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坂の上の赤

作者: 砂虎

私、赤城誠志郎は政治家を志したのは小学生の時に起きた総理大臣銃殺事件を

テレビで目撃したのがきっかけだと常々の取材で語ってきたがそれは半分嘘である。

本当のきっかけはその翌日の小学校での出来事にあった。


日本のトップが白昼暗殺されるという前代未聞の事件はまだ世間をよく知らぬ小学生の間でも大いに話題となっていた。

雑談相手の同級生から意見を求められた私は日本の小学生として真っ当な意見を皆の前で披露した。

「暴力はよくない。人殺しはよくない」と。


その瞬間、「はんっ!!」と大きな声が背後で鳴った。

あれから長い歳月が流れたが私は今でもあの時の声の抑揚、音量、周囲のぎょっとした顔を鮮明に覚えている。

強く脳裏に刻まれた理由の一つは声の主が青木雄二だったからに違いない。


青木は当時私たち家族が住んでいたタワーマンションから坂を隔てたところにある共同団地に住んでいた母子家庭の少年で

学校の成績は常に私か青木がトップというくらい運動も勉強も出来る男でありながら

常に小学生らしからぬ鬱屈とした表情で下を向き、「いい」「やらない」「放っといてくれ」が口癖だった。


そんな男が感情を剥き出しにしてこちらを睨みつけているという事態は私にとって銃撃事件以上の衝撃だった。

青木は再び「はんっ!!」と大きな声を上げた。


「人殺しはよくないだって。坂の上のボンボンが。よく覚えておけ偽善者。

 この国の人間は今みんな心の中で喝采をあげてんだよ。

 そうじゃないのはお前ら坂の上の連中だけさ。お前らは撃たれる側だからな」


青木はそう言い放つと再びいつものように下を向き、周囲の視線を拒絶するように本を読み始めた。


その日の夕食、母親に今日の出来事を話すと母は一瞬その美しい顔を強く歪めた後で

「そういう子と付き合うのはやめなさい」と私を諭した。

青木の激昂が第一の衝撃だったとすればこの時の母の一言は第二の衝撃であり

私の人生の方向を決めた決定的な不意打ちであったと今ならば分かる。


「学校のお友達とは仲良くしなさい」と毎日のように言っていた母が

同じ学校に通う子供に対して嫌悪感を露わにして「付き合うな」と言う。

仲良くするべき学校のお友達とは坂の上の子供だけで坂の下に住む青木は「お友達」ではないのか。

私は自分が生きる世界が思っていたよりも複雑に歪んだ恐ろしいものだと知った。

同時に生まれた瞬間から何不自由のない暮らしによって育まれてきた私の無垢な善性は

世界が歪んでいるならば正しい形に戻さなければという使命感を燃え上がらせた。


翌日、私は木村先生にどうすれば世の中を良く出来るかについて尋ねた。

木村先生は音楽の教師で私の担任でも学年の先生でもなかったが

真剣な質問をするならばこの学校では木村先生を置いて他にいないというのが我々子供の常識だった。

私たちの学校は立派な学歴を持つ先生がたくさんいたが

(母親たちは学校の先生がどこの大学を出ているという話がとても好きだった)

