アメリアの苦悩
扉が叩かれたのは、窓の外が暗くなったころだった。
アメリアが声を掛けると、フレイドという少女が入ってくる。明らかに疲れ切った顔だ。
町の人に聞けば、昨日の夜から賊の撃退をし、夜明けに私たちが助けに行くまで続いたという。
その後の祝宴とわずかな時間を置いての講義だ。
心身ともに疲労困憊なのだろう。足元もふらついている。
「大丈夫なの」
「はい、平気」
少女が手を上げてベッドに座り込む。とてもそうには見えない。
「何の講義だったの」
「商業ギルドについて。商品の価格の決め方から始まって、商業ギルドの成り立ちと役割。問題点を教えて貰いました」
商業ギルドについて。それは、上級学院で習うことだ。それを教えているの。
「フレイドさんと言ったわね。あなたは、どこの学院を出られたの」
「僕は、開学にも行っていません。まだ、文字も練習中です」
「本当なの」
思わず声に出た。
文字を練習中の平民に、上級学院の内容を教えていることになる。
「それは、理解出来たの」
「目の前に葡萄酒があったから、それを使って教えてくれました。需要と供給というのがあって、価格は変動するものだと。掛かった経費があるから、そこに最低利益を乗せた価格が、下限価格だと知りました」
な、何、それ。そんなこと私も習っていないわよ。
「そう。それで、問題点は何だったの」
「国民と国の富の流出、貨幣製造権の消失、商業ギルドからの割り当て配当の不統一です」
「それも理解出来たの」
「図に書いて教えてくれたから、分かりました」
分かったって、図に書いて簡単に教えられるものなの。
「そう、先師は経済学の賢者様なのね。でも、商業以外のことも学ばないといけないわね」
「その前は都市計画を習って、次の講義は農業についてだそうです」
その言葉に、身体を起こした。
何を言っているの。そんな広い範囲をあの歳で知っているというの。
「賢者様は、何者なの」
「凄い人。本当に何でも知っている偉い人です。ぼくは剣術も習っています」
「そんな凄い人が––」
続く言葉を呑み込んだ。何であなたを修士にしたのかという言葉を。
「先師になって貰うのに、どれほどのお金を渡したの」
「お金。教えて貰うのに、お金がいるの」
眩暈がする。それほどの知識を持った賢者に個人が教授して貰うのだ、シリング単位の金貨が必要になる。
「ど。どうやって知り合えたの」
その言葉に、少し困ったような顔をする。
「ぼくの作った外套を上げた」
「そ、それだけ」
「はい。でも、創聖皇が逢わせてくれたのかもしれない」
「創聖皇が」
「はい。ぼくがまだ縫製工房で働いていた頃、夢を見たの。泥沼に沈んでいくぼくを、大きな翼竜がその足で掴んで、高く、高く空に引き上げてくれた夢を。その数日後に先師に出会った」
呟くように言う。
夢に出て来た翼竜が、あの賢者様ということか。
思い込みだろうが、同時にそれは賢者様が縛られていないということだ。
お金で雇われたのならば、雇用関係があるが、それはない。
「それで、フレイドさんは学んで、何をしたいの」
「人を助ける仕事がしたい。先師みたいに、人を助けたい」
「人を助ける、人にものを教えるの」
「それもだけど、先師のように医術も聖符も習って命を救いたい」
答えながら、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
疲れ切り、眠るしかないのだろう。
私は起き上がると、部屋の反対側のベッドまで進み、その身体にシーツを掛けた。
「ありがとう」
フレイドの目が開いた。赤く充血をした眠そうな目だ。
「いいわよ」
「一つ間違えていた。賊の上に光を出したのはーー先師」
それだけを言うと、寝息を立てる。
私は、私は自分のベッドに戻ろうとする足を進めなかった。
自らを照らすような賊の愚か者が、数人がかりで上げていたと思っていた光球だ。街道からでも見ることの出来た強い光を放つ大きな光球だ。
それをあの賢者様が一人で出していたというの。
賢者様は橋の上で、賊を迎え撃っていたはずよ。それが、あれほどの光球を出し、それも離れた場所に出し続けていたというの。一体どれほどのルクスを持っているの。
