恋中さんと昨日と明日
「あのあのっ、全然悪い意味じゃないんですよ?」
土下座を続ける俺に向かって、恋中さんは慌てた様子で言った。
「本当に言葉通り愉快だなと思っただけで、全然悪い意味じゃないですよ?」
ひたすら胸が痛い。
俺は床に額を擦り付けたまま返事をする。
「本当にごめん。後で電話して文句言っとくから」
「あの、本当に気にしてないですよ? むしろ、楽しかったです。お母さん、いつもあんな感じなんですか?」
優しいフォローで余計に胸が痛い。
俺は長い溜息を吐いて、頭を上げた。
「……ああ、あんな感じ」
「ふふ、そうなんですね」
にっこりと笑った恋中さん。
その笑顔すらも胸に刺さる。
やはり、俺の母さんは天災みたいな人だ。
「恋中さんは、どんな感じなの?」
「私ですか?」
「うん。恋中さんのお母さんって、どんな感じ?」
「……」
俺が質問すると、彼女は目を伏せた。
「分からないです」
「ごめん、いじわるな質問だったな」
自分の母親がどんな感じか。
俺の場合は「過保護」だとか「過干渉」だとか直ぐに不満を言えるが、急に言われたら悩む人の方が多いだろう。
「……聞いても良いですか?」
「うん、いいよ」
少し空気が重い気がする。
あれ? 俺もしかして地雷踏んだ?
不安な気持ちを隠して笑顔を作る。
数秒の間が空いて、彼女は呟くような声で言った。
「家族って、どんな感じですか?」
難しい質問だ。
パッと浮かぶ言葉は「普通」だけど、求められている回答とは違うだろう。
彼女は、なんでこんな質問をするんだ?
「私、十歳より前の記憶が無いんです」
「……え?」
「最初の記憶は白い天井です。その後は施設で生活することになって……だから、ずっと気になってたんです」
恋中さんは俺の目を見て、再び同じ問いをする。
「家族って、どんな感じなんですか?」
ひとつの疑問が解決した。
彼女が、どこか寂しそうな雰囲気で甘える理由が今やっと分かった。
俺は一度、深呼吸する。
さて、彼女に何を言うべきだろうか。
真剣に考える。
しかし時間はかけられない。
だから、一番初めに思い浮かんだアイデアを実行することにした。
「よく言われるのは、一番近い他人かな」
俺は、彼女を特別扱いしないことにした。
「例えば俺の母さんは撫子って名前だから、俺が家族の話をすると、それは撫子さんの話ってことになる」
「……へー、そんな感じなんですね」
ガッカリしたような表情。
彼女は僅かに目線を下げて言う。
「無償の愛とか、助け合いとか、マンガに描いてあるような話は、やっぱりフィクションなんですね」
「恋中さん、そういうマンガ読むんだ」
「あ、はい。えっと……それなりに」
どこか恥ずかしそうな表情。
きっと憧れに似た感情があるのだろう。
「恋中さん、誕生日いつだっけ」
「多分、五月一日です」
「俺は六月だから、もしも家族だったら、恋中さんが姉さんだね」
「……っ!?」
「姉さん、プログラミングは誰に教わったの?」
「うぇっ、えっと……独学、だよ?」
「……」
「……」
俺は堪え切れず、笑った。
「なっ、なんで笑うんですか?」
「いや……だよっ、て、なんか面白くて」
「それはっ、急だったからです!」
「じゃ、もっかいやってみる?」
「……お願いします」
彼女は拗ねたような態度で背筋を伸ばした。
俺は笑いを堪え、もう一度、問いかける。
「姉さん、何かしてほしいこと、ある?」
「さっきと違います」
「今なら割と何でも聞くけど?」
「…………なんでも、ですか?」
「うん、なんでも」
彼女は考え込むようにして俯いた。
時々チラッと俺を見るけれど、言葉は無い。
一分くらい経っただろうか。
ようやく、彼女が動きを見せた。
「……恋中さん?」
俯いたまま、両手を広げている。
……なんとなく、そんな気はしたけど。
俺は息を止めて、余計な感情をグッと抑える。
……俺は弟。俺は弟。俺は弟。
そして自己暗示をかけながら、姉の求めに応じた。
「……」
「……」
互いに沈黙。
我慢できず最初に声を出したのは、俺の方だった。
「普通、甘えるのは弟の方じゃない?」
「……そういうものですか?」
「多分」
「……じゃあ、今は私が甘えられている方です」
無茶な理屈だ。
俺に姉は居ないけれど、一瞬だけ、本当に姉が居たらこんな風にワガママを言うのかなと思った。
「ほら、甘えてください」
どうやって?
今でさえ正直限界なのに、これ以上何をすれば?
「まったく、甘えん坊ですね。……や、大和くんは」
ドクンと心臓が脈を打った。
ただ名前を呼ばれただけ。でも、あれ、今まで呼ばれたこと、あったっけ?
「えへへ。大和くんが弟なら、毎日きっと楽しいでしょうね」
やばい、やばい、頭が働かない。
今どういう状況だっけ。俺は何がしたかったんだっけ。
「大和くん」
「……何?」
真っ白な頭で返事をする。
恋中さんは、ゆっくりと俺から身体を離した。
触れていた場所の熱が消えない。
手を伸ばせば届く位置で俺を見る彼女から目を逸らせない。
桜色の唇が微かに揺れる。
彼女は、またあの寂しそうな表情をして言った。
「大和くんは、いつまで一緒に居てくれますか?」
──ほんの少し、距離がある。
手を伸ばせば届くような距離。
俺は、この距離を維持していた。
ここから先には近付かないようにしていた。
──私、十歳より前の記憶が無いんです。
しかし知ってしまった。
俺は彼女を特別扱いしないと決めた。
だけど、この顔を見たら……事情を知った後で目にしたら、もう、無理だった。
「っ!?」
彼女の身体がビクリと震えた。
俺は静かに息を吸って、初めて強く触れた彼女に向って言った。
「恋中さんが、俺を嫌いになるまで」
顔は見せられない。
我ながら恥ずかしいことを言った自覚があった。
「……じゃあ、ずっとですね」
恋中さんが俺の背に手を回す。
「まったく。大和くんは、甘えん坊さんですね」
「恋中さんには言われたくない」
「……私は、べつに、甘えてないです」
「それ、説得力ゼロだよ」
「……大和くんのせいです」
彼女の手に力が入る。
より強く押し当てられた感触に一瞬、息を呑んだ。
「大和くんが、甘やかすからです」
「……じゃあ、もう少し冷たくした方が良い?」
「やだ」
彼女は子供みたいな声を出す。
そして、俺の耳元で、そっと囁くようにして言った。
「……あまあまを、所望します」
その一言で、これ以上は無いと思っていた胸の鼓動がさらに激しくなる。
どんどん身体が熱くなって、止まらなかった。
やがて──二人ほぼ同時に、クスッと笑った。
ひとしきり笑った後、俺は少し名残惜しさを感じながら身体を離す。
「タイピング練習、しよっか」
「……今からですか?」
そして、いつも通りの二人に戻った。
あれだけ恐れていた一線を越えたのに、二人は何も変わらなかった。
あくまで、表面上は。
いや、だって、無理だろ。
さっきは「姉弟」とか言ったけど、とてもそんな風には見られない。
俺はきっと、これからも彼女を甘やかす。
そしていつか……きっと四十歳くらいになった後で、彼女に問いかける。
──恋中さん。
家族って、どんな感じ?
「大和くん、顔が赤いですよ?」
「……なんでもない」
だけどそれは、まだまだ先の話だ。
以上、ここで終わりです。
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