彼らは学校教育を効率的にこなそうとする人々ばかりで

質問が始まった瞬間にどうすれば素早く話を終わらせられるか優秀な頭脳をフル回転させるのが常だった。

木村先生は音楽の先生なのに美術の大学を卒業した変わった経歴の持ち主で

いつも古びた安物の服を来ていたことから保護者からの評判は良くなかったが

子供の質問に答えるという点に関しては一流の人材で

小学生相手だからと誤魔化すような真似もせず分からないことにははっきりと分からないと言い

けれどそのまま放りっぱなしという訳でもなく数日後に

「あれから色々と調べたんだがね」と答えをくれる頼もしい賢者だった。


だがそんな木村先生をもってしても「世界を正しい形にする方法」は分からないようだった。

私は質問を変えた。


「大人たちは今の世界が正しいと思っているんですか?変えたいと思わないんですか?」


「そんなことはないよ。今のままでいいなんて思っていない。特に僕らの世代はね。

 先生たちが若かった頃は学生運動というものが盛んで大学に通っている人間はみんな世界を変えようと頑張ったんだよ。

 大学の授業に出ることをそっちのけにしてね」


「変わらなかったんですか」


「変わらなかったんだ。一生懸命頑張ってきたのに成果が出ないというのはとても辛い。

 まるで自分には何の力もなく価値もないのだという気持ちになってしまう。

 そういう無力感に打ちのめされて大勢の人が運動を諦めてしまったんだ」


「先生も諦めたんですか?」


「うん、まぁ、そういうことになるんだろうね。

 僕はね、自分たちは世界を変えられなかったけど後を行く子供たちならば

 僕らが切り開いた道を通って世界を変えてくれるかもしれない。

 そう思って教師になることを選んだんだ。

 でもこういう生き方は今も真剣に運動をしている人からは転向と呼ばれて裏切り者の言い訳扱いされているね」


「僕は世界を変えられるでしょうか」


木村先生は目を瞑り長い時間黙ってしまった。

ここで安易に「もちろんだよ」と無責任に肯定しないことが木村先生が賢者たる所以であり

卒業した子供もたびたびに相談に訪れる理由なのだろう。


「変えられる、と僕は信じたい。そうでなければあまりに救いがないからね。

 けれどその道はとても過酷だよ。多くのものを捨てなければならないだろう」


私は木村先生の言葉にむしろ好都合だと思った。

生まれながらにして多くのものを手にした坂の上の子供として青木に「見下された」私は

そういう人生を送ってこそ青木の言う「みんな」、坂の下の人々と対等になれると感じたからだ。


こうして私は世界を変えるために生きることを決意した。

もっとも周囲の人々は私の決心のことなどまるで気づかなかっただろう。

皮肉なことに世界を変える道は私のこれまでの人生。

すなわち坂の上の子供として成功する道の上に存在しているからだ。


進学塾へ通い一流大学へエスカレーター式に進学出来る学校への中学受験に合格する。

そしていずれ各分野で支配的な地位につく学友たちと交友を深めておく。

幸いなことに私には人によっては険しい山道を踏破するだけの能力があった。


私にとっての困難はむしろボランティアやデモに参加することにあった。

両親は私がこうした活動に参加することを酷く嫌がった。

「そういうことは暇な人達に任せておきなさい」と何度も諭されたのを覚えている。

憤りの感情よりも悲しさが先に立った。

大学では一人暮らしをしたいと強請ったのは一緒にいて家族を嫌いになりたくなかったからだ。


大学に入り親の束縛からも解放された私は本格的に政治について学び始めた。

当時の私が理想としたのは木村先生も若い頃に傾倒したという共産主義だった。

世の中の問題は多種多様で原因もまた様々だがその多くに貧富の差が関係しているのは間違いない。

しかし入党しようと訪れた支部であろうことか私は追い返された。


「兄ちゃんよぉ、曲がりなりにも世界を変えたいなんて気持ちを持ってるやつがこんな党に入ってどうするよ」


「こんな党って……共産党で世界は変えられないんですか」


「変えられねぇよ。少なくとも日本の共産党では変えられねぇ。

 結局のところ政治ってのは看板商売だからな。

 今後数十年で日本はどんどん貧しくなり生活も苦しくなるだろう。

 でもな、賭けてもいいがどんだけ困窮者が増えても俺たちが生きてる間に共産党が政権をとることはねぇよ。

 イメージが悪すぎるからな。勝ちたいなら他所の党みたいに看板を変えなきゃ勝負の土俵にも立てないが

 お偉方の老人は看板にプライド持ってるからそういうことはありえない。共産党に未来はねぇ」


「ならどうしてあなたは共産党にいるんですか」


「共産党に未来はないが俺たちが目指すべき未来は共産主義だからだ。

 人類が滅びることなく発展を続けられるなら

 いつか誰もが公園で水を飲めるような感覚で衣食住を得られるだけの生産力を確保することが出来る。

 でもなぁ、どんだけ富が増えようがそれを平等に共有しようって考えがなきゃ貧富の問題は解決しねぇんだよ。

 人類は貨幣って悪魔の発明をしてしまったからな。

