解読完了
日本語をマコトから教わったので、漢字を認識できるようになりました。
チヒロのメモを渡してから5時間が経過した。ようやく異世界の言語を一つ、ほぼ網羅できたといっていいだろう。
マコトの故郷の国で使用されていた"日本語"と呼ばれる言語だ。コレが非常に複雑、というよりも種類が多くて時間が掛かった。
複数の系統の文字があるため、説明をするだけでも時間が掛かったのだ。
特に"漢字"とマコトが呼んでいた、それ自体が意味を持つ形態素が非常に多量だったのだ。
彼自身、"漢字"の全てを把握しているわけではないそうだ。その数はなんと2500を超えているらしい。
言語で2500個だ。私の知る言語は、少なくて25個多くても50個程度だったのだ。多いなんてものじゃないだろう。私は問題無いが、人間がそれだけの数の言語を頭に入れておけるのだろうか?
マコトに聞いてみたら、出来るものは少数だがいるらしい。だが、そういった者は生まれつき記憶力が高い者か、普段から常に"漢字"の読み書きを続けて半ば頭に叩き込むように暗記の訓練をしている者だけらしい。
前者はともかく、後者は暗記の訓練を怠ると忘れてしまうそうだ。
当然だな。何事も訓練を怠ればその内容は衰えて行くものだ。勉学だけでなく、武術でもそれは当てはまる。
マコトにも仕事があるため、一日中彼に異世界の言語を学ぶわけにもいかない。ここまでの5時間、すべて言語を教わっているわけではなかった。
言語を教えてもらう礼となるかは分からないが、彼の仕事も手伝っていた。
尤も、客の対応やクレスレイへの報告、商談や面会と言ったマコトでなければできない仕事は手伝えない。
私が手伝ったのは彼が面倒臭がっていた書類整理や早急に確保しておきたい素材の回収と言ったマコトでなくてもできる仕事だ。
というか、マコトでなくてもできる仕事はマコトがやる必要がないのでは?今私が片付けた仕事こそ、部下にやらせるべき仕事だろう。
指摘したところでマコトは誰かに頼る気が無いのだろうな…。それができていれば、最初からここまで忙しくしていなかっただろうし。
やはり、何度も考えているがマコトの後継者を早く用意すべきだろうな。
次の旅行先、ルグナツァリオには悪いが、後継者候補であるジョージがいるドライドン帝国にしようか?
…今はまだ様子見だな。ルグナツァリオとの約束を反故にしたくはないし、今のところマコトも健康を害しているわけではないのだ。
私がスッキリしないからと行動しては善意の押し付けになってしまう。それは褒められるべき行為では無い筈だ。
それ以前に、ジョージがどうしたいかだな。
ルグナツァリオが言うには王位継承権を捨てて帝国から出たいそうなのだが、だからと言ってティゼム王国に来てくれるかどうかは分からない。
そもそも、ギルドマスターの後継者になって欲しい、などと言われて素直に頷いてくれるだろうか?
…マコトの仕事量を考えると断られてしまいそうだな。マコトの後継者問題、思った以上に難航しそうだ。
場所は変わってセンドー邸。新たに学習した"日本語"を、チヒロの研究資料の解読に使用できないかと試行錯誤していると、少しだけ光明が見えてきた。
この世界で使用されている言語では意味不明な言葉でも、発音が"日本語"として認識できる部分があったのだ。
しかし、そこで解読は頓挫してしまっている。
チヒロのメモと同じなのだ。解読には、メモに記載されていた異世界の言語を全て網羅する必要があるのだ。
しかも、文字だけではなく発音も含めてだ。
文字だけならば時間を掛ければ独学で何とかなるかもしれないが、発音ばかりはマコトに頼らざるを得ない。そしてそのマコトは多忙な日常を送っていると来た。
研究資料の解読、私が思っていた以上に時間が掛かってしまいそうだ。
ちなみに、異世界の言語の解析に魔法を使用してみたのだが、あまり効果がない。いや、あまりではなく全くと言っていいほど効果が無いな。暗号の解読も然りだ。
研究資料やメモに魔法の効力を阻害するような仕掛けは施されていない。では、何故魔法が効果を発揮しないのか。
多分だが、魔法の使い方が違っているのだろうな。単純に『理解』や『解読』、『解析』と念じて魔力を資料やメモに浸透させても、求めた効果が現れなかったのである。
分かるのは紙や紙に書かれた文字に使用されたインクの成分ぐらいだ。知りたいのはそういうことではないのだが…。
仕方がないからマコトに空き時間ができるまで彼の仕事を手伝いながら、地道に解読を続けているといった状況だ。
…未だにダミーの暗号が見つかってくるのがそら恐ろしい。一体どれだけの時間を掛けてこの研究資料を作り上げたのだろうな?
