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第十五章 ナメてた。全くと言っていいほどに。(下)

 フローリングの床。

 アルミサッシの、引き戸の玄関。

 なつかしいにおいがする。

 外では軽トラックだろうか。くたびれたエンジン音が一台、家の前を横切ったようだった。

 間違いない。ここは……。

(実家だ……)

 綾子はへなへなと、その場で崩れ落ちた。

 帰ってきた。

 帰ってこれたのだ。日本に。

 言葉に言い表せない感情が、決壊した川のように溢れだした。





 ひとしきりしゃくりあげながら泣いた綾子は、泣きはらしたその目であたりを見回した。

(向こうに連れてこられた時と同じだ……)

 自分の手が、明らかに小さい。子どもの手だ。

 足には白の靴下、ピンクのスニーカー。小学生のころ履いていたものだ。

 綾子は勝手知ったる様子で靴をぬぎ、家に上がった。

 玄関先にある姿見の鏡を見る。

 黒髪におかっぱ頭の女の子が、ランドセルをしょっていた。

 どこからどう見ても、小学生のころの岩田綾子の姿だ。

 綾子はもう一度、廊下の奥を見た。

 家の中はしんとしている。両親は外出中らしい。

 夜になったら帰ってくるはずだ。

 早く会いたかった。




 それにしても、今日は何年の何月何日だろう。

 たしかリビングに父が新聞を置いていたはずだ。

(父さん、父さんが死んでから私たち、大変だったんだよ)

 帰ってきたら一言言ってやりたいが、きっとワケが分からないだろう。

 綾子は気を取り直し、リビングへと続く廊下をパタパタと歩いて、すりガラスのついた引き戸をガラリと開けリビングへと入った。

 古びた玉のれんがジャラジャラと音をたてた。

 何の気なしに、綾子はランドセルを降ろした。すると……。

 ドシャア。

「え?」

 凄い音がして、綾子はその降ろしたランドセルの方を見た。

 すると……砂だ。

 運動場の。

 ランドセルに大量の砂が入れられている。教科書もノートも、砂で大変なことになっていた。

 綾子の心臓がぎゅっと縮こまった。

 そしてようやく、思い出した。





 それは、一年生のころだった。

 綾子は、それはひどいいじめを受けていた。

「やーいお前の父ちゃん人殺しーーーー!」「死ねこのブタ!!!」「ほら、ここから飛び降りろよ!」

 トイレの便器にも突っ込まれる。用水路のどぶを服に塗りたくられる。一度は学校の二階の窓から落されそうになり、教師が慌てて止めに来たこともあったが、その前のやり取りは無かったことにされたこともあった。そして毎日のようにされていた仕打ちがこれだった……。


 運動場の土を大量に、ランドセルに入れられる。


 あまりの酷さに、両親は何度も学校に足を運び訴えた。しかし何の改善も見られない。それどころか、


「お父様は本当に人殺しじゃないですか。そんな人の娘さんですもの。このくらいの仕打ちは当たり前です。むしろみんな優しいと思いますよ??この程度で済んで…お母さま、貴方も可哀想ですね。離婚なさったら?いい弁護士紹介しますよ、アハハハハ……」


 これが、当時の担任が言い放った言葉である。


 当時はインターネットも携帯電話も無かった時代である。しつけと称して色々と黙認されていたことはあったやもしれない……しかしこれはあまりにも酷過ぎた。

 第一、綾子の父親は人殺しではない。ただ、当時働いていた会社の社員が自殺、上司であった父は事情聴取を受けた。遺書には、サラ金の借金がかさんで、ヤクザまがいの借金取りが毎日のようにやってきて限界であったこと、迷惑をかけることへの詫びが記されていた。

 しかし地域の人間は、こう見たのだ。

『上司のあの男が話を聞いてやらなかったから死んだのだ、あの男はクズだ』『警察に連れてかれたんでしょう?ってことは、本当は自殺に見せかけてあの人が殺したんじゃなぁい?』

 警察に連れていかれた、という一事を、近隣の人たちは次々に噂した。


 こうして、一家は父方の親族を頼り、静岡へと引っ越した。あの幼馴染、高村明と会ったのはその後の事である。





 床に、砂がぶちまけられている。

 綾子はとぼとぼと、ランドセルを抱え縁側へと向かった。

 土を落とすためだ。

 ひっくり返すと、バサバサと本が落ちるとともにザーーーッと土が落ちてきた。

 胸が、まるで絞られた雑巾のようにめつけられた。

 綾子は小さな手で、教科書を拾い上げていく。

 ノートには大きな赤い字で、「ブ ス」と書きなぐられていた。

 綾子の目にみるみる、涙が盛り上がってきた。

 たまらず目をぎゅっと閉じた、その時だった。




 パンッ。




 突然、頬に痛みが走り綾子の身体が右にふっ飛んだ。

 しかも、倒れた先がいやにやわらかい。これは……ベッドだ。さっきまで実家の玄関にいたはずなのに。

 わけも分からず起き上がった綾子は次の瞬間、愕然とした。

 市川直孝。

 綾子を死に追いやった、あの従兄である。

「へへ、良い体に育ったじゃん。おお?」

 直孝は下卑た笑い声を上げると綾子をベッドに押し倒した。

「いやあぁああああ!!!」

 綾子はパニックになり悲鳴を上げた。しかし押しのけられない。男の力である。勝てるわけがない。

 長く黒い髪がシーツに散っている。体が明らかに子どものそれではない、急に大人になっている。

「誰か!!!助けて!!!」

 言った途端、



 パンっ!!!