 原始時代なら食べきれないマンモスの肉は腐らせるだけだから他のやつに分けて食わせた。

 だが金は腐らねぇ。1000年かけても使い切れない金額だって持ってられる。共有の意識が働かねぇんだ。

 俺は兄ちゃんみたいに世界を変えようなんてもう考えられねぇよ。。

 どんだけ必死に飛んでも跳ねても変わらないことを思い知ってしまってるからな。

 だがよぉ、それが永遠に続くなんてことは流石に嫌なのさ。

 だからいつか共産主義が実現して世界を変えてくれる日までその火を絶やさないようにしたいのよ」


共産党を否定する共産党員の堀井さんとの出会いは私にとって大きな転機となった。

共産党との関係は選挙に不利だぞと本人が言うので積極的には語らないようにしてきたが

堀井さんは子供じみた情熱だけで世界を変えたいと山道へと踏み入ってきた私に

現実的な登山計画を提案してくれた政治の師といえる存在となった。


まずはとにかく金を稼げと堀井さんは言った。


「世の中を変えたいなら政治家にならなきゃ仕方ねぇが、紐付きでなったところで党や企業、宗教団体の操り人形よ。

 本気で政治がしたいなら他人に頼らずやっていけるだけの金がいる。

 まぁ大抵の人間はこの金集めの段階で諦めるか世俗に染まって腐れ政治屋になっちまうんだけどな」


政治をやるには金がいる。

この現実を前にして諦めてしまう人の気持ちが私にはよく分かった。

資本主義に対して嫌悪感を抱いているのに生きるためには結局その競争に参加して富を奪い合わなければいけない現実はとても苦痛だ。

そんな後ろ向きの感情を懐きながら遮二無二に金を得ようとしている人々との戦いに勝てる気がしない。

青木雄二と再会したのはそんな時のことだった。


あの青木が小学校の同窓会に来たというのも驚きだったがその理由が自分と話すためだと思いもしなかった。

中学受験で私立へ進学した私と違い青木は地元の公立中学、公立高校を経て

私の学校と双璧を成す名門私立大学へ特待生として進学していた。

そこで私の現況について知りコンタクトをとったのだという。


「赤城、お前も金がいるんだろ。だったら俺に手を貸せ。

 お前の人望でお友達のボンボンから金を引っ張ってこい。

 そうすりゃ俺が5年でお前を億万長者にしてやるよ」


「悪いが詐欺の片棒を担ぐ気はない」


「はんっ、詐欺ならお前みたいな堅物の善玉気取りに声をかけるかよ。

 どんだけ金回したって半端な正義感で警察に密告するのが目に見えてる。

 真っ当な事業さ。きちんと成長し出資者には高額の配当も出る。

 時代の寵児としてテレビや新聞の取材を受け経済誌で特集だって組まれるだろう。ただし……」


「ただし?」


「俺が見るところバブルが続くのは長くて10年だ。

 だから適当なところで会社は売却する。予定では5年後」


「本当に違法ではないんだな」


「お前に嘘をつくのもムカつくからはっきり言うぜ。

 俺はな、目的のためなら手段を選ぶ気はねぇ。世の中は所詮結果が全てだ。

 だが今回の件で犯罪に手を染める気はねぇ。

 この仕事はスピード勝負、どれだけ早く資金と人手を集めて事業をスタートし先行者利益を確保出来るかにかかっている。

 でも貧乏人の苦学生である俺に金のアテはほとんどねぇんだよ。

 だから金を集められるお前の機嫌を損ねるようなダーティプレイはしないと誓う。それが俺にとって一番合理的な選択だからだ」


「……わかった」


かくして私と青木は学生起業家として仮想通貨企業を設立した。

青木は後に数百億円の価値を持つビットコインがピザの代金支払いに使われていた頃から

仮想通貨に着目し準備を重ねてきたという。


「貧乏人のガキが成り上がる手段なんて犯罪かITぐらいしかねぇからな」


「アスリートや芸能人になる道だってあるだろう」


「馬鹿ボンが。用具代やレッスン代が空から降ってくると思ってんのか。

 サッカーが貧者のスポーツなんて言われてたのも今は昔。

 ガキの頃から親の車で送迎されスクールで専門的なトレーニングを受けてきたエリートに腹を空かせたスラムの貧乏人が勝てるかよ」


正直に告白するとこの時期の私は青木に対する劣等感でいっぱいだった。

自分なりに努力し積み重ねてきた日々がこの男を前にすると坂の上に生まれた金持ちのお遊びに過ぎなかったように思えてくる。

湧き上がる黒い感情を打ち消すために私は仕事に没頭した。

私の役割である資金集めは仮想通貨に関するニュースが少しずつ増えてきた時期の良さもあり順調に進んだ。

途中からは先輩やOBの方から俺も一口噛ませてくれと声をかけられる程だった。

事業が軌道に乗ると私の仕事は広報へと移った。

モデルだった母親の容姿とスタイルを受け継いだ私は広告塔に最適だった。

同時期に事業をスタートさせた同業他社は他にもあったが「イケメンすぎる学生社長」によるメディア露出の差か私たちの会社「R&Bコイン」は

後にIT業界の巨人たちが参入してくるまでの間、国内ナンバー1の仮想通貨企業として広く存在を知られることになった。


当初の予定から遅れること1年、起業から6年目の夏に我々はアメリカのIT大手にR&Bコインを売却した。

青木が約束した通り私たちは億万長者となった。

 

