賢者様
身体の震えが止められず、セルダは拳を握り締めた。
セラの顔に赤みがさし、呼吸が深くなった。いや、それよりも驚いたのは、首筋から延びる痣が、真紅に変わると同時に、セラの雰囲気が変わったのだ。
深さを増したと言えばいいのか、重みを増したと言えばいいのか、明らかにその瞬間に変わった。
ルクスの強さが増したのだ。
ルクスの底上げがされたかのように感じる。もちろん、その感想があり得ないことなど十分に知っている。
しかし、そう思わずにはいられない。
賢者様は、セラのルクスを補強すると言った。
意味は分からなかった。ルクスは生まれ持ったもので、その強さは生涯変わらない。不変が常識のはずだ。まして、セラはルクスの安定もしていない子供。
しかし、確かにセラの雰囲気は変わった。ルクスが現れるのは、その身にまとう雰囲気だ。
それがこんなにも変わるとは信じられない。
賢者様の身体が動いた。
大きく息を付きながら、セラの首筋に付けていた手を離す。
その横顔を見た。セリと同じくらいだろうか。
賢者様と言えば、学問を収めた証のローブを身に纏う。そのローブを手にする方法は二つしかない。
上級学院で学問を収め、その学術を学院が認める。
その場合は上級学院の名前の入ったローブが渡され、上級学院がその学術を保証することになる。
もう一つは、先師である賢者がその学術を認め、自らの名の元にローブを与える。
そのローブには送った賢者の名が記されており、もしも学術に不備があればその全責任を取らなければならない。
共に、名誉にかかわることの為、そこには身分もコネも関係ない。
賢者様のローブの襟元には、クルス・ロウゼスの名とベルツ上級学院の名が入っていた。
世界一と評されるベルツ上級学院からクルスという方が下賜されたローブだ。それをこの方は託された。
若すぎる賢者様だが、それも才能なのだろうと最初は思った。違う世界の人ゆえ、関わりを避けようと思った。
都市の計画を聞いた時に、類まれな才能だと知った。この方の話を聞きたいと思った。
そして講義を聞いた時に、難解な内容を平易に説明される姿に、今まで知る賢者様とは一線を隔する才能だと理解した。
今、今は恐怖を感じていた。
わしの理解の範疇を超える才能に、恐怖を感じた。
セラの首筋に手を当てた瞬間に感じた威圧、底知れぬルクスに恐怖した。
わしが量れる人ではないことに、恐怖した。
「どうなの」
わしの横で、フレイドという修士が弾けるように尋ねる。
「ルクスの増強は出来ました。これで、大丈夫なはずです」
賢者様の言葉にセリが泣き出し、レビがセラを抱きしめた。
「これで、薬も効くはずです」
その目が向けられる。
「なにを、されたのですか」
思わず言葉に出た。
「あなた方、エルグの民の持つ妖気をルクスに変容させました」
何を言っているのか理解が出来ない。
確かに、エルグは母親の胎内に妖気が入って生まれた種族だ。ルクスと妖気が混在する種族だ。
その妖気をルクスに変えたとでも……セラのルクスは変わった。
まさか。
「申し訳ありませんが、僕は少しここで休みます。フレイドさん、セラの包帯と薬を変えてあげてくれますか」
「わ、分かったわ」
呆然とするわしの横を漆黒のローブが抜け、賢者様はわしの隣に腰を下ろした。
「あの、先ほどのルクスに変えたというのは」
慌てて顔を向ける。
「真獣のように妖気をルクスに変えたのです。エルグの民には可能性があります」
真獣、あの強大なルクスを持ち、力の溢れる騎獣のことか。
「そんな、わしらは劣った人種ではないのですか」
「創聖皇は人種に優劣など付けていません。全ての人は対等です」
「では、皆が真獣のように」
「なれます。今、それが証明されました」
その声からは疲れが溢れていた。しかし、それでも聞かなければならなかった。
「では、賢者様が手を当てて下されば––」
「セラくんはルクスが削れ、死の淵にいました。彼を生かしていたのは妖気です。その妖気も削られていたために、ルクスに変容できました。実際、こんなことをしたのは初めてですし、上手くいったのは本当に偶然です」
「初めて、なのですか」
