。「こどおじ」がただ単にライオンに跨って大喜びしているだけでなく、ある特別な意図に基づいてやはり何者かを「監視」しているのだということに気づけたのも、上述のように私自身が「監視」の大家であるがゆえである。
しかし「そこ」まで順調に頭を働かせて推論を進めることのできた私は、実際には「そこ」でしばし逡巡し、停滞することを余儀なくされた。
もちろんこう言ったからと言って、例えば私が刃渡り3メートルのナイフで串刺しにされることを心底恐れていたなどと、たわけた考えを起こしていただいては困る。「名探偵」の宿命として何者かに四六時中狙われ続けていること、そしてその結果、不意に命を脅かされる可能性があることを、私はいつでも覚悟していなければならず、それ故、そのことを「恐れる」などということは決してあり得ない。Hと敵対するというのは、要するにそういうことである。
またそれとは別に例えば、私の「逡巡=停滞」の理由の一つとして、見た目からしてトラブルの気配を色濃く漂わせる人物と交流を持つことが絶対に得策ではないと気づいていたから、というのも想定されうるが、実際にはそれもまた、真の理由にはなり得ない。いったん頭を空っぽにし、冷静になって客観的に考え直してみたまえ。「トラブルの気配」にいちいち慄いているようでは、それこそできるだけ早く探偵業を廃すのが賢明ではあるまいか……?
では結局なぜその時、私は「こどおじ」に接近することを躊躇ったのか。
可能な限り明確に、かつ端的に名状するならば、それは「こどおじ」の奇行が、さらに一段階、いや数段階を飛び越える形で、一気にレベルを向上させたからに他ならない。
私が近づこうとした矢先、突然次のような声が、周囲の静寂を引き裂くように響き渡り始めた。
「パカラパカラパカラパカラッ、さああ第3コーナーを曲がって最後の直線だあ、各馬一斉に鞭が入る、ビシッ、おおっと、ここで後方から猛然と追い込んでくる白い影、ミドリマ●バオーだ、ミドリマ●バオーすごい脚でやってきた、先頭集団に並んで一気に抜き去った、その差2馬身から3馬身、このままレースが決まってしまうのか、おおおっと、ここで大外から栗毛の馬体、オルフェーブルやってきた、オルフェーブルやってきた、いったいどこから来たんだ、どうやって来たんだ、スタート直後に急性胃腸炎を発症し便所に直行したはずのオルフェーブルが、ここでやって来たあ、一気に先頭に立った、マキ●オー差し返すか、いや脚はもう残っていない、内からテイエムオペラオーとアグネスタキオン、さらにはメイショウドトウも来ている、だが先頭はオルフェーブル、オルフェーブル先頭、強い、これは強い、文句なし、マ●バオーは馬群に沈んだ、オルフェーブル、オルフェーブル今一着でゴールイーーーーーーン!」
言うまでもなくその発し手は「こどおじ」である。奴はどこからともなく取り出した木の枝?のようなもので「ライオン」の尻を叩きながら、その長ゼリフを一度もツカえることなく吐き出しきった。「監視」しているはずにもかかわらず、自らの姿を隠そうともしないどころか、むしろアピールするかのようなその行動はこちらの理解の範疇を完全に超えており、また、どこからどうみても「ライオン」にしか見えない像を敢えて「馬」に見立てるというアクロバティックな意向にも、ごく控えめに言って大いに瞠目するべきところがあった。だからこそ私は動きを止め、目の前の現実に改めて自らを馴染ませる時間を設ける必要があったわけである。
これこそが「逡巡=停滞」の発生を支えるメカニズムの全容だ。
もちろんだからと言って、いつまでもぐずぐずと何もせず手を拱いてばかりいるわけにもいくまい。
そもそも何度でも繰り返すが、私は「名探偵」なのだ。たとえ何が起ころうと、いかなる事態が出来しようと、「名探偵」である私の力をもってすれば、ねじ伏せられないものなどありはしないのだ。
だから私はセリフとセリフの間を縫い(つまり「こどおじ」はくだんの長大なセリフをいったん言い切ったのち、飽きもせずまた再び何事かをまくし立てようとしていたということだ)、結局「こどおじ」に話しかけたのだった。




