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98 約束する



 首の皮一枚繋がったまま、先生は前のめりに倒れてもうぴくりとも動かない。

 


 俺が殺した。


 たとえそこに殺意がなかろうと、俺が奪ったことに変わりは無い。だってこの手が覚えている。命が失われる瞬間を。俺の手で先生が死んでしまった。それは絶対に変わりようのない事実で、俺はこれから一生、永遠に、この命を背負っていく。



 涙は出なかった。周りの人間に何か言われた気がするけれど覚えていない。

 それからの記憶も曖昧だ。気づいたら屋敷に戻る道を歩いていた。先生の遺体は神野藤家の縁者たちが引き取りに来てくれる手はずだから、俺は一人屋敷に戻ることになった。俺なんかが戻って良いのかと、怖かった。心桜に合わせる顔がない。悲しむことすら許されないと思った。だって俺が先生を殺したんだ。心桜の一番大切な人を、特別な人を、俺はこの手で……


 きっと心桜は今頃必死で耐えている。あの広い屋敷の中でたった一人で、苦しい体を抱えて……



 そう思ったら、たとえ合わせる顔がなくてもそんなの理由にならないと思った。足がだんだん速くなって、最後には駆け込むように屋敷に入って心桜の部屋の襖を開けた。



「……はっ、こはっ、心桜……!!」



 心桜は震えて小さくなっていた。涙を必死で堪えて、青ざめた顔で俺を見上げた。



「ほむ、ら、さ……」


 気づいたら抱き締めていた。

 心桜の小さな体を壊してしまわないように、必死で力を抑えた。心桜に触れているところからどんどん温かいぬくもりが広がっていく。心桜が生きていることを何度も何度も確認して、気づいたらボロボロ泣いていた。

 いつまでそうしていたのだろう。心桜を抱き締めたまま泣きつかれて眠って、それからもずっと一緒に過ごしたと思う。

 言葉はなかった。その時の俺たちには不要だったから。








――――――――――



「都に……行こうと思ってるんだ」


 怖くて心桜の顔は見られなかった。ただ彼女がびくっと怯えたのはわかった。


「どうして? まさか、ほむらさん……」

「殿様の護衛だよ。腕を見込まれてやってみないかって。それで向こうに着いたらもしかしたら刀士郎たちにも会えるかもしれないし。もし運良く会えたら何とか説得して連れて帰ろうと思ってる。攘夷だかなんだか知らないけどもうやめろって説得してみる」


 殿様の護衛は俺の剣の腕を見込んでのことで、当然武士でもなければ女の俺を連れて行くなんて前代未聞だ。あり得ないことが起こっている。でもそれだけ都が危ないってことだと思う。あと多分人手不足だ。若い連中が皆都に行ったり逃げ出したりして、殿様も困ってるんだろう。


 昔の俺なら護衛なんて絶対断ってた。危険だし、偉そうな武家の連中に囲まれたくもない。でも今は迷わなかった。そうしなければならないような衝動に駆られていた。


 数ヶ月前、先生の命をこの手で奪い、皆を守ることを託された。なのに俺は相変わらず何も成せていない。何かしなければならないとは思うのにどうすればいいかわからなくて、焦ってばかりいる。


 先生が止められなかった彼らを俺が止められるとはどうしても思えなかった。連れ帰れば良いって単純な話でもないかもしれない。でも折角降って湧いた機会だ。今の俺にできることはこれくらいしかない。まずは会えなければ何も始まらない。



 俺は不安そうな心桜に精一杯笑い掛けた。



「大丈夫。すぐに戻ってくるよ」

「でも……どうしてほむらさんがそんな危険なことを……」

「なあに、危険なことがあったら誰よりも真っ先に逃げ出すよ。俺は武士じゃないからな。気楽なもんだ」

「武家の皆様は何をされているのですか。伏せってばかりの私が言えることではないですが……私はほむらさんのことが心配です」

「俺は大丈夫だよ。彼らも忙しいんじゃないか? 義勝も何してるかよくわからないけど忙しすぎて死ぬんじゃないかと言う顔をしている。ああ、そう言えばそれには義勝も同行するらしい。あいつがいれば大丈夫だよ。多分……」