マコトに協力を仰いでから、既に1週間が経過していた。
マコトの協力もあり、異世界の言語はある程度把握したといっていいだろう。尤も、彼が言うにはメモに書かれている言語以外にも使用されている言語は多々あるそうなのだが…。
まぁ、そのことを詳しく知る必要は私にはないだろう。少なくとも今は。
異世界の言語を学習した事でようやく暗号の解読がスムーズに進むようになった。が、ここで更に解読が躓きかけた。
暗号の中に、異世界の事情についてのクイズがあったのだ。
そんなこと私が分かるわけないだろう!!
礼を告げて別れた筈のマコトに『通話』を掛けて、何度もクイズの答えを尋ねてしまった。非常に申し訳なく思う。そのクイズの数、優に100を超えていたのだ。
おかげで異世界の知識をかなり知る事ができたのは良いが、解読が済むころには流石に辟易としてしまっていたな。それはマコトも同じようだった。
〈しかしマコト、貴方はこちらの世界に来て数十年経つのだろう?よく故郷の事情を覚えていたね?〉
〈だからこそですよ。故郷の事を忘れたことは、一度もありません。例えあの世界にとって僕の存在が既に異物となってしまっていたとしても、それでも、あの世界が僕の故郷であることには変わり有りませんから〉
マコトから伝わる思念には、晴れやかな感情が込められている。チヒロのメモを見た時と同じく、故郷を鮮明に思い出したのだろうか?
〈きっと、チヒロさんは忘れたくなかったんだと思います。残しておきたかったんだと思います。自分が産まれた故郷のことを。自分が育った場所のことを。確かに自分はその場所にいたという事実を〉
極めて回りくどい方法ではあったが、チヒロの研究資料には、彼女の知る異世界の知識の全てが網羅されていたような気がする。
自分自身が生まれ育った場所の証、か。そう考えれば、納得できないものではないのかもしれない。
そういえば、マコトはチヒロの名前を聞いてとても驚いていたな。
結局のところ、理由は何なのだろう?知り合いだったりするのか?ついでだから聞いておくか。
〈多分、赤の他人ですよ。ただ、その名前は僕の故郷では割と一般的な名前なので、聞けばすぐに同郷の者だって分かるんです〉
〈確かに、私が知る限りではあまり聞かない名前だね。向こうでは一般的なんだ〉
〈一番多く使われている名前、というわけではありませんが、ええ。その名前を聞いたら十中八九同郷の者かもしくは関連した者だと思うぐらいには〉
なるほど。ならばこの際だし、マコトから同郷と判断できる者の名前も聞いておくか。かなり数が良そうだが、口頭で済む内容だ。
多少仕事の妨げになってしまうかもしれないが、マコトならば大丈夫だろう。
〈えっ、結構数があるんですけど…〉
〈今後マコトと同じような状況になってしまった者がいたら助けになってやれるだろう?それに、貴方だって自分と同じ過ちを同郷の者に犯してもらいたくはないだろう?〉
〈その言い方はちょっとズルくありません?〉
〈頼むよ。仕事が進まなくなるようならまた手伝うから〉
〈分かりました!分かりましたよ!手伝わなくて良いですから、また幻をこっちに出して来たりしないで下さいよ!?あの後いつもより仕事が丁寧で早かったって、部下から訝しがられたんですからね!?〉
むぅ…。マコトの部下は意外とマコトのことをよく見ているんだな。存外、優秀じゃないか。
これなら仕事をある程度任せてしまってもいいような気もするんだが…。
ん?マコトから伝わる感情からわずらわしさを感じるな…。
ああ、私が会うたびに部下に仕事を任せろだの後継者を用意しろだの口うるさく言うから、いい加減うんざりしているのか。
流石に言い過ぎたようだ。少し、マコトに対して過剰に構い過ぎていたのかもしれないな。
彼ももう子供ではないのだから、過干渉を煩わしく思うのは当然か。嫌われないように気を付けるとしよう。
ヒローからチヒロの工房を案内されて2週間の時間が経過した頃、ようやくチヒロの研究資料の解析が全て完了した。ダミーの暗号も含めて、全てである。
本当に時間が掛かった。2週間全ての時間を解析に費やしていたわけではないにしろ、まさかここまで時間が掛かるとは思いもよらなかった。
後はヒローに伝える知識の選別だな。
彼が懸念していた通り、チヒロの研究資料には、人間に教えるべきではない知識が大量に記されていたのだ。
強力なエネルギー源であると同時に、凶悪な汚染物質を生み出す技術はその最たるものだな。応用すれば、魔術でも実現できてしまいそうなのがまた恐ろしいところだ。
当然、私も安易に使うべきではないだろうな。
私ならば汚染された環境も浄化することは可能ではあるが、そんなことをするぐらいならば、始めから使用しなければ良いだけの話だ。
