第一章 思えば遠くへ来たもんだ
不意に頭の中で、あの曲がリフレインを始めてしまい、綾子は戦闘中にもかかわらず、思わず涙目になってしまった。
ここはポルタ村から遠くはなれた宗主国、シゲルダの辺境。ポルタ村までは馬車を使っても一週間はかかる。
小さかった背はみるみる大きくなり、丸顔だった面立ちはすっかりたまご型のそれへと変化していた。赤い髪とエメラルドグリーンの瞳、そしてかすかに残るそばかすだけが当時の名残をとどめている。
綾子は今一度、その細身の剣に魔力を貯め、術式を組んだ。これで仕留める気だ。
目の前には、ビルの四階分はあろうかという大きさの巨人が黒いこん棒を振り回し、あたりの森の木々をなぎ倒しながら綾子の方へと向かっている。背後には村がある、ここで綾子は一人食い止めていたのだ。
そしてよく見ると…その巨人の目は、初めからそのようになっているのだろう。顔の中央に一つしか、目が存在しない。
サイクロプスであった。
その夜……。
満身創痍になりながらもなんとかサイクロプスを倒した綾子の姿を…領都の酒場に、見ることができる。
魔力回復薬を二本飲んだが、腹はもうぺったんこだった。
と、そこへ。
「…アヤコ!!!」
右側からつんざくような大声がして、綾子は思わず左へとのけぞった。そして、片手に骨付き肉を持ったまま、ゆるゆると声の主を見上げる。
そこには栗色のくせ毛をした髪にどこか優し気のあるたれ目…今は怒って吊り上がってるが。そして夜に入ったせいで無精ひげがもう伸びてしまっているがどことなくエマの雰囲気が漂っている…そんな男が仁王立ちになって綾子を見下ろしていた。
綾子はまるで80年代によくあったマンガでいうところの、『にししし…』という顔になって笑った。そして…。
「…お久しぶりっす。サイラス先輩。」
と、言ったものである。
頼んだものが次々と運ばれてくるのを横目に、綾子がソファに寝かされ回復術師の世話になっている。
酒場の店主も店員も、そしてそこにいる客も、誰も気にとめない。おなじみの光景らしい。
綾子の腕や足に巻かれていた包帯が次々と外されていく。
「あたたた…」
綾子が顔をしかめた。足に巻かれていた包帯と、固定していた木製の板が外されると足が不自然な方向を向いた…なんてことだ、骨が折れている。
「…無茶しやがって…。」
サイラスは口調こそ静かだが、顔が歪んでいた。
「…よけきれなくて。アイツ、でかい図体のくせに動きが…。あいた!いてぇ!!」
サイラスの術に、綾子の足からごきん、ごきんという音を立てた。一気に骨が元に戻って行っているのだ。綾子は痛みを必死にこらえている。
ほどなくして……。
「…ったく。ほい。終わりだ。立ってみろ。」
言われた通りにスッと立ち上がる。
見事なものだった。全身にあった傷も、もうどこにも見当たらない。
「…流石二級回復術師様でございます…なむなむ。」
綾子はぴょこんとサイラスの元にひざまずき、拝む仕草をした。
「お前、こんなケガでよく飲み食いに来たよ…」
サイラスがあきれている。
「…痛みよりも食い気の方が勝ちまして。」
綾子はどや顔で、空になった小瓶をじゃーん、と見せた。どうやら痛み止めが入っていたらしい。
サイラスの呆れ度がまた上がったようである。
「…お前、ここに来て何年になる。」「先輩、いつこちらに到着されたので?」
ちょっと落ち着いたと思ったら同時に二人質問してしまい、綾子は思わず失笑してしまった。
サイラスも、顔をぽりぽりとかいている。
「私から行きますね。」
綾子は言って、「五年になります。」
「五年!」
サイラスは目をむいた。「この魔獣との最前線に五年も居るのか!」