 拳を握って、きっと心桜が聞きたくないであろうことを選んで口にした。


「……最近、都で攘夷派の浪士がたくさん殺されたって。心桜も知ってるだろ? だからほら、できれば早くあいつらを安全な場所に連れ戻したいんだ」

「………………はい」


 もしかしたら殺された人の中に道場の者がいたかもしれない。それを思って心桜が毎日泣いているのを知っている。俺には隠しているつもりだろうけれどバレバレだ。こんな真っ赤な目元を見て気づかない方がどうかしている。

 だからこれを言えば、きっと心桜は強く俺を引き留められないだろうと俺はわかっていた。



「そんなに長くはかからないよ。心桜のことだって心配だし――」

「私のことなら……心配なさらないでください」



 心桜はぐっと何かを堪えるような表情をしてから気丈に微笑んだ。

 枕元の短刀をそっと手に取る。彼女が生まれた時に先生が贈ったもので、心桜はこれを肌身離さず側に置いている。子供の頃からずっと。



「私は大丈夫です。この守り刀が、ほむらさんの代わりに私を守ってくれますから」



 泣きはらして真っ赤になった目元、青白い頬、痩せ細った肩、今にも枯れてしまいそうな……




 誰よりも特別な女の子。



「……都ならば優秀な医師もたくさんいるだろう。連れてくるよ。良い薬も手に入るかもしれない。だから――」

「私のことはよいのです。体のことは心配しないで」

「でも」

「もう十分、十分ですから」


 苦しそうな心桜の声に胸がぎゅっと締め付けられる。


 十分? 何が? まだ庭を駆け回ってすらいない。疲れるまで走り回ったことが一度でもあったか? 屋敷から出たことだってほとんどないんだ。心桜の人生はまだまだこれからだろう? 何が十分だって言うんだよ? 剣の素振りは? してみたいって言っていたのにどうして?

 神野藤を継ぐのは心桜だ。心桜には大切な未来がある。これから元気になって、先生の剣を受け継ぐことのできるどこか良いとこの男を婿にもらって、それで子供を産んで育てて、それから……


 それから……




「心桜、諦めないでくれ」

「……ほむらさん?」

「まだこれからだ。これからなんだ。これから心桜は元気にならなきゃいけない。いっぱいいろんなことして、笑って、腹いっぱい食べて、それから……それから一緒に旅もしよう。そうだ、全国行脚だよ。一緒にいろんな土地を見てさ。安全になったら都にも行こう。きっと面白いものがいっぱいある。心桜と一緒なら俺はどこだって楽しい。だから――」

「もう……おやめください」


 

 心桜の笑顔が痛々しい。

 いや、痛々しいのは……俺の方なんだろうか。



「もうわかっています。いつでも覚悟はできています。ですからほむらさんも、都に行かれるなら覚悟なさってください」

「……嫌だ」

「私はもう長くありません。いつ事切れてもおかしくないとわかっています」

「嫌だ」


 心桜はそっと俺の頬を両手で挟んだ。


「聞き分けのない子供は叱りますよ?」


 赤ん坊の頃から世話してきた心桜に怒られた。それが妙にこそばゆくて、おかしくて……悲しい。


「嫌だよ。だって……だってそんなの嫌だ。なんでそんなこと……。なんで諦めるんだ? まだわからないじゃないか。それこそ異人なら何か知っているかも――」

「ほむらさん。今まで本当にありがとうございました」

「俺はただ都に行くだけだ! すぐ戻ってくる! なんでそんな今生の別れみたいな……」

「そういう場所に行こうとなさってるんです。そもそもいつ何があったっておかしくありません。だから、今こうしていられる時に伝えておきたいんです。私はほむらさんにたくさん優しくしてもらって、たくさん笑わせてもらって、たくさん、幸せをもらいましたから」