破壊をもたらすにしろ、エネルギーを生み出すにしろ、他に方法があるのだから。
知識の選別も終り、ヒローに研究資料の解読結果を渡せば、依頼は完了だ。
その後は、彼女が使用していた工房は研究資料と共に完全に封鎖するらしい。万が一にも知識が流出してしまうことを防ぐためなのだとか。
だが、彼女の生きた証は残しておきたいという要望から、錬金術を用いた封印を厳重に施すらしい。一種の墓扱いである。
その慎重さは、間違いなく先祖譲りだろうな。そして資料を工房事破棄しない辺りが、これまたチヒロ譲りの優しさ、もしくは甘さなのかもしれない。
研究資料の解析が終わると同時に、彼女が後世に残した文章が完成したのだ。まぁ、私は文章が完成する前に完成形が予想できていたのだが。
それは、チヒロ=センドー、いや、千堂千尋がこの世界に来てから生涯を全うするまでを描いた日誌とも呼べるものだった。
私が思った通り、千尋は非常に苦労をしたらしい。状況はマコトとそう変わらない。
いつも通りの日常を送っていたところ突如この世界に来ていたらしい。場所は現在のダニーヤだ。
千尋は自分の仕事柄多数の国の言語を理解していたのだが、彼女の知るどの国の言葉も通用せず、非常に焦っていた。自分のアイデンティティが崩れるような感覚を覚えたと記されていた。
だが、多くの言語を習得して来た彼女はそこでめげずに必死になって周囲の者達が使用している言語を学習していったようだ。
向こうの世界には異世界へ渡る架空の物語が流行っているらしく、割とあっさりと自分の状況を受け入れられたらしい。
幸いなことに身体能力が元の世界にいた時よりも飛躍的に上昇していると早い段階で気付けたことで、生活にはあまり困ることはなかった。
大体の意思疎通はジェスチャーと絵によって行っていたようなのだ。
彼女は根っからの善人だったようだな。自分も大変な身だというのに困っている者を放っておけなかったらしい。
そうして周りの人間達の言語を学習しながら人助けを行っていくうちに人々から信頼を得ていったのだ。
カレーライスもこの時に振る舞ったのが始まりらしい。偶々カレーの材料になる香辛料が揃っていたそうなのだ。
だが、彼女はその時はまだ帰郷を諦めたわけではなかったようだ。文字の読み書きの習得も終り、元の世界に戻るための手掛かりを探すために、彼女は冒険者に登録して旅に出た。
旅を続けていくうちに自分と同郷の者がこの世界に来ていたことを知り、そしてその誰もが故郷へ帰ったことがないと知った時は、流石に絶望を味わったみたいだな。
珍しく、日誌にはこの世界に対しての恨み辛みが書き連ねられていた。
とは言え、千尋はこの世界を憎むことはしなかった。彼女が元の世界に帰れないと知る頃には、この世界で大切な者ができていたのだ。
冒険者として成功を収め、そろそろ身を固めようかと考えていた時に、戦争が起きた。侵略戦争である。
既にその国は滅び去って久しいが、当時は強大な軍事国家として周辺国へ侵略戦争を繰り返して領土を広げていたらしい。
千尋も大切な人々を守るために戦争に参加し、早期に戦争を終結させるために、彼女は一度だけ後世に伝えるべきではない力を使用した。
数千万度の熱量を用いて超広範囲にわたり大爆発現象を引き起こす、極めて危険な力だ。コレを魔術ではなく錬金道具で行ったのである。
彼女の当時の仲間達にも、その力を振るったことは伝えていないらしい。
尤も、分かる者には分かったらしく、千尋はその力を恐れられながらも国から表彰をされたというわけだ。
建て前としては、大量の薬を用いて多くの人々の命を救ったため、ということにされていた。そちらも事実ではあったので、双方にとって好都合だったのだろう。
大切な者を守るためとはいえ、数万を超える人間の命を戦争で奪ったことを、とても嘆いている様子がその日の日誌に記されていた。同時に、この力を世に広めないようにも決意したようだ。
研究資料の暗号には[絶対に教えてやらない]という、極めて強い意志を感じたからな。本当に苦労させられた。
後は、ヒローが説明した通りだろう。
国を救った功績から爵位を得て、冒険者として生活している間にできた大切な者と結ばれ、今に至るというわけだ。
日誌の最後には、暗号を解読しきった者に対するメッセージが残されていた。解読しきった者にというよりも、異世界人に対するメッセージだな。今度マコトにも見せてあげよう。
とにもかくにも、これでヒローからの依頼も終わりである。
編集した知識をヒローに渡したら、やっとチヒロードの観光だ。
長い時間解読作業を続けていた分、存分に楽しませてもらうとしよう。
日本語と英語の発音以外はそれっぽい発音をマコトが教えたので、それを参考にノアが自力で解析しました。