「おい赤城、お前まだ政治家になる気かよ」


「もちろんだ。そのために二人で手を組んで会社を作ったんじゃないか」


「はんっ、やめとけ。お前みたいなやつに世の中を変えられる訳ねぇだろ」


「やってみなければ分からない」


「分かるさ。世界を変えられるのは結局のところ犠牲を払う覚悟があるやつなんだ。

 坂の上に生まれたお前は所詮他人から善人だと思われたい坊っちゃんだ。

 俺は違う。他人の評価なんてどうだっていい。結果が全てだ。

 どれだけ手を汚そうと成し遂げた成果が男の勲章なんだ」


そう言って坂の下で生まれた男は去っていった。

私は上手く反論出来なかったことに歯噛みしながらも次のステップである選挙に向けて準備を進めていった。

1年後、私は都知事選挙に無所属で立候補して落選し青木は国政に与党から出馬し当選した。



この時の自分について振り返るのは今も気が重い。

幼い時から良い人間として生きようとしてきた自分が酒に溺れ恋人に当たり散らような無様を晒すだなんて想像もしていなかった。

失敗と挫折は人間の本性を暴く。

剥き出しになった私の弱い心は負け犬になった羞恥心と青木へのジェラシーでズタズタに引き裂かれた。

時折正気に戻るたび、私は己の醜さに耐えきれず小さな子供のように大声を上げて泣いた。


そんな私を後目に青木は成功者としての道を駆け上がっていった。

目的のためなら手段は選ばないという彼のやり方は世襲議員ばかりの与党において

貴重な汚れ仕事が出来る男として重宝され30代にして副幹事長にまで上り詰めた。

この頃になるともはや自分と彼のあまりの差に敵愾心を抱くことすら難しくなっていた。

俺は所詮坂の上のボンボンだ。青木には勝てない。

小学生の時から抱いてきた対抗意識がポキリと折れた。

すると途端に心が軽くなるのを感じた。負けを認めてしまえば立ち向かう必要はなくなる。

そうだ赤城誠志郎よ。どうしてお前は毎日のように泣いているのだ。

お前は他の人間が一生かけても稼げない程の大金を持っている。

政治家など、仕事などしなくてもいいんだ。

この世には楽しいことが山ほどある。好きなことを好きなだけやればいい。

お前はまだ若く顔もいい。いくらでも美しい女たちとの逢瀬を楽しむことが出来る。

私は社交界に人生の生き甲斐を見出そうとした。


坂の上の人々との華やかな交友の日々は心の暗雲を一時晴らしてくれた。

けれど誰とも過ごさない一人の夜になると小さく、けれど確かな声が脳裏に響いてくる。

「本当に、それでいいのか」

声に答えることが出来ぬまま3年が過ぎた頃、電話が鳴った。青木からだった。



明日行われる俺主催のパーティをネット中継で見ろ。

それが青木の用件だった。

パーティ会場は青木が所有する豪華クルーズ船で招待客に給仕するのは人間ではなくロボット。

船もAIによる自動操縦で大阪を出発し東京まで航行するという触れ込みだった。

IT担当大臣に就任した大富豪議員による総裁選を見据えたパフォーマンス。

ニュースサイトではそう評されていた。

しかし私はこの時すでに違和感を感じていた。

青木雄二という男が自分の成功を負け犬となった同級生にただ見せつけるような真似をするとは思えなかったのである。


その予感は的中した。

万雷の拍手を受けて登壇した青木の表情に周囲がギョっとする。

そこには長きにわたり浮かべてきた政治家としての柔和な笑顔ではなく

小学生の時にただ一度だけ見せたあの怒りを剥き出しにした顔があった。


「はんっ!!」


リモコンのスイッチが押される。途端に会場の床や天井から自動小銃が出現しセンサーで捉えた人影を舐めるように掃討していく。