「違う。もらってたのは俺の方だ」

「あなたがずっと傍にいてくれたから私ちっとも寂しくありませんでした。自分の足で走れたことはありませんでしたが、あなたがおぶって走ってくれたからまるで自分が走っているように感じられました。男性より強くて格好良いあなたのことが誇らしくて眩しくて」



 青白いばかりだった心桜の頬がうっすらと桜色に染まった。




「大好きです。ほむらさん。それ以外の言葉が見つからないほどに、ずっとずっと大好きです」

 



 俺は心桜の手に自分の手を合わせた。

 温かくて優しい。



「俺も心桜のこと大好きだよ」

「……はい」

「心桜は……道場の皆のことも大好きだろ?」

「……大切でした。道場の皆のことも。道場から聞こえてくる声を聞くのが好きでした。賑やかに鍛錬している声も笑い合っている声も、時折喧嘩している声も。でもあの日々は、もう……」



 心桜は喉を詰まらせた。



「だからほむらさん。どうか……」



 心桜は「ごめんなさい」と顔を伏せた。

 彼女は最後まで望みを口にしなかった。だけど心桜が皆の無事を何よりも祈っていることを俺は知っているから。俺のことをこんなに大好きだと言ってくれたように、皆のことだって大好きなことを知っている。



「心桜は……あの頃みたいに賑やかな日々が戻ることを願っているんだろう?」

「…………」

「わかった。約束する」


 心桜の手をそっと握った。


「俺が……皆を連れて帰るから。心桜をこれ以上待たせたりしない。苦しませたりしない。また皆で茶でも飲もう。それから未来の話をするんだ。明るくて幸せな未来の話を」



 皆連れて帰る。

 医者も見つける。

 それで全部解決だ。先生はいなくなってしまったけれど、俺の力はきっとこの時のためにあったんだ。そうだろ? 先生。



 心桜は俺を見なかった。ただ俯いて、何か堪えるようにじっと動かなかった。







――――――――



「…………お前、ほむらか?」

「ん」


 義勝は俺を見て目を丸くしていた。皆こんな顔をするからもう見慣れたものだ。



『目障りだ。その髪は全て刈るか黒く染めてこい。いいな』



 義勝の上司みたいな人にそう言われたから黒油で髪を黒くした。でもこれは一日経てば落ちてしまう。毎日塗るのは大変だから髪は短く切った。


 別に長い髪に未練なんてない。……ただ、それを見た心桜が悲しそうにしていたのは辛かった。切った髪はそのまま捨てようとしたけれど心桜がせめて持っていたいと言うから、編んで心桜に渡した。


『また伸ばして下さいね。私、ほむらさんの金の髪がすごく好きなんです』




「……勿体ないな」


 義勝がぼそっと呟く。こいつがこんなことを言うのは少し意外だった。


「まるで男に見えるか?」

「男にしては細い。……危ないと判断すれば逃げろ。お前は最初から戦力には入れていない。いいな」

「……お前より俺の方が剣の腕は立つ」

「実戦と訓練は違う。お前に刀を持たせるなど……本当にどうかしている」


 確かに実戦と訓練は違うし、俺だって本当は怖くて逃げ出したい。本気の斬り合いなんて冷静な頭で出来る気がしない。


「碓氷殿、後は私がついていましょう」

「げっ……」


 処刑人の男がいて思わず後ずさった。

 彼までいるとは聞いていない。


「では頼みました。浅田殿」


 義勝は義勝でスタスタとどこかへ行ってしまう。


「浅田伊左衛門と申す」

「ほ、ほむらと申す……」

「立派に務めを果たせよ」

「なぜあなたが……」

「興味が湧いた」


 浅田さんはにやっと笑った。


「あんなものを見せられて黙っていられるわけがなかろう。お前の剣技、とことん見させて貰うからな」


 ギラギラと不気味にぎらつく目は底知れない暗い輝きを放っていた。



 やだこの人怖い。帰りたい。

 そんな軟弱なところがダメだったのか、俺はそれから数日後早速やらかすことになる。


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