第九章 綾子、旅に出る。
気が付けば、もう夜も更けていた。
「あんたたち!まだやってたのかい!!アヤコもまだ子供なんだから、とっとと寝な!!!」
エマの雷が落ち、その場はお開きとなったのだが綾子はなかなか寝付けない。
理由はさっきまでされていた話が話だったからだ。
結論から言うと、ドウェインの言っていた下級魔獣の骨は、苦土石灰の代わりとして充分機能しそうだと綾子は感じた。これで改良に入れる…大きな進歩であった。
ただそのためにはまず、領主のエドガーに話を通さねばならない。何せ、そのセッカイの代替物は今、エストフ港にあるのだ…運搬船が必要だし、それに付随して人手も要るだろう。それに、出来れば自分が港へ行って、現物を確かめたい。なんてことだ、旅ができるかもしれないじゃないか。綾子のわくわくが止まらない。
しかしそれよりも衝撃だったのは、先ほどまで聞かされていたマネボラウオの討伐と、そのからのまさかの殺人事件の発覚…そしてその顛末だった。
聞くと今、都ではこの話で持ちきりらしい。
そして同時に、一人の名女優があのような理由で殺されたことに深い悲しみと、強い憤りが民の間で広がっているそうだ。彼女の住んでいた可愛いお屋敷には今も、その死を悼み献花に訪れる人が絶えないという。
そしてこの顛末には、綾子の魂がそっくり入ったその元の少女…マーガレットも、巻き込まれていたのである。
フレデリック・オーウェル伯爵。
えらの張った大きな顔に黒々とした毛量のある髪をなでつけ、口元には立派なひげをたくわえたこの大柄な男こそが、あの女優、イレーネ・コルヴィジエリ殺害を指示した黒幕であった。
動機は、イレーネが見てしまったから。それだけだった。
オーウェル伯爵領は、ゼルグ公国のほぼ真ん中にあった。
ちなみに、首都イブライムは国土の東側にある。エストフ港もどちらかというと東になるので、オーウェル領は地方、といえた。
しかし、その懐事情は非常にゆたかであった。
領の北と東にはこの国の大動脈、ゾグレス川。しかもその東側にある川が丁度、この国を南北に縦断する本流なのだが、これをそのまま南…つまり上流…をたどればそのまま、宗主国であるシゲルダの首都まで行ける。
さらに領地の南には貴重な鉱石が採れる採掘場。さらにその南西には山脈があって、その一部も領地なのだがその麓には先祖が代々大事に育ててきた林があって、ここで採れる材木は、それは質が高い。
さらに川沿いには街道が通っていて、それも二本が交差している。
自然、ここに大きな宿場町が置かれるというわけだ。
…ここまで申し上げたら、気づいた方もおられるかもしれない。
このオーウェル領には、マーガレットが生まれ育った宿場町、ゾハスがあるのである。
綾子は今でも時どき、マーガレットの記憶を夢で見ることがあった。
凄い時には、マーガレット自身が出てきて、夢で話をすることもある。その時だけ、綾子は元の日本人の大人の姿なのだ。
話してみると、物凄い頭の回転の良い子だと綾子は感じ入ったものだった。きっと、大人に囲まれて過ごしてきた子なのだろう。すごく、大人びていた。
治安に少々問題があった、とその子は言っていた。
しかし綾子に言わせれば少々なんてものではなかった。
女子供がさらわれるなんてことはしょっちゅうだったし、その女達が尊厳を傷つけられて路上に投げ出されて発見される、なんてことも日常茶飯事だった。道を歩けば棒、ではなく血の付いたガラス瓶に当たる。大麻も横行していた。何を隠そう、働かされていたその娼館が大麻の密売もやっていたのだ。まだ床入りが出来る年齢ではなかったマーガレットは、その、事が終わった部屋に入って掃除をするのだがその時に最初にやるのが換気だった。大麻はとにかく臭うのだ。
騎士団の人たちは一体、何をしていたのだろう。全く機能していなかった。
フレデリック・オーウェルのふところは、非常に暖かかった。
それは、採掘場や貴重な材木が産出されていて、交通の要衝もあるから…それだけではない。
あろうことか、彼は人身売買、違法な売春、大麻の産出および密輸までやってのけていたのである。
これでは騎士団も機能しないはずだ。
彼らには多額の賄賂…と、さらに彼らを大麻で中毒漬けにまでしていたのだから。
しかし、ここまで腐敗の進んだオーウェル領を、公国政府が黙ってみているワケが無かった。