「えぇ。でも、いい加減返してくれと大公殿下が仰ってくださったみたいです。早ければ今年中に帰れるかもって。」
「…かも、かよ。アテになんのかそれ。」
「あの御方は出まかせを言う方ではないと思いますよ。使者の方が来られて、正式に伺ってますし…。」
「…あんま飲み過ぎるなよ。」
とサイラスは釘を刺しつつ、「そうか。それなら大丈夫だな。」
ん、美味い。と、サイラスはその肉を角煮にしたものにぱくついた。脂と肉が口の中でほろりと溶けて、うま味が広がる。タンカクジシだ。
「そちらはどうでしたか?」
綾子は気になっていた。エマ夫婦やドウェイン、さらにその奥さんであるイゾルダとは手紙でやり取りしているが、ゼルグ公国のことをつぶさに知れるわけではない。
「ん?俺か。俺は相変わらず、騎士やら冒険者やら、相手にして治して回ってたさ。イブライムと、ゾハスがほとんどだったな。」
「そうですか…。ゾハスはまだ、川向うから襲ってくる感じですか?」
「いや。あっちは大分落ち着いたな。むしろイブライムの東側の、イスルの国境から来るヤツの方が今はヤバい。」
サイラスの言に綾子は驚いた。
以前は、ゾハスの方こそが魔獣との最前線だったのだ。
「そうなんですね。では今回こちらに来られたのは…?」
「…。」
サイラスは何故か一瞬躊躇したように見えたが、すぐに表情を戻して、「それは勿論勅命が下ったからさ。なんでも、元々ここで仕事をされてた術師が大怪我を負ったって聞いたぞ。違うのか?」
「あ、それは本当です。ベンさんですね…。」
綾子は苦々しげに言った。
「…何があったのか聞いても?」
「あ、はいそれは。」
どのみち聞くことになると思うので、と綾子は言って、「ベンさん、今年で確か60になるのですが…。二か月くらい前に、奥様に先立たれたのです。」
「…。なるほどな」
ここまでだけで、サイラスは見当がついたらしい。
「そうしたら、心が参っていたところにゴースト系の魔獣、というか魔物、と言った方が良いんでしょうか、それに取り憑かれてしまいまして…。後を追おうとされてしまったんです。幸い、その魔獣はその場にいた方が然るべく対処したのですが、ベンさんは…」
「それは、心の回復に時間がかかるな…」
「はい…。」
「…そうか。分かった。一度俺もその人の様子を診てみよう。そういった魔獣による精神攻撃に効く薬草もあるからな。こういったのは、そっちの方が良いはずだ」
サイラスには学院でのものに加え、父直伝の薬学の知識がある。
本当、頼もしい先輩だ。綾子は目を細めた。
気が付けば、皿は全部空になっていた。
綾子も食べたが、それ以上にサイラスの方が食べている。綾子への回復術の行使で、魔力を相当持って行かれたのだろう。
「…それにしても、今ゼルグ公国の対魔獣の最前線がゾハスからイブライムに移った、というのは鼻高々でもあり、心配でもありますね。」
綾子は心中、複雑なようだ。
「気持ちは分かる。だが確実に言えるのは、ゾハスの魔獣が大人しくなったのは間違いなくお前の手柄だ。胸を張って良いぞ。…だがまぁ、あの一件でお前は名前が売れて、結果ここで働かされてるとも言うが。」
サイラスが言うと、綾子は困ったような照れくさいような、そんな笑みを浮かべた。そして、こう言った。
「あれからもう五年になるのですね…。」
参考音源:思えば遠くへ来たもんだ(海援隊)
作詞:武田鉄矢 作曲:作曲:山木康世 編曲:若草恵
シゲルダの辺境伯領の象徴花は、コスモス。
そして、サイクロプスを倒したのが夕方、夕陽をバックにして綾子は闘っていました。
そして、ゼルグ公国を離れてちょうど五年。この年で、六年目になります。
そりゃあ…思い出しもする。




