「A」について③
「相互理解」の成立への強い「屈託」。それが初めに提示した〈他者の「理解」への丁寧な働きかけ〉と合わせ、「A」の「書く」ことの根幹を成す二つ目の重要な特徴であることは言うまでもない。そしてこれら二つの特徴から、共通してある種の「求道者」めいた人物の姿が浮かび上がってくるというのも、また自明にすぎることだ。
「相互理解」の成立を前提せず、だからこそ他者の「理解」へ細やかに気を配り、自らの「書く」スタイルを徹底して突き詰めようとするストイックさ。引用した箇所だけに限らず、他のあらゆる「著作」にも通底する尋常なまでの「理解できなさ」は、その「求道」の落胤でしかない。そうでなければ、あれほどまでに意味不明な文字の羅列ばかりを世間に向けて公表しておきながら、それでいていつまでもドヤ顔をかまして偉ぶり続ける(あくまで「著作」の内部においてではあるが)ことなどできるはずがない。要するに、そういうことだ。
そして当然、そんな人物から、「書くことについて、」「全てを学んだ」という私もまた、「書く」ことへの「屈託」から逃れられず、「無心で書く」ことからも程遠いところにいる。それがこの「前置き」において、まず私がはっきりとさせておきたいことだ。
かの有名な故ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル翁が、かの有名な『精神現象学』のやはり冒頭において述べているように、著者がわざわざ自分の著作について云々することは、ただ単に浅はかであるだけでなく、非常に見苦しい行為でさえある。既に陳腐どころか時代遅れの感さえある「テクスト論」的な主張を参照するまでもなく、あらゆる情報は、その発し手の意図通りに受け取られないことを可能性として含んでいるはずだからだ。そのような状況下で、「正しい読み」を強制することは、どれだけ好意的に解釈しようとも、もはやかなり純度の高い奇行でしかあり得ない。
だが、それでも私は、この長ったらしい「前置き」をぜひ許していただきたいのだ。なぜならそれはあってもなくてもどっちでも構わない単なる「解説」とは異なり、むしろ私が「書く」ために、絶対に必要なプロセスだからだ。逆に言えば、このようなプロセスを差し挟むことなしには、何も「書く」ことができない、それこそが「A」を手本にしたことで必然的に私を束縛することになった「枷」の内実であり、だからこれから先、さらに綴られていくことになる「物語」が晦渋なものになることを、予め覚悟しておかれたい。繰り返しになるがその晦渋さは、私が「書く」ために不可欠なものだからである。