国家君主であるゼルグ大公、そしてその下にある政府高官は何度も、何人も、この街に密偵を送り込みその証拠を掴もうとした。
しかしフレデリックの方がいつも、一枚上手だった。なかなか尻尾がつかめない。そして密偵はひそかに、始末されてしまう。
その夜も、フレデリックはいつものように、ちょろちょろと嗅ぎまわっていた密偵をつかまえ、始末していた。
その日はたまたま、首都イブライムの某所であった。
しかしここで、大きな誤算が起きた。
その始末する瞬間…フレデリックとその部下であるゾハスの領主がその密偵の男を部下に始末させているその瞬間を…
イリーネに見られてしまったのである。
エストフの片田舎の騎士たちがやってのけた。
政府中枢に衝撃が走った。
ある貴族は功が取れずハンカチをかんで悔しがっていたし、ある役人は涙を流してよろこんだ。
しかし誰よりも安堵し、よろこんだのは、ゼルグ大公殿下であらせられたという。
その後、大公殿下は冒険者ドウェイン・タッカー、エストフ領騎士団長アンソニー・ジャクソンを宮殿へと呼び寄せ叙勲を授け、それもそれで後に色々と起きてくるのだが…それはまた、別の話だ。
綾子が寝入ったところで、話を戻そう。
派生した事件が大きかったものの、ともあれこうしてドウェインはあの例の依頼を達成させた。
セイレーンの幻も、あれからぴたりと出なくなった。
しかしこれが後に、近海に大きな問題を引き起こしてしまったのだ。
あの時。
ドウェイン達は数人がかりで、超強力な雷魔法を海上に向かって放ち、マネボラウオの群れ数万匹を一気に駆除した。
この時、それに巻き込まれて死んだ魚や魔獣も、かなり出た。
周辺の海域に、一時的とはいえ大きな魚がいなくなった。
生態系を変えてしまったのである。
ドウェイン達があの事件の対応のため街から居なくなっていた、とある昼下がり。
エストフ港漁業組合長、ビリーの元に苦情が殺到した。
言われてその干潟にやってきたビリーは、腰を抜かした。
干潟一面に、低級魔獣のミノカラ貝や、アサリ、蠣が死がいとなって漂着し、異臭を放っていたのである。
原因はミノカラ貝の天敵であるマネボラウオをドウェイン達が駆除してしまったこと…そして、赤潮である。
この世界では赤潮など、百年に一度のことだ。
どう考えても、これもあの時のアレが原因としか考えられなかった。
これの清掃依頼がギルドへと舞い込んできたとき、本来初心者のようなレベルの依頼で報奨金も雀の涙だったにもかかわらず、ドウェインが引き受けたのも自明の理、というやつだった。
数日後。
無事エドガーから許しを貰い、エマとトマスからしっかり装備を整えてもらった綾子は丁重にお礼を言って、生まれて初めて村の外へと出た。
勿論、ドウェインも一緒である。
行きは歩き。帰りはそのミノカラ貝の死がいを持って帰ってくるため、船だ。
そう。綾子はようやく思い出したのだ。
有機石灰という存在を。
有機石灰とは、蠣の殻やその他貝殻を真水で洗って焼いて粉末にしたもので、苦土石灰に比べて土壌のアルカリ化の効果は緩やかではあるが、その分初心者にも扱いやすい石灰だ。
ミノカラ貝、というのがどんな貝なのか見てみないと分からないが、要は貝殻であれば問題は無いはずだ。
まぁ駄目だったら、そいつは選別して抜いて、蠣の殻で行けば良い。
「よし、行くか!」
ドウェインがにこりと笑いかけ、手を差し伸べてくれた。
「おせわになります。」
綾子は頭を下げ、その手を取ったものである。
道中では、色んな話をした。
記憶をなくしているが、自分はおそらくゾハスの出であること。それで、この村でエドガー達から聴取を受けた翌日に騎士団のオスカーという男がもう一度やって来て、「…悪いが君はもうゾハスには戻れんのだ。ちょっと色々あって今、あの街は混乱のさなかにある。お前の居た娼館も取り締まりを受けていてな。解体されている最中だ…お前のような子どもはひとたまりもない。」と言われたことを話すと、
「あぁ…それは間違いない。あの例の事件で領主が捕まって、一斉摘発が行われたからだ。」
とドウェインは言った。「そうか…。お前も、巻き込まれてたんだな。」
「…みたいです。」
綾子は苦笑いになって、言った。
「…それで、お前はこれからどうするんだ?」
