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新たな依頼⑬

 私はそう言うが早いが、急いで駅まで戻り、ロータリーの隅に佇む公衆電話ボックスに入った。ヤスナガに外で待っているように伝えると、奴は勝手に近くのベンチに腰を下ろして前かがみになり、なぜか膝の間から嘔吐でもし始めそうな体勢を作った。相変わらず意味不明で理解不能だったがもちろん無視し、ズボンのポケットから小銭入れ代わりの封筒を取り出す。右の人差し指と中指を差し込んで100円玉をつまみ取ると、受話器を耳に当ててから電話機に効果を投入した。記憶にある番号を順にプッシュしていく……。

 呼び出し音が2度鳴ったところで繋がったことがわかった。先手を打つようにまくし立てる。

「あ、サトウか、俺、キクチ、今、ちょっといいか」

 言うまでもなく、私が電話をかけた相手はWだった。ほんの少しでも頭を使う癖のある者なら容易にそれと知れる通り、ハギワラの学校に行くと言っても、いきなり私たち2人だけで訪問しようものなら怪しまれるのは必至である。下手を打てば、通報の憂き目さえ免れられないだろう。いや私一人ならあるいは問題ないかもしれないが、ヤスナガを伴っている時点で即アウトだ。

 だから私はまず訪問前にWにその旨を告げ、入校のための手引きをしてもらおうと考えていた。幸いにして先の面会の際、奴の電話番号は聞き取ってあり、あいにく数字をメモした紙を持ち歩いてはいなかったが、私自身の明晰な頭脳で以て完璧に記憶していたのであるからして問題なかった。……奴が守衛の勤務中なら最も都合が良いが、そうでない場合でも何らかの形でWの助けを借りることがこの場合の最善手となる……。私はそう、考えていた。そして誰でも、そう考えるだろう。

 だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。

 しばしの沈黙ののち、やがて受話器から流れてきたのは、信じられないセリフだった。

「ムラサキムラサキムラサキ」

「は?」

 そう、私はまさしく「耳を疑」った。意味が分からなかったというよりも、そもそもそういう塊として音が並べられ、届けられるということ自体が、私の常識の枠内には存在しなかった。

 だが残念ながら、それは聞き違いでも何でもなく、その証拠に耳に受話器を当てている間中ずっと、同じ文句が繰り返され続けた。あたかも私を精神的に苛むことこそが何よりの意図であるかのように……。

「ムラサキムラサキムラサキムラサキムラサキ……」

「……」いったい、何なんだ、これは? ……いや、ムラサキ? どこかで聞いたことあるような……、しかもちょうどついこの間、聞いたばかりであるような……。

 思い出すより前にお金が切れる。間髪を入れずに受話器を置き、もう一度かけ直す。しかし今度は一転、「おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか~」という紋切型の女性アナウンスが届けられるだけで終わった。私は一瞬逡巡したが、このままでは埒が開かないと判断し、いったん電話ボックスを出た。そして何が面白いのか、相変わらず俯き気味の態勢を続けるヤスナガの肩を、そこらへんに落ちていた短い木の枝でつつくとともに言った。

「おい、携帯あるか」

「え? 俺すか? なんで?」

 ヤスナガが億劫そうに顔を上げて言う。私もムカついたので即座に応酬した。

「ナンデもクソもねえんだよ、俺は『名探偵』なんだ、貴様みたいなペテン師に理解できるような頭の構造にはなってない、だから説明してもしかたがない、違うか? いや、違わない、とにかく貴様は黙って俺の言うことに従ってさえいればいいんだよ」

「……なんかいきなり偉そうだなあ」

「黙れ、いいか、今すぐオオタニに電話しろ」

「え? オオタニ? ……まあ、いいすけど、偉そうな人って、俺、苦手なんだよなあ……」

 そう言いながら、ヤスナガはおとなしくコートの内側のどこかから携帯電話を取り出し、発信を行った。そして少しの間、目を斜め上方向に向け、何やら難しい顔をしていたが、ほどなくして電話を下ろすと、こちらに視線を合わせ、言った。

「ダメす、出ません」

「出ない?」

「はい」

「……わかった、もうちょっと待ってろ」

 改めてボックスに戻ると、私は今度は「事務所」の電話を鳴らした。Hに盗聴されている可能性を常に警戒しているため、普段は安易にその回線を使うことはないのだが、当該時点においては、状況の可能な限り正確な把握のため、背に腹は代えられないと自らを叱咤したうえでの捨て身行動だった。

 しかしどれだけ必死に呼び出し音を鳴らしても、結局のところオオタニが応答することはついぞなかった。

 自分で設定した留守電の案内が耳に流れ込み始めたところでアホらしくなって再び受話器を置いた私は、つまりW改めサトウと、オオタニの2人が同時に消息不明を絶ったというわけか……との考えに至り、気分が悪くなった。安否が心配されたというよりも、またしてもHの連中が私を出し抜くべく何かしらの暗躍を始めたのだろうと悟り、不快感を抑えきれなくなったのだ。

 ……そもそもムラサキムラサキムラサキだと……? ようやく思い出したが、それはヤスナガが言っていた、「むらさきババア」を退治するための文句だろ? なぜ貴様らがそれを知っているのか? なぜ今このタイミングで、それを口にするのか? というかそもそもなぜこの俺が、それを延々聞かされ続けねばならんのか……? どう解釈しても、こちらを挑発しているとしか思えない、たわけている、あまりにたわけていすぎる……。

 またそれとは別に、ハギワラ関連の依頼をいったん凍結せざるを得なくなったことも、私にとっては大きなストレスだった。取り組むべき課題があって、しかも目に見える状態のまま放置されているにもかかわらず、種々の事情からひとまず解決を先延ばしにしなければならない。そういうある種の「妥協の産物」としての宙づり状態もまた、仕方ないとは言え、「名探偵」である私には耐え難いのだった。なかなかどうして、厄介なサガ(性)である。


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