ボルグ様の影
「お伺いしてもよろしいですか」
わしは、賢者様に身体を向けた。
「賢者様のお名前はボルグ・ロウザス様で、ボルグのお名前はボルグ・マクレン様から頂いたとか、ボルグ様はお元気でいらっしゃいますか」
「いえ、僕が偉大な先師の名を頂いたのではありません。名乗っているだけです。先師は、御健在です」
「そうですか。ところでローブのお名前は、クルス・ロウザス様になっておりますが、ベルツ上級学院のクルス賢者様の一族の方ですか」
「そうなります」
「ボルグ様とクルス様は、仲がよろしくなかったようですが」
「ボルグ先師は、ルクスを学術と認めていなかった。そう言いたいのでしょうか」
初めて、賢者様が顔を向けた。
「はい、よくそのことを口にされていたのを聞きました」
「僕は少しですがルクスを知っています。そのルクスについて教えて下さったのは、ボルグ先師でした」
「ボルグ様が、ですか」
「はい、僕が最初にボルグ先師に教えて頂いた中に、ルクスの制御があります。昔は知りませんが、ボルグ先師はルクスを学術として捉え、実践されています」
それは嘘だと言いたい。嘘だと言いたいが、賢者様が嘘をついていないことも分かる。
「わしは」
大きく息を付いて、気を静める。
「わしは、十六の時に誘拐され、ウラノス王国に売り飛ばされました。十八まで農園で働かされ、その後で引き取られたのがシルザム家でした。その家で下僕として仕えましたが、三十になった時に急にマクレン家に引き取られたのです」
わしの言葉に、周囲が静まる。壁際に立つわしの修士たちも。身じろぎ一つしない。
この話は、甥のレビにもしていないのだ。
「農地で、シルザム家で、わしはことあるごとにムチ打たれ、今も背中には傷跡が残っております。何度、この世を恨んだか。何度、ウラノス王国を恨んだか。何度、死を考えたか」
苦難の先には、絶望しかなかった時代だ。
「マクレン家では、下僕からボルグ様の使用人して頂きました。同じ使用人からの虐めはありましたが、ムチ打たれることはありませんでした。いえ、あの家では下僕でもムチ打たれることはありません」
賢者様は静かにわしの話を聞いている。
「ボルグ様は気難しい方ですが、心はお優しく気遣いの方でした。屋敷に高貴の子供が来られて個人講義をしていたおり、学のないわしが何度か扉の外からその講義を聞いていたことに気が付かれると、仕事を免除して扉の外で聞くことも許してくれました」
語りながら涙が溢れてくる。
そうだ。わしはボルグ様を崇拝すらしていた。特別な存在だ。
そのお方と同じ名を持つこの賢者様を心の奥で忌避していたのだ。同じ名前というだけで、汚されたように感じてしまっていたのだ。
「はい。言い方は素気ありませんが、本当に相手のことを深く考えて下さる先師です」
ゆったりと深みのある声だ。本当に、この賢者様は––。
わしはそこで初めて気が付いた。なぜ、こんな話を皆の前でしてしまったのか。涙が溢れてきたか。
わしはこの賢者様を忌避し、ボルグ様を汚す存在だと思うと同時に、この賢者様の中にボルグ様を見たのだ。
本当に、この賢者様はボルグ様に似ておられる。身に纏った雰囲気が似ておられる。
セリたちに謝りに行くように言った時。柔らかな口調だが、そこには拒否を許さぬ厳しさがあった。自らを見つめ直せとの叱責があった。
わしは、そこにボルグ様を見た思いがしたのだ。
ボルグ様の峻烈な厳しさと優しさを見た思いがしたのだ。
目元を拭うわしは、真直ぐに賢者様の目を見る。
「ウラノス家に仕えてちょうど十五年目に、ボルグ様から解放を伝えられました。ボルグ様はわしを使用人としての正当な報酬を計算されておられた。わしが買われた金は五年で返済され、残りの十年分は手を付けずに残しておいてくれた。一部を帰るための旅費に使えるようにしてくれていた。わしは四十五歳にして、再び自由を得、帰ることが出来た」
その目は、分かったと言ってくれたようで、包んでくれたようで、わしは溢れる涙に、これ以上言葉を紡げなかった。
「先師らしいです」
賢者様の呟く声が、物音一つしない部屋に響く。
どのくらいしたか、
「賢者様は、いつからボルグ様に教授されたのですか」
尋ねたのは、奥に立つ女だ。
名はマデリと言い、まだ十六で三月前から学びだしたが、その上達はわしも驚くほどの少女だ。
「僕は、十歳の時に教えて貰いました。それよりも、皆さんはどうしてそこに立っておられるのですか。テーブルは広いのですから、一緒にお茶を飲みませんか」
「いえ、エルミの公貴様とは身分が違います」
そう、賢者様は六種の人の中でもエルフに次ぐ高貴の人種。それも公貴となれば、わしが同席するのも憚れるほどだ。
「僕は、同じ人です。そこに垣根などはありません。それに、そこに立たれていたらお茶を飲むのにも気が引けます」
賢者様が困ったように言う。
そうだ、ボルグ様にわしもお茶を誘われたことがあった。エルミを上に見ることが、傲慢だとも言われていた。
「一緒に、お茶を頂こう。他の者は食事の準備か」
「はい。もう少しお待ちください」
手前の男が頭を下げ、すぐにマデリがテーブルに身を乗り出す。
「賢者様の説明、すごく分かりやすかったのです……いえ、セルダ先師の講義が分かり辛いということではありません」
自分の言葉を慌てて訂正した。
「気を使うな。当然だ、わしはあくまで聞きかじりで、賢者様は正当な教育を受けておる」
わしの言葉に、マデリが深く頭を下げる。
「賢者様は、あのように教えて頂いたのですね」
