第十六章 おかえり。
ワンルームの部屋がガシャン、ガシャンと音を立て、まるで薄いガラスが割れるように崩れていく。
代わりに広がっていたのは、一面真っ白な空間だった。
永久に広がっているように思える。
上空から、ふわりふわりと何か綿のようなものが振っている。どこかで見た光景だった。
直孝の姿は、消えていた。
代わりにあったのは、あの黒い煤のような煙である。他にはだれも、いない。綾子と、サイラスのみだった。
するとその煙から、こんな声がした。
『私はただ、妻にもう一度会いたかった……もう一度、街を一緒に歩きたかった……この手でわが子を抱きしめたかった……それだけのことをお前は、それすらも、否定するのか』
するとサイラスは首を横に振り、「ヘルネルスト大公。」と声をかけた。そして、こう続けた。
「すでにお気づきでしょう……この者は貴方の番ではない。貴方の番は……あそこにおられます」
言うとサイラスは、向こうを指さした。
するとその指さした先にぽかりと穴が空いた。
その中では、まるでテレビのように、映像が映し出されている。
砂漠だ。
そこへジャラリ、ジャラリと、重い鎖の音がして、女性が四人ほど、それに繋がれ引っ立てられていた。
その一番後ろに、ひときわ汚れた幼い少女が映ると、途端に黒い煙がぴくりと反応した。そして一目散に……その穴へと入っていった。
穴は閉じた。
綾子の姿は、燃えるような真っ赤な髪、そばかすが浮いた顔にエメラルドのような瞳をした元の姿に戻っている。
しかしその顔はみるみる、険しくなっていった。
サイラスの姿も変化し始めたのだ。
ぺらり、ぺらりとまるで薄い紙がはがれるような音がしている。
そして、栗毛色のくせ毛が真っ直ぐな黒髪に。
青い瞳は真っ黒に。
顔だちも、違う。まなじりは鋭く、細い。黒く、太い眉。口元もうすく、引き締まっている。
服装も、この世界には無い白のカッターシャツに黒のスラックス。
高村明。
岩田綾子だった頃、因縁の末縁を切った幼なじみ。
その手にはもうレイピアは無い。
しかし代わりにあった物を見て、綾子は息を飲んだ。
菊の花束だ。
そして、ここまで来て綾子は気づいた。
(この人……私のことが見えていない)
次の瞬間、周りの風景が一変した。
石畳の道。桜の木は葉が生い茂っている。立ち並ぶ石、石、石。これは……お墓だ。
蝉の声がする。猛暑であった。
明は迷いなくそのお墓の一つの前で立ち止まると、墓石を水で清め、花を活け、線香に火を点け、手を合わせた。
『岩田家之墓』
「やこちゃん」
明は墓に向かい声をかけた。
「俺……引退することに決めたよ。肩をやってしまって……ここ数年はケガとの戦いだった。一軍ではもう無理だ。
でも幸い、球団が拾ってくれることになってね。引退後もしばらくはバッティングピッチャーで働ける事になってる。それをやりながら後進の指導もして欲しいとのことで。本当ありがたいよ……明日は会見だ。見ていてくれると嬉しい」
綾子は何も言わず、その背中を見守っている。
すると明がパッと、こちらを振り返った。
綾子はギョッとした。
蝉の声がしている。
やはり、見えていないようだった。
するとまた、周りの景色が一変した。
何台ものカメラ。所属していたらしい球団のロゴが入った弾幕がドンと壁に張られている。
明はその前にある会議用の椅子に座っていた。
凄いシャッター音だ。
引退会見が始まる。
どうやら明は15年もの間、プロ野球の世界に身を投じていたものらしい。それもその内12、3年は一軍でピッチャー……凄いことだ。
サプライズだったのだろう、扉が開いて現役の選手らしき人が明に大きな花束を手渡している。
明は涙ぐんでいた。
そして、また周りの景色が一変した。
真っ暗な空間。しかしその中に一か所だけ、煌々とライトが照らされた一角がある。
そこにはセットが組まれていて、キャスターとおぼしきスーツ姿の男女二人がインカムマイクをした男性と打ち合わせていた。
そこへ。
「高村さん入りまーす!」
スタッフの声がして、ダークスーツ姿のの男が一人、綾子のとなりをすり抜けていった。
男は挨拶もそこそこに、くるりと振り返る。すぐに声がスタジオに響いた。
「本番10秒前!9、8、、、」
「それではここからスポーツです!高村さん、よろしくお願いします!」
「お願いします。」
そう応える男の髪には白髪が混じり、目元にもしわが刻まれている。元々大きい体格だったが、少し恰幅が良くなったろうか……しかし、たしかにそれは高村明だった。
内容は、どうやらサッカーのようだった。ワールドカップだろうか。日本代表のユニフォームがモニターに映し出されている。
明は、専門外とはとても思えぬ堂々とした解説を披露していた。
つつがなく終わった直後、ディレクターと思しき男性が明に声をかけてきた。
「いやぁ、高村さん助かりました!サッカーの方は内村さんが担当予定だったのですが急遽出れなくなってしまって…」
「乗られていた飛行機が飛ばなくなってしまったと伺いました。しょうがないですよこればかりは」
明は言って、「しかし…緊張しました。サッカーは観るのは好きなんですが仕事は全然経験が無くて……終われて良かった。」
「いえいえ、もうお見事でしたよ。」
ディレクターはひいき目なしに褒めている。
「ありがとうございます。」
明は素直に礼を言って、「いやぁ……久しぶりにゲン担いじゃいました。」
「あぁ、あれですね?だからそのスーツでいらっしゃる」