ドウェイン、前から気になっていたらしい。
綾子は歩きながら、返答に窮した。
「そうですね…まずは目の前のこれをやって…その後ですよね。」
「ああ、そうだ。その後だよ。」
ドウェインは街道沿いに置かれていた岩…どうもそれは誰かが削って形をととのえて、座れるようにしたらしいそれ…に、どっかりと座ってパンを頬張り、綾子の顔を覗き込んでいる。
眼下では大きな河が、さらさらと音を立てて左から右へと流れている。この街道はここからエストフ港まで、川沿いに通っているらしい。そして背後は広々とした牧草地帯が広がっていた。ところどころに丘がある。遠くでは牛を放牧しているのだろう、黒と白のぶち柄が点々と、小さく見えていた。
良い天気であった。春本番の陽気である。夜明け前にエマから渡された黒パンが、どこか明るめな色合いで綾子を見ていた。
「…まず、ゾハスへ戻ろうとは思えないんですよね。」
「ほう。それはどうして」
「単純に怖い。」
と真剣な顔をして言う綾子にドウェインは一瞬あっけにとられていたが、急に爆笑しだした。
「アッハハハハ…!!お前あそこで子供率いて色々やってたじゃねえか。ゾハスのスラム街では有名だったぞお前。みんな知ってたぞ」
「らしいですね。でも記憶無いんだもん。」
少なくとも自分に、あんな大それたことは出来ない。大の大人に向かっても物怖じせず、時にあっというような策略を張り巡らして破落戸をすっぽんぽんにして吊るし上げたり、器用に子供の演技をして大人に取り入ったりして凄まじい立ち回りをしていた。研究一途で元々人付き合い苦手な綾子にはそんなの、到底無理だ。第一綾子は運動が大の苦手である。小学校のころは走ればビリ、投げればボールは明後日の方向へと飛んでいた。
「でもたしかに、変だとは思ったんだよな。俺が聞いてたその子はマーガレットって名乗ってたし、腕っぷしが強かったのは魔力が無くてそれをカバーするために必死で鍛錬した賜物だって聞いてる。でも今のお前は物凄い持ってるからな…。それにびっくりしたのはその見た目だよ。」
「…えっ?」
それはどういう意味だ。
「あぁ。聞いてた話だと、マーガレットって女の子の髪の色は茶色。あと瞳の色も違う。ゾハスのお前を知るヤツはみんな言ってたぞ、あの子の瞳はまるで闇を吸い込んだように真っ黒だったってな。」
「…!?」
これは一体どうしたことだろう。
今の綾子の出で立ちは真っ赤な髪に緑色の瞳だ。
「ただ顔だちは間違いなかったから、あと娼館の話だよな。それでお前だ、って分かったんだけど…。お前、きっとゾグレス川で溺れた時に何かがあったんだよ。今となっては分からねぇけど」
ドウェインの言に綾子は頷いて、パンを頬張った。
バターが塗りこめられていて、中に葉野菜と干し肉が挟まっている。美味かった。
「…それで、エマさんやトマスさん、ブラントンさんとも相談したんですけど、結局結論は出なくて…。ひとまず、魔法学院に入ってみようかと思ってるんです。」
綾子が話をしめくくるとドウェインは驚いて、「おお!入るのか?」
「三人には勧められました。招待状もいただいてるんです。」
「それは特待生扱いだな。学院の連中が来なかったか?」
「来ました。」
綾子は紺色のマントに身を包んだ男女4人の顔を思い出していた。
彼らは年齢も性別もバラバラだったが、どこか懐かしい雰囲気を纏っていた。
日本にいた頃、綾子は大学院生をしていた。その同期や助手、教授たちと同じ雰囲気を彼らは持っていたのである。
彼らとは、向こうで死ぬ少し前に家の都合で離れ離れになってしまった。その間に研究室もなんだか大変なことになったと先輩から聞いたっけ…。でもいつか会えるだろうと高を括っていた。まさかあんなことになるなんて、思ってもみなかったのだ。
(会いたいな…)
遠くまで来てしまった。
「…おーーーい。」
はたと気づくと、ドウェインが目の前でパタパタと手を振っていた。
「はっ…!すみません、ぼーっとしていました。」
「そろそろ行くか。今日一日でなんとかエストフの手前まで行きたい。お前に教えることもあるしな。」
ドウェインの話では、その手前の村までは大人の足だと一日かからない。しかし今回は綾子がいる。
「はい…!」
そうだった。今回の旅はそれも目的なのだ。綾子は気を引き締め、立ち上がった。