溜息が漏れた。
あの賢者様はただ者ではないと思ったが、そこまでの賢者なのか。
学術で言えば、医術までこなせるのか。
教えていることは、それぞれが専門分野だ。学ぶだけで十年以上はかかる。あの歳で、それを知るのはあり得ない。
広く浅い知識かとも思ったが、聞いた内容にそれはない。
私の知っている賢者からはかけ離れ過ぎている。
最初にどこまでの人物か知ろうと呼び寄せたが、逆に私の方が見限られた。私の底が見透かされたのだ。
腹も立ったが、それ以上に興味を持った。矜持を正し、規範を示せという言葉の真意があるように思えてならなかった。
そして、再度会った賢者様に対する私の評価は、一変した。
話す内容の一つ一つが、全て気付きになったのだ。他の賢者のような高慢な態度はなく、回りくどい言い方もなく、簡易で明瞭だった。
私は、いや私たちはバルクス公こそが、王宮を抑える要だと思い、国の向かう先を示せると思っていた。
もしかすれば、あの賢者様こそが国の道標ではないのだろか。
私はやっと足を進め、ベッドに腰を下ろした。
賢者様は、エスラ王国に向かうと言っていた。国体に関わりたいと言っていた。
しかしだ。誰に呼ばれたか、誰の縁故で誰に会いに行くという話はなかった。それに、世界を回っているとも言っていた。
もしかすれば、賢者様は何の縁故もなくエスラ王国に行くのではないのだろうか。国体に関わりたいと思い、世界を回っていたのではないのだろうか。
あれほどの宝を他の国は見極められなかった。手には出来なかった。
みすみすエスラ王国に渡す必要などない。幸い、この修士とも雇用関係はなく、賢者様は自由だ。ならば、取り込めないだろうか。
どうすればいい。
人は欲があれば、そこに付け入る隙が出来る。いや、魂を浄化すると言っていたあの賢者様にそれはない。そんなことすら、超越しているのだ。
もう一歩深く考えてみよう。
では、国体に関わりたいはずの賢者様は、どうしてこのラルク王国には関心を示さないのか。
印綬の継承者といえば、王あるいはその近臣だ。国の中枢だ。その私たちになぜ話を持って来ない。
そこに来て、初めて大きく息を付いた。
賢者様が言われた水の流れ。三人がそれぞれ考えを口にした。フレイドの言った言葉、一度壊して新たに作り直す。それが、答えなのだ。
賢者様は、王宮を一度壊す。官吏の入れ替えをしなければならないと言っているのだ。
それは――無理だ。
王宮官吏は、公貴が世襲している。それを排除すれば、どのような反発があるか分からない。
同時に思う。このままならば、私たちも十年と持たずに廃位されてしまうだろう。
廃位された王と印綬の継承者はどうなるか。
印綬を手にした瞬間、私たちの籍は王国から消えて創聖皇の元に移る。天籍に入るのだ。老いによる衰えがないように、歳は取らなくなる。
しかし、廃位されると天籍は抹消される。その籍は王国籍に戻ることもなく、籍なしとして放り出される。
籍がない為に、家も畑も与えられない。歳を再び取り始め、彷徨い続けるしかない。
印綬の継承者に選ばれたにも関わらず、全う出来なかった私たちは、天の意向に逆らい、廃位されたのだから天逆の扱いにもなる。
天逆に手を差し伸べる者もいない。討伐される対象になるのだ。
一度定められた印綬の継承者たちが廃位を逃れるには、一定期間を経た後、警鐘雲がない状態で退位を申し出なければならない。
そうすれば、天籍から王国籍に戻ることが出来る。しかし、有史以来それを行ったの者は、数えるほどしかいないという。
私たちは、印綬の継承者という処刑台に乗せられたようなものだ。
どうすればいい。
賢者様はガイアに真っ直ぐに進めばいいと言っていた。私はどうしたらいいのだろうか。
道を知りたい。
この苦境から脱する知恵が欲しい。
そこまで考えた時、不意に扉が再び叩かれた。
この時間に誰が来たのだろうか。
フレイドを起こさないように、私は静かに扉に向かった。
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