 またたれた。


「静かにしろこのアマ



 頭を思い切りひっぱたかれたらしい。ぐらぐらとめまいがした。

 直孝は嬉々とした顔で首すじにかじりついている。酒臭い。酷いにおいであった。

「薬が効いてきたかァ?」

 綾子の目の前が絶望で真っ暗になった。

 絶望的だ。

 このままでは私はこの男に、犯される。

 なぜだ。

 なぜこんなことになった。

 私はなにも悪いことはしていないのに。

 ブラウスのボタンが引きちぎられた。下着があらわになった。

 その時である。

 脳内にまたあの声が、響き渡った。


((そうだ。お前はずっと虐げられ、幸せでは無かった……))


 全くだ。



((あちらの世界にいても、この世界へ逃げ戻っても……待っているのはこの未来……))


 そうかもしれない。


 すると、どこからか白い手袋をした男の手があらわれた。顔は見えない。真っ暗闇から手だけが、差し伸べられている。

 綾子の体に夢中になっている直孝は、気が付かない。


((この手を取れば、この忌まわしい輪廻を断ち切れる……この手を取るのだ……))



 この手を取れば、生まれ変われる。


 物凄く魅力的な、それは誘いだった。



 綾子はふらふらと、それに手をのばした。その時だった。




『魔法学院へようこそ。僕は村で会ったと思うがエマとトマスの息子。サイラス・ヒースだ。』

『アヤコ。ご飯を食べるんだ。君は真面目すぎる、今からこんを詰めていたら身体を壊すぞ』

『アヤコ、なんで俺に相談しなかった?先生から聞いたぞ。いじめられていたんだろ?…もう大丈夫だ。あいつらはもう何もしてこれない』

『アヤコ……ナスカヴァルについたらすぐ手紙を送ってくれるかい???』

 見慣れたブラウンのくせ毛。垂れ目の優しそうな顔が、青い瞳を細めて綾子を見下ろしている。


 そうだ。


 私は岩田綾子ではない。


 わづか10歳でゼルグ公国の農業の常識を変え、学院では歴代3位とも言われる魔力量とクソがつくくらいの真面目な性格で魔法試合では負けなし、そして22歳にしてS級までランクを上げ、今回の件で大公殿下から『英雄』の称号をいただく予定で、サイラス・ヒースと結婚の約束もしている冒険者、魔法剣士……アヤコ=マーガレット=ブラントンだ。

 これのどこが不幸なものか。

 それにだ。

 たしかに岩田綾子は順調とは行かない人生だったかもしれない。

 しかし両親はずっと味方だったし、大学では友人にも恵まれていた。卒業研究ではたまたま新発見をしたため論文にそれをまとめたところ、それも学術誌に載った。大学四年生にして学術誌にAyako Iwataの名前が載ったのだ。

 それを『不幸』だと?

 ふざけるんじゃない。

 第一、おかしいではないか。

 サイラスと住んでいた一軒家って、この前の吸血鬼の戦闘で大破している。

『ナスカヴァルに来てからあの人、一度だって手紙を寄越してこなかったでしょう。』……は?とんでもない。サイラスからは山ほどあって、むしろこちらが返事返せていなかった。それにあのモニカさんってたしかサイラスと魔法学院の同期で、イブライムの騎士団長の方とデキちゃって、この前二人目生まれたって便りがきていたじゃないか。

 ということは……。

(記憶を改ざんされている!!)

 綾子のはらわたが煮えくり返った。

「ふざけるな!!!」

 綾子はその手に向かって目いっぱい叫んだ。「たすけてサイラス!!!!」



 その、次の瞬間であった。

 がつんと物凄い音がして、市川直孝の身体が真横に、ふっ飛んだ。

 殴り飛ばしたのは、男であった。

 その背中が見え、綾子は思わず安堵のあまり涙をこぼした。

 サイラス・ヒースだ。

 すると、真っ暗だった空間が急に明るくなった。見慣れたワンルーム……そこは大学時代住んでいたアパートだった。そしてまた声がした。

『アヤコ!!よう言うた!!よう思い出したぞ!!!』

「おばばさま……やりました」

 綾子はしくしくと泣いている。

「ふざけるなよ……お前か。俺の女に手をだしやがったのは……」

 サイラスの栗毛色の髪が怒りのあまり逆立っているのが綾子にも分かった。

(そういえばこの人回復術師のくせして剣も強かったな……)

「待て!待て待て待て、落ちつけって、な?!」

 直孝はしりもちをついたまま後ずさりしたが、すぐに壁にぶち当たってしまった。

 その時、綾子は見た。

 直孝のもやしのような身体の周りに、何か黒い煙のようなものがまとわりついている。それは直孝の右の肩からぶわりと浮いて、顔の形を取ったかと思うと……ニタァ、と笑った。

「サイラス、気を付けて!!」

 綾子が思わず声をかけた。

 すると、いつの間に手にしていたのだろうか。サイラスの手には細身のレイピアが握られていた。綾子のレイピアだ。

『今じゃ!!』

 トト様の声が響いた次の瞬間。

 サイラスがそのレイピアを思い切り、袈裟切りに振り下ろした。

 空間を斬っただけである。

 しかし。

『ギヤアァァアアアアアアア!!!!』

 その黒い煙の口のあたりが大きく開いたかと思うと、耳をつんざくような叫び声がした。何人もの声が重なっているような声だ。

 煙が直孝の身体から離れていく。

 直孝は、気を失っていた。

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