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第九章 綾子、拉致られる(下)

 それは、どこぞの伯爵令嬢が着るような見事なドレスであった。

 以前のナタリーでは、考えられぬいでたちである。

 思わずまじまじと見ていると、ナタリーがセンスで顔を隠しながらこう言った。

「ふん。人間ふぜいが。不快だわ」

 言うなり、立っていた綾子は突然、その場にひざまずかされた。

 身体が言うことをきかない。

 すると、顎をくいと上に向かされた。

 どうやって牢の中に入ったのだろうか。ナタリーの顔が眼前に迫っている。真っ赤な瞳が微動だにしない。物凄い形相であった。

「お前、サイラスを盗ったわね」

 ナタリーが低い声でそう言った、次の瞬間。

 綾子の体が真横にふっ飛ばされた。

 魔力が封じられているせいで何もできない。防御の姿勢すら取れず、石の壁にもろにぶつかった。

 ドゴン、と物凄い音がした。天井から土埃が落ちてくる。

「げほっ…げほっ」

 綾子は胃液を吐きそうになった。

 なんという怪力だ。

「このどろぼう猫!!!」

 ナタリーの右足がみぞおちに入った。

 たまらず、綾子は吐いた。気持ち悪さと恐怖で涙がこぼれた。

 その頭をハイヒールを履いたナタリーが踏みつける。

 激痛だった。自分の声とは思えぬ叫び声が出た。

「おぉおぉ、汚らわしい声だこと。」

 ナタリーは扇子で顔を隠しながらも、機嫌の良さが隠しきれていない。「せいぜい苦しんで死ぬがいいわ。」

 また綾子の身体がふっ飛ばされる。

 鉄格子にぶつかった。頭を打った。

 意識がもうろうとする。

 ナタリーの高笑いが不快であった。ゾハスにいた頃はあんな声で笑ったりはしていなかった。

 綾子の血がナタリーのドレスに付いた。

「汚してるんじゃないわよ!!!この不潔!!!!」

 うるさいなぁ…

「いたい…たすけて…」

 綾子が小さい声でそうつぶやいた、その時だった。





「そこまでだ」

 綾子を殴らんとするナタリーの右手を、後ろから取った者がいた。

(……!!!)

 一気に戻ってきた意識で綾子は確かに、その者の顔を見た。

(モーガン・ヒックス……!)

 ダークブラウンのくせ毛の長髪。黒ぶちの眼鏡。暗めの褐色の瞳。そでに、金色の刺繍が施された黒いローブ。

 モーガン・ヒックスその人であった。






「うるさい!」

 ぐったりとする綾子を尻目に、ナタリーのがモーガンに噛みついている。「この売女!!私のサイラスを盗ったのよ!!今すぐここで殺してやる!!!!!」

「お前は馬鹿か。それをしたら死ぬのはお前だ。」

 モーガンの冷ややかな声が一室に響いている。

「お前ですって?!人間の分際でお前呼ばわりされる筋合いは無いわ!!」

「ふん」

 モーガンはせせら笑って、「お前こそ吸血鬼の分際で勝手な行動は慎め。この俺に勝てるとでも?」

 途端、モーガンの背中かどす黒い、もやのような物があらわれた。もやに目と鼻と、口らしきものがついていてそれがナタリーに向かい、ニタァ……と笑った。ガァ、バァという音がその口からしている。

 すると、その黒いもやがたちまち、ナタリーを包み込んだ。

「ヒッ……」

 たちまちナタリーの全身に、ボコボコといぼのような発疹が出来始めた。

 ナタリーは慌てて扇でそれを振り払いつつ、「じょ、冗談よ。」

 パッ。

 すると、次の瞬間にはもう、もやは姿も形も無かった。

 ナタリーは慌てて顔を触っては一安堵している……元に戻っている。

 モーガンは変わらず、無表情だ。

「今回は見逃してやる。次は無い。」

「…!」

 ナタリーはモーガンを睨みつけていたが、ようやく諦めたように見えた。


 ……と思ったら、ぐったりと倒れる綾子の胸倉をナタリーは突然掴み上げた。


「ぐぅ……」

 綾子が言葉にならないうめき声を上げている。

「いい加減にしろ!」

 モーリスが声を荒げるが、ナタリーはどこ吹く風だ。

「あーらぁ?下手に動いたらこの女の首の骨折るわよぉ?」

「ちっ……」

 モーガン、動けない。

 するとナタリーは気を失っている綾子の顔を覗き込み、こう言った。

「このごみ女。命拾いしたわね。次に会ったら私の配下のなぐさみものにした後内臓をえぐり取ってなぶり殺しにしてやるわ。」

 気を失ったふりをしていた綾子は恐怖のあまり、本当に気を失いそうになった。

「あ。それからね。……これは私のよ。返して頂戴」

 ナタリーは言うと、綾子の右手薬指にはまっていた指輪を奪い取り、自分の薬指にはめた。ぴったりである。「うふふ。これで私とサイラスは夫婦だわ……貴方の代わりに立派な子を生むから、安心して死んで頂戴。」

 そしてナタリーは、綾子の身体をまるでごみをポイ捨てするようにどさっと落とし、ゆったりした足取りで歩きながら、

「きっと貴方が生むよりかわいい、最高の吸血族になるわ…うふふ…うふふふふふふふふふ…」

 指輪をまるで大事な宝物のように撫でさすりながら、牢屋をあとにしたものである。






 ナタリーの気配が消えると、モーガンは呆れてため息をついた。

 綾子がむくりと起き上がる。

 モーガンは少し驚いていたようだが、すぐに本当に申し訳ないという態度になり、

「申し訳ない……。少し目を離したスキに……。」

 言うとモーガンは牢の一室のすみに向かって手をかざした。

 ぼこん、ごとん、と音がして、何もなかったそこに突如ベッドとテーブル、パンとスープが乗った皿が出現した。

 モーリスはそれらを確かめると鍵を開け、外に出るとまた鍵を閉めた。そして去り際、こう言った。

「間もなく、イスルから使いの者が参ります。貴方はイスル皇帝の母となっていただく大事な御身……皇帝も待ちかねておられる。今しばらく、ご辛抱を……」

(なんだって?!!)

 綾子は目を剥いた。






 牢の外、階段の上あたりからたまぎるような叫び声が聞こえたのは、その時であった。

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