阿鼻叫喚の嵐。悲鳴と血飛沫の中で青木は叫んでいた。


「見ているか!!これが世界を変えるってことだ!!

 恐ろしいか!!おぞましいか!!だがこうまでしなきゃ世界は何一つ変わらない!!

 俺が間違っているというのならお前が世界を変えてみせろ!!」


そこで映像は途切れた。船に仕掛けられた爆薬が起動したのである。

直ちに海上保安庁と自衛隊が急行したが生き残った者は一人としていなかった。


現職の大臣による未曾有の犯行は世界を震撼させた。

ネット上では青木を英雄現ると喝采し持ち上げる者がいる一方で

パーティに参加せず生き残った議員たちは民主主義に対する挑戦として激しく非難。

青木が半生をかけて得た勲章や名誉称号は全て剥奪され

ワイドショーで青木を擁護したアナウンサーは与党支持者による猛抗議を受け番組を降板、退職に追い込まれた。


事件の真相究明を行う取材活動の過程で青木雄二はかつて起きた総理大臣銃殺事件を引き起こした男の孫であったことが判明した。

次期総理候補筆頭に躍り出た官房長官は彼らを「悪魔の一族」と呼んだ。

私は記者会見でその言葉を聞いた瞬間、怒りでテーブルを殴りつけていた。

誰が好んで悪魔になるものか。誰が望んでテロリストになるものか。

弱者を救わず、弱者を追い込んだ社会を変えず、ただ責任だけを押し付ける。

こんなやつが総理大臣になるなど許されるのか。

だがその心配は杞憂だった。事件から数日後、匿名の告発サイトに与野党議員に対する大量の告発情報が投稿されたのだ。

青木は与党の重鎮としての地位と巨額の資産を使い国会議員とその親族の不正を集めていたのだ。

彼はパーティに参加する議員を片付けた程度では革命は為し得ないと分かっていた。

女子中学生に対する強姦とカジノを巡る贈収賄が暴かれた官房長官は容疑を否定しつつも病気療養のために引退を表明し政界は大混乱に陥った。


それから数ヶ月。

次期国政選挙を前にして大量のカメラが出馬表明の会見を行う私を射抜くように向けられている。

民主主義の敵、青木雄二と会社を起業した盟友である私への風当たりはかつての選挙の比ではないだろう。

落選の際の自分の全てが否定されたような絶望と哀れみの視線、嘲笑の声を思い出すたびに手が震え涙が湧いてくる。

けれど逃げる訳にはいかない。日本中を揺るがしている大騒動もいずれ落ち着きを取り戻す。

その時に正しい政治が行われていなければ入れ替えられた水もすぐに濁り、坂の下の人々は何度でも悪魔になるだろう。

テロリズムを否定するには暴力に頼らなくても社会を正しい方向に変えられることを証明しなくてはいけないのだ。

険しく果てない多くを失う道になるに違いない。

けれど私はその道を歩こう。いつの日か坂のない世界が訪れることを信じて。

この灯火を次の世代へと託す長い旅を始めよう。

正しく生きられなかった男の残した血塗れのバトンと共に。


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― 新着の感想 ―
[良い点] タイトルから想起されるイメージに名前負けしない力のこもったお話でした。 「ヒーローを作るには敵役が必要だ」というのが、こういう堅い話にも成り立っているところは、まさに筆致が過不足ないからだ…
[良い点] 久々に衝撃の走った作品を読ませていただきました。 近代史に興味があったり、新聞を読む程度に世の中の出来事や政治を知っていれば、導入部で引き込まれてしまい、最後まで読み進める以外の選択はない…
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