マデリの言葉に賢者様が笑った。公貴に対する礼など、本当に気にもしていない笑いだ。
「僕は最初に三つのことを学ぶように言われました。身体、ルクス、学術です。まず、体力づくり。そして、聖符の書き写しと意識を内側に向けること。学術は数学理論という本を渡されました」
「意識を内に向けるというのは、どういうことですか」
尋ねたのは、リベルだ。歳は四十に近いが、熱心さでは開学でも一番になる。
どうも、開学は男性よりも女性の方が積極的で、向上心がある。
「その言葉通りで、意識を自分の奥深くに沈めていくことです。これはルクスに関係しますが、皆さんは、まだしないほうがいいでしょう。心を見つめるだけにしなさい」
「どうしてですか」
「意識の奥には三つの門があります。ただ、エルグの方には最初の第一門に、妖がいます。潜っていくと、その妖に意識が呑み込まれてしまうそうです」
妖。それが、セラを助けたルクスの変化なのか。気になったが聞けなかった、核心の部分だ。
妖気をルクスに変えることが出来るなら、それは秘法として公にされることはない。
発見した者の当然の権利だ。
「賢者様。妖気をルクスに変えるというのは、その妖を倒すということですか」
マデリが、身を乗り出したまま聞く。彼女には、その秘法がどれほどの富を生み出すか分かってはいないのだろう。
しかし、その方法が分かれば、皆が妖気を駆逐できる。
「いえ、妖をルクスで抑え込むことで、妖気はルクスへと変容しました」
思いがけず、あっさりと賢者様が答えられた。
秘匿する気がないのか、この賢者様は。
「では、どうすればいいのでしょうか」
反射的に、わしも身を乗り出した。
「まずは、行動を改めてください。考えを改めてください。正しい行いと考えをしてください」
「それで、妖気は変わるのですか」
「妖と対抗できるルクスになります。ルクスが創聖皇の心ならば、その心を汚さなければ妖気と対抗できます。妖気をルクスに変容させるのは、その次になります」
「その次というのは––」
重ねて尋ねた時、入口が大きく開かれた。
入ってきたのは、セリとフレイドだ。
「謝ってきましたか」
賢者様の言葉に、二人が大きく頷く。
「謝ってきた。許してくれたわ」
「そうですか。では、フレイドさんとセリくんも一緒にお茶を頂きましょう」
賢者様はそう言うと、わしに目を戻して続ける。
「妖気の変容については、僕自身、把握できていません。このことは、クルスさんたちに聞いてみます。二人はルクス学の賢者ですから、より詳細に検討できるはずです」
「そうですか」
答えながら息をついた。失望ではない、希望だ。
エルミの賢者様が、エルグの為に本気で動いてくれると言っているのだ。
同じだ。ボルグ様と同じだ。
「お願いします」
深く頭を下げる横で、
「あの、数学理論というのはどんな本なのですか」
マデリが再び身体を乗り出した。
少女には、今の賢者様の言葉の意味が分かってはいないのだろう。それよりも、自分の知的好奇心が抑えられないのだ。
「自然現象を数式で記した学術書になります。僕はそれを百回読むように言われました」
「見せては頂けませんか」
「構いません。先ほど講義をしていた部屋の机に置いてあります。一番厚い本がそれになりますので、持ってきて貰えますか」
その言葉に、マデリが駆けだした。
「先師、大事な本でしょ。いいの」
傍らで、フレイドが不満そうに言う。
自分の先師が、他の子に取られるようにでも感じたのだろう。まだ子供だ。
それでも、この子には強いルクスを感じる。賢者様が修士に選ばれたのも、そのルクスがあるからなのだろう。
「これですか」
すぐにマデリが本を抱えて戻ってきた。
「そうです。十歳の時に僕はそれを百回読むように言われました」
「この本を、十歳で、ですか」
その言葉に、わしも開かれたそれを見る。
これは教本ではない。学術書だ。それも賢者が使う学術書だ。難解な文章に複雑な数式が併記されている。
「さすがです。賢者様は十歳でこれを読まれたのですか」
マデリが溜息を洩らした。
自分の才の限界を知ったかのような声だ。しかし、それは違う。比較する相手が間違えている。
掛ける言葉を探していると、
「まさか、そんな難解なものを十歳の僕が理解できるわけがありません」
賢者様が諭すように言う。
「ボルグ先師が百回読めと言われたのは、それだけ読めば愚鈍な僕にでも理解が出来ると言われたのです。百回読むのに、僕は三年かかりました。内容を理解できたのは、それからです」
「百回以上読んだのですか。これを」
「はい。分からない言葉は記して文字の勉強にもなりました」
あっさりと答えるその言葉に、わしが言葉を失う。これを理解したのか。十歳の子が三年がかりで読み込んで理解したのか。
「その本を貸して頂けませんか、うちもそれを読んで学びたいです」
マデリが頭を下げる。
「これは、限られた時間で、限られた場所しかなかったから、ボルグ先師が選ばれた学ばせ方です。僕には近道になったかもしれませんが、他の人には遠回りになります」
賢者様が手を伸ばして本を閉じた。
「皆さんには、もっと効率のいい近道があるではないですか。すぐそばに先師がおられるのです。セルダ先師は頼れる先師です。この恵まれた環境をもっと利用しなさい」
そう言われて笑われる姿に、わしはただ頷き返すしか出来ない。
この賢者様の器量に、わしはただ呑み込まれてしまった。
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