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第三章 舟歌(上)

 ……とはいえ、である。



 綾子は少々…いや、だいぶ気になっていることがあった。



 確かにあの夜サイラスは「今は一人なんだ。」と言っていたが…ということは、ゾハスで再会した頃一緒だったはずの治療院の同僚、ナタリー・フリーマンとは今は別れている、ということになる。

 あの頃の二人はそれはもう、仲睦まじかった。というか、ナタリーが凄いぞっこんだったように記憶している。

 それに…実は綾子は知っていた。

 学院時代、サイラスの周りで本人だけが知らずに結成されていた、例のファンクラブ。

 あの頂点に君臨していたのが他ならぬ、ナタリー・フリーマンだったのである。

 となると当然、あのいじめにも彼女が一枚噛んでいたはずだ。結局尻尾はつかめなかったが……。

 幸いあの時はすぐにぱったりといじめが止んだので、こちらも深追いはしなかったのだ。

 そんなものだったから、ゾハスでナタリーが何食わぬ顔で、「はじめまして」とやってきた時にはそれはもう驚いた…というか、のどに何かへんなものを詰め込まれたような心持ちになったものだ。

 それに……。

 ナタリーがこちらを見る目。

 あれは尋常ではなかった。

 時折、殺気を感じることすらあった。

 あのキマイラの襲撃で瀕死の重傷を負った時、よく殺されなかったものである。

 だから、綾子がナタリーと仲良くしていたのも正直、『ふり』であった。

(私はサイラス先輩に気なんかありませんよー、ありませんよー!!!)

 この一心であった。




「ナタリー?…あぁ…あいつか…」

 しかし。

 その名前を綾子の口から聞いた途端、さっきまで甘い顔をしていたサイラスの周りに突如ブリザードが吹き荒れ、綾子は身がすくんだ。

(はい、怖い!怖い!!)

 その青い瞳からマジで冷気噴き出てる気がする。いや綾子の気のせいだ。きっとそうだ。


「まぁ、気にするのも無理ないよな。」

 サイラスはそう言うとまた、綾子の身体をきゅうと抱きしめ「こういうのは枕話にするには重い話なんだけど…いいよ。話そう。」

 あのサイクロプスの襲撃から2日が経った夜のことである。

 幸い、魔獣の襲撃はなく静かな夜であった。






 もう、あれから10年も経つのか…。

「ごめんなさい。私…先輩のことはお兄ちゃんにしか思えなくて」

 あの時。綾子ははっきりとそう言った。

 あの日はたしか、学院の卒業式だった。2年も飛び級を果たしていたサイラスは、もうその翌日にはイブライムを発ち、現場へと送られることが決まっていた。最後のチャンスだったのだ。


 今となっては、綾子としても少々気まずいものがある。


 しかし当時はまだ、過去あのころの事が綾子の心身にずっしりとのしかかっていた。サイラスはそれは優しかった。明とは別人だ。それは頭では理解していても、でもサイラスと明の間に何か、似たものを感じずにはいられなかった。その整った顔だち。高い、すらっとした体格。ふとした仕草。どことなく明を思い起こしてしまい心が、それはもう苦しくなったものだ。


 だから、あの時言い放った一言は、綾子なりの復讐だった。


 完全な八つ当たりである。


 しかしこの世界にやってきて、あの当時ですでに5,6年が経過してもなお、綾子は明のことが許せなかったのだ。






 一方のサイラスはというと……。


 少々、荒れたらしい。


 仕事の方は立派にこなしていたそうだ。新人とは思えぬはたらきぶりに、当時の指導役の回復術師もわずか半年で、「もう教えることが無い」と言っていたというから、その程度が分かろうものである。

 しかし一方で生活の方は自らを顧みなかった。部屋にはごみと酒びんが散乱し、月に一、二度は外の酒場で酔いつぶれていたのを見た者もいた。

 そこにあらわれたのが、あのナタリーだった。

 彼女は飛び級する前のサイラスの学院の同期だった。小さいころから同じ、回復術師の卵。初等部から一緒だったというから、6歳くらいからずっと一緒に、学んだ仲である。

 彼女は優しく励まし、部屋を片付けてくれ、話を聞いてくれ、サイラスのフラれた心身を癒してくれた。

 サイラスは徐々に立ち直り…、いつしかナタリーに依存するようになっていった……。






「え、すんごい順調じゃないですか。そんな素晴らしい方と別れるなんて罪な人ですよ先輩…ぎゅむ」

 綾子がうそぶくと、サイラスは真顔になってぎゅうぎゅうと綾子の身体を抱きしめてきた。

「くるしいくるしい」

「お前がそんなこと言うからだろ。あといい加減名前で呼べよ。次から先輩って言ったらその口を俺のでふさいでやるぞ」

「…わ、わかりましたよサイラス…」

 名前呼びは、なんでか分からないがやはり恥ずかしい。

「ともかくだ。それが、罠だったんだ。」

「罠?」

「今から思えば分かる。あいつはあの時すでに…俺に魅了魔法をかけていたんだ」

「な…!!!」

 綾子は言葉を失った。

 無理もない。

 この国では…いや正確にはこの大陸では…国家間にまたがる取り決めとして、"禁忌の術"というのがいくつか存在する。

 中でも有名なのが、『他人の身体、または精神を操作、洗脳する類の魔術。(ただし、罪人への尋問の際の行使はこれを除く)』というもので、これを侵した者は罪を問われ、程度によっては死罪に処せられることものある。

 魅了の魔法はこれに該当するのだ。

「え、ってことはまさか…」

 以前綾子がゾハスにやってきた時点で、すでにサイラスとナタリーは一緒になって2~3年が経過していたはずだ。いやな予感しかしない。

「ああ。まず俺にはその魅了がかかっていた。他にも、近隣のパン屋の主人夫婦に果物屋のおやじ。酒場の主人もか…そして、魔獣の襲撃で怪我をしていた患者、全員。これに、『ナタリーと俺は近々結婚する。二人の邪魔をする者は殺してでも排除する』ように精神操作の術がかかっていたそうだ。アヤコ。お前にもかかっていたんだぞ」

「……!!!」

 綾子もこれには頭を抱えた。まったく分からなかった…なんという執着だ。

「そうか…魅了魔法は呪術とは別物ですもんね。トト様の加護もすり抜けたのか…」

 しかもナタリーはサイラスと同じ、回復術師だ。この魔術の元は白魔法、とも呼ばれ、それ以外の魔法は(いわゆる火を使った生活魔法も含め)ほぼ、使えない。自身の魔力で魅了の魔法を行使することは出来ないはずだ…となると、これだけの大規模な精神操作の魔法は全て、特殊な魔道具や魔石、呪具の類を大量に用いないと出来ない。


 もう一度言う。なんという執着だ。


「え、ちょっと待ってください先輩。じゃあこんな強力な魔法から、どうやって抜け出されたので…うむっ」

 先輩、と言ってしまったためまたサイラスがキスで口をふさいできた。

「それが、アヤコ。君のおかげなんだ。」

 そう言うとサイラスは、ある物をチェストの引き出しから取り出してきて、綾子に見せてきた。

 布を開けてみる。そこからあらわれたのは……。


「これは…!」


 これはまた、懐かしいものがあらわれた。綾子は目を輝かせた。

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