「クルスとクリエという賢者の親子が、研究を重ねて論文にしたものを応用しただけです。そして、もう一つ分かりました」
賢者様が顔を上げる。
「第一門というところまで、妖気に引きずられて沈みましたが、それはさっきも言ったように彼のルクスが弱っていたからです。これは、お互いにかなり危険なものです」
その言葉を聞きながら、賢者様の目から視線を外せなかった。
この目は、苦難を越えた絶望を見てきた者の目だ。様々なことが思い返されて、わし自身の目が霞んでくる。
わしと同じ、絶望を見てきた目だ。
「そうですか。それよりもとんでもない失礼をしていました。少しお待ちください」
わしは立ち上がると広間に戻った。
そこには一緒に講義を受けたわしの修士が、まだ控えている。セラのことを心配していたのだろう。
「セラは大丈夫だ。賢者様が救って下さった」
わしの言葉に安堵したように、全員の顔に笑みが浮かぶ。
「それで、治療をして下さった賢者様に、お茶と食事を差し上げたい。他の者にも伝え、すぐに準備してくれ。まずは、お茶をすぐに頼む」
「分かりました」
動き出す彼らを見ながら、わしは大きく息を付いた。
気を落ち着けなければ、わし自身の混乱が増すばかりだ。
玄関の横の厨が騒がしくなり、わしは部屋へ足を戻した。
部屋では、フレイドがセラを横に寝かせ、レビが賢者様に深く頭を下げている。
レビも我が子の最期を看取るつもりで残っていたのだ。その喜びは計り知れないのだろう。
早く、イスバル関にいるセラの母親にも教えてやらなければいけない。
わしが椅子に腰を下ろすと、その後を追いかけるように女が仕切りの扉を開けた。
用意が出来たようだ。
「賢者様、フレイドさんもお疲れでしょう。お茶の用意が出来ました。どうぞ、広間の方に」
わしの言葉に、
「でも、セラがまた急変したらどうするのさ」
セリが立ち上がった。
「ここの扉は明けておきましょう。容態が変われば、すぐに診られます。お言葉に甘えます」
賢者様が立ち上がり、フレイドもベッドから離れる。
それだけで、あのセリが口を閉じた。
正しいと思えば、自らの主張を頑なに曲げず、ちょっとしたことで意識を妖に呑み込まれてしまうあのセリが。
広間に移ると、大きなテーブルにはカップとお茶の入った器が並べられている。地図を背にした上座をわしは自然に空けて、賢者様を案内した。
わしはその右に座り、左にはフレイドが腰を下ろす。レビはわしの右で、セリが、セリは賢者様の正面に回った。
「本当に、ありがとうございます。それに、昨日はすみませんでした」
そのまま頭を下げる。
驚いたのは皆も同じだ。お茶を注ぐ女たちの手も止まっている。
セリが素直に自分から頭を下げたのだ。
「おいら、あん時はずっと賢者様を捜してイライラしていたから」
「セリくん、あなたに悪意がない事は分かります」
静かな声で、賢者様が答えた。
静かで、柔らかな声だ。
「でしたら、謝る相手が違います。まず、お店の方に謝りなさい。暴れた店の店主とあの店の商業権を持つ商店主の方に謝りなさい。その後で、長老に謝りなさい」
「ぼくにも謝って貰わないと」
フレイドが立ち上がった。
セリもその少女を睨みつける。
やはり、変わってはいないか。セリはいつもの乱暴者のセリだ。
ここで止めなければ、またケンカが起こりそうだ。
身体を起こそうとした時、
「フレイドさん、あなたも同じです」
柔らかな声が続く。
「暴れたのは、あなたも同じです。一緒に謝って来なさい」
「なんで、ぼくは服を汚されたから怒ったんだ」
「フレイドさんの怒りとお店には何の関係もありません。店で暴れて食器を壊したのは誰ですか」
「だけど」
「もし、フレイドさんが穏やかに注意をし、それでもセリくんが暴れたならば、あなたに落ち度はありません。ですが、先に手を出したでしょう」
賢者様の言葉に、フレイドが唇を噛んで頷いた。
「セリくんも、分かりましたか」
「分かりました」
セリが言われた通りに背を向けた。
あのセリが。
フレイドも横を向いたまま後に続く。
賢者様は。賢者様は当然のようにそれを見送り、お茶を口に運んだ。
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