接触Ⅱ⑤
〝人間が人間であるためには、人間であることをやめなければならない〟
1つ目の「洗濯」に関するセリフが、実際には「SOS」を暗示するある種の「救難信号」であったことを鑑みれば、2つ目のこのセリフに全く何の意味も含まれていないなどということは決してあり得ない。
先にも述べたことだが、見た目や行動の異常さとは裏腹に、明らかに故ポール・ド・マン翁の先導した「脱構築批評」の手法を想定していると思しきそのRの言説が、見方を変えればこの私によってのみ読み解くことのできるものだったと言うのは決して「大言壮語」などではなくて、むしろ極めて真っ当な状況認識だということができるはずである。いや、より正確を期せば、むしろその出現自体が私のためにこそ、私目がけて為されたのだと言っても決して過言とはなるまい。なぜなら現時点で人類史上最高の頭脳の持ち主(=「名探偵」)の称号を恣にする私を除けば、Rの皺々で悪臭の香りが濃く臭い立つ口から発せられる言葉の数々は、ドゥルーズやラカンなども真っ青なレベルで、それを受け取る者の脳髄を意味不明性の奈落へと突き落とすだろうからだ。つまり私だけだ。Rを理解できるのは、少なくともこの「現実」においては私しか存在しない。そしてその事実は取りも直さず、私に向けて発せられた時点で、Rのセリフが何の価値も持たない妄言の類であることがあり得ないという確信へと直結する。要するに、そういうことだ。
そして実際私はすぐに、その「意味」の内実を見抜いていた。ポイントは1つ目のセリフとの明確な「差異」、つまり2つ目のセリフが全く何の衒いもなく表出されたものであったところに存する。どういうことか。
1つ目のセリフはそもそも何を言っているのかがわからなかったのだが、2つ目のセリフは少なくとも表面的なレベルで何を意味しているのかははっきりしていた。内容ではなく、むしろ形式の面においてこそ見出されるその微妙だが明らかな「差異」は、互いに極めて近接した時点に発せられた2つのセリフのそれぞれを、全く異なった読みの手法のもとに読解する必要性を示唆する。より具体性を期すならば、後のセリフに対しては、前に私が施したような、裏の意味を読み解く言わば「パフォーマティブ」な仕方ではなく、文字通りにそれを受け取る「コンスタティブ」な仕方で読解を試みなければならないということだ。
そして翻って考えれば、読解法にそのような変更を施した時点から、見方によっては確かに異常なように感じられなくもない勢いで私が走り出したという出来事が、もはや疑問を呈する余地さえ全く存在しないほど、極めて正当でかつエポックメイキングな行動へと様変わりしていることに気づくだろう。そう、重要なのは、その走行が人智を超えたレベルであったこと自体だ。「速度」がどうとか、そういうことではない。例えばその時の私の形相、それが人間性を極限まで欠いたものであったというのは紛れもない事実と言える。その証拠にだからこそ私は先に「アウストラロピテクス」などという、お猿さんの親戚以上の存在たり得ないある種の劣等種を比喩として持ち出したのだ。
走り出してしばらくして、私がたどり着いた結論が以上である。
それが単なる後付けの理由にしかなり得ないという誹りを恐れず(そもそも私もまた、その「非難」には同意見である)、理解可能性を向上させる目的のためにのみ改めて概括しておけば、「人間が人間であるためには、人間であることをやめなければならない」というRの言葉を耳にした私は、無意識のうちにそれをある種の助言として捉えており、そしてその結果、くだんの大層ありがたいお言葉に文字通り従うことにしたということだ。
そして実際、Rの言葉はある意味で正鵠を射ていた。
つまり私の行動選択は、ほどなくして見事に功を奏することとなる。