ディレクターに言われると明ははにかんだように笑って、「ええ。そうなんです」と、綾子の方を見た。
綾子はぎょっとしたが、違った。二人が見たのは綾子が立っていた隣にあった、パイプ椅子だった。
そこに、先ほど明が脱いだらしいスーツの上着が無造作に置かれていた。
そして綾子は確かに見た。
その上着の懐のポケットに、『綾』と一文字、刺繍がされていたのを。
綾子が思わず息を飲んだ、次の瞬間であった。
バンッ、というすごい音がして、綾子が身構えながら辺りを見回すと……そこはまた、あの真っ白い空間であった。
上着も、スタジオも、ニュースキャスターも、テレビカメラも、皆消えている。
黒いガラスの破片のような物があたりに散らばっていたが、それもほどなくしてかき消えた。
いたのは綾子と……もう一人。
総白髪になり、すっかりと老いさばらえた……高村明であった。
丸目の老眼鏡。
縦じまの青いカッターシャツに、黒のスラックス。
頬はそげ落ち、眼窩は窪んで、顔中に年季の入った皺が刻まれている。
髪はすっかり薄くなり、ほぼ真っ白になっていた。肌が真っ黒に焼けているためか、その白髪はかなり目立っている。
少し、痩せただろうか。
少し曲がった背中……。
あまりの老いさばらえようであった。
明は真っ直ぐに綾子の方を見た……ように見えた。
しかししばらくしてその目を伏せると、くるりと背中を向け何かを手に取り、それに向かい……話しかけた。
「やこちゃん」
また、真っ白な空間が一瞬にして、どこか見知らぬ家の中に変わった。
綾子の、全く知らぬ家である。
ここは……マンションだろうか。何となく、綾子はそう感じた。
二人が立っていたは、玄関だった。
そして年老いた明が手にしていたものが目に入ると、綾子の心臓はぎゅっと何かに掴まれたような心もちになった。
岩田綾子の写真だったのである。それもセーラー服……高校の時のだ。
明はまた、口を開く。
「やこちゃん。
君は……いつまでも若いままだ。俺はもう、こんなになってしまった。
君が居なくなってから、本当に色々とあった……語りつくせないくらいだよ。
今日はこれから取材だ。
やこちゃん、今は凄いんだぞ。日本人メジャーリーガーなんて当たり前の時代になった。
俺は今、その彼らからインタビューをして記事にしたり、そう……今やインターネットで自分のチャンネルが持てる時代なんだ、そこでそのインタビュー動画を配信したりして、そんな仕事をしてる。俺は全然ネットが分からないから…スタッフのみんなには助けられているんだ。とにかく、凄い時代になったもんだよ。
そうだ。今度ロサンゼルスに行こう。後輩がスタジアムに呼んでくれているんだ、きっと気に入ると思う……」
「もういいです!!」
綾子はさえぎるように、思わず叫んだ。
涙が止まらない。
一体何十年、この人はこの写真と共に生きてきたのだろう。
忘れていて欲しかった。もう私はそちらの世界に生きていない。
何故だ。
私はあの時、この人を拒絶し、否定した。他の女性とホテルに行ったから。週刊誌の記者が家や学校まで押しかけてきたから。あの女性が大金を持って高校生の私に、「別れなさいよこのガキ」と迫ってきたから。
とても、16歳の私には耐えられるものでは無かった。
すると、どこからともなく声が聞こえた。
『でも違った。あれはあの女がこの男にやった、性的暴行だった……あの女はこの男の飲んでいた酒に錠剤を落した……そして女はホテルへ連れ込んだ……運び込むために他の男を雇って、写真を撮らせて……』
綾子の心臓が嫌な音を立てた。
(何……ですって)
『確かに、貴方は幼過ぎた。とても耐えられなかったのは事実……ただ、その後一度でも、相手(明)から話を聞いたのか?そう、聞かなかった……貴方の親御もこの事実を知っていて話そうとしたのに貴方はそれすら拒絶した。貴方は少しばかり頑固で、ほんの少しの勇気が足りなかった……』
ほんの少しの勇気が、足りなかった。
綾子は今、その勇気の出なかった自分の心を見つめている。
まるで、冷水を浴びせかけられたようだった。
『だから、貴方は今ここで、この世界でやり直しをさせられている。これまで色んな人間から話を聞き、真実を明らかにしてきた……貴方の精神に耐えがたいものも、沢山あったはず……。でも貴方は、今度は目をそらさなかった、間違えなかった』
その時である。
しわがれ声が、綾子の耳に届いた。
「やこちゃん」
綾子はその声に思わず、嗚咽を漏らしていた。
「やこちゃん。
時が経てば、忘れると思ってた。
でも違った。
最近、とみに思い出すんだ。
どれだけやこちゃんが俺のきらいでも、俺は大好きだったよ。」
「さ、行こうか。」
明の皺だらけシミだらけの大きな手が、その写真立てを取った。
アルミサッシの扉が閉まる。明の大きな、曲がった背中が、その向こうに消える。
綾子はただただ……頭を下げていた。
綾子は目を覚ました。
そこはあの作業場だった。
サイラスが手を握っている。
「サイラス……ごめんなさいわたし……」
綾子は、そのエメラルド色の瞳にみるみる涙をもり上げた。
「いいんだ……いいんだよ」
するとサイラスは綾子の身体をゆっくり抱き起こし、彼女の肩に頭を乗せこう言ったものだ。
「帰ってきてくれた……それでいいんだ……」
そんな二人を、トト様とネネ様が見守っている。
そしてその傍らにはライラが、がくりと膝をついて安堵のため息を漏らしている。
「終わりました……。」
「うむ。。。」
トト様が、頷いてみせたものである。




