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97 別れを告げる



「――――、――――ら、ほむらさん?」

「あっ……」


 心桜の声に意識が引き戻される。

 しまった、完全に意識が飛んでた。


「大丈夫ですか?」

「あ、ごめん、心桜。ちょっと、ぼーっとしてた……」

「……父上と何を話されたのですか? 戻ってきてからずっと……心ここにあらず、と言うか……」





“私を斬りなさい”





 先生の声があの時のままに脳内を再生する。びくっと体が震えて、箸すらまともに持っていられなくなって、情けなく俯く。


「ほむらさん……?」

「う、うん。大丈夫、先生は、元気そうだったよ。うん、思ってた以上に、あはは、いつもの先生って感じで……」


 うまくろれつが回らない。冷や汗が止まらない。でも心桜に言えるわけない。




 先生に頼まれたのは、介錯だった。



 

 切腹する先生の首を最後に斬ってやるというお役目。本来であれば武家の身内か剣の腕の立つ他家の者かその道の人間がするものであって、とにかく俺みたいな人間には絶対に許されない。女だし、武士ですらない。あり得ないことなのに、先生が必死で頼み込んだ結果一体何をどうやったのか知らないが許しが出てしまったらしい。



 考えただけで吐き気がする。

 絶対嫌だ。


 どうして先生はそんなこと俺にさせようとするんだ? 俺の剣は守るための剣なんだろ? 殺すための剣じゃないんだろ!? 矛盾してる。人の命を奪うなと言っておきながら自分の命を奪えという。こんなの間違ってる。こんなの、こんなの絶対に……――



「ほむらさん」



 名前を呼ばれて今度こそ顔を上げる。心桜の顔をまともに見た途端、涙が止まらなくなった。



「ほ、ほむらさん!?」

「うっ……くっ……」




 ……俺は何でこんなに弱いんだろう。

 心桜は実の父親が囚われて、自分だって体が辛くて苦しんでる。なのになんで俺が泣くんだ。誰よりも体の丈夫な俺が。先生の弟子の一人でしかない俺が。本当に辛いのは心桜なんだ。本当に辛いのは……



「ほむらさん……」


 よろよろと俺に近づいた心桜が、ぎゅっと抱き締めてくれた。


「大丈夫。大丈夫です、ほむらさん。私がいますから。ずっとここにいますから」


 泣きじゃくる俺に言い聞かせるように、ゆっくりと、優しく囁く。心桜の手は痩せすぎて力なんて全然なくて、俺がちょっとでも力を入れれば今にも折れてしまいそうで、なのにその声はしっかりと俺の中に響いた。



「人は皆いずれ命を失います。それが早いか、遅いかです。だから大切なのは、どれだけ長く生きたかではなくて、誰と、どう生きたかなのです。父上はきっと、自分の命を賭しても良いと思えるものを見つけられたのでしょう。父上が潔く死を選ぶのならば私は娘としてそれを受け入れます。それが武家の娘として生まれた私の責務ですから」

「でも、で、も……」


 俺は皆と長く生きていたいよ。いつまでもいつまでも、ただ楽しく暮らしていきたい。ただ平和に、穏やかに暮らしたい。……そう願うのは傲慢だろうか。

 潔い死なんて見届けたくない。



 先生を…………斬りたくない。



「ほむらさんはたくさん泣いてくださいね」


 心桜の声が優しく響く。


「武家の責務など無関係なのですから。いくらでも泣いて、怒って下さい。本当に身勝手な人たちだと。父上も刀士郎殿も雪平殿も麟作りんさく殿もみんなみんな……最低だと罵って下さい。相談も無く命なんて賭けてしまって、これだから男性というのは信用がなりません。こちらの気も知らないで、女は忍耐強く男を信じて待てと言う」


 心桜の声が僅かに震えている。


「恨んで下さい、怒って下さい、泣いて下さい。どうかそれを許されない私の分まで」






――――――――



 皆のいなくなった道場は閑散として、心桜が咳き込む音が嫌に大きく聞こえた。少し出かけると言って向かった先は牢屋だった。先生が捕らえられている方じゃない。身分の低い者が収容されている牢屋だ。


「うっ……」


 吐き気がする。先生のところとは全然違った。不衛生で臭いも酷くて、狭い牢屋の中に何人も詰め込まれている。囚人たちは汚いぼろ切れのような服を着て、顔は泥で汚れ、ギラついた白い目がじっと俺を睨んでいる。……怖い。ここには長くいたくない。

 牢屋から引っ立てられた囚人を連れて外に出れば、そのまま刑場へと歩いた。

 刀を差した処刑人の男が俺を見て顔を歪ませた。


「神野藤殿の意図が全く見えぬ。なぜこのような者に介錯を託すのか」

「…………」

「このことは決して口外せぬよう。代々剣術指南をしてきた神野藤の名に傷がつく」

「…………はい」


 その男は代々処刑を請け負ってきた一族の者らしい。

 陰気な顔をした小柄な男で、どうやら先生とも顔見知りなんだとか。俺は会ったことなどなかった。


「最近斬らねばならぬ首が増えた。よく見ておれ。お前にできるものではないとわかるだろう」


 斬首刑に処されることになったその罪人は、身動きのできないよう縄で拘束され、ガクガクと震えていた。その男の犯した罪を俺は知らない。だけど……可哀想だと、思った。


「…………ッ」


 振り下ろされた白刃が弧を描く。肉の斬れ骨の断たれる音がして、鮮血が飛び散る。首のなくなった男の体がぐらりと揺らぎ、その場に倒れ込む。その光景も音も臭いも何もかもが思っていた以上に生々しくて残酷で、腹の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような不快感が込み上げた。


「うっ……げええっ……」


 思わず吐いていた。

 気持ち悪い……気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!!


「チッ」


 処刑人の武士が舌打ちのようなことをしてため息を吐くのがわかった。


「やはり。この程度で吐いていては介錯など務まらぬ。神野藤殿は武士らしく腹を切るつもりなのだぞ。その心意気を汚すような真似をするつもりならば許さぬ」

「ひっ……」


 男の眼光があまりに鋭く、よろよろと後ずさって尻餅をついた。吐き気は収まらないし気持ち悪いし怖いし、涙までにじんで情けないことこの上なかった。


「……はあ。神野藤殿はお前の剣術は自分より上であると仰っておいでだった。正直俄には信じられぬ。娘よ、悪いことは言わぬ。無茶を言っているのは神野藤殿だ。できぬことを無理にする必要はない」


 嫌に決まってる。首なんて斬りたくない。先生がどうしてあんなことを言ったのか、俺には全然理解できない。


「お、俺が、斬らなければ……どう、なるのでしょう……」

「私が斬る。その方が神野藤殿も余計に苦しまずに済むだろう。首を斬るのは非常に難しい行為だ。不慣れな者がやれば何度も刀を振るわねばならぬことになり、罪人に地獄の苦しみを与えてしまう。神野藤殿は十文字に腹を裂くつもりらしい。そこまでできるかはわからぬが、腹を裂いたらできるだけ苦しみを与えぬうちに斬ってやるのが良いだろう」


 この人は……なぜこうも淡々と話せるのだろうか。

 先生が死ぬのに。腹を裂くなど正気の沙汰じゃないのに。


「……武家に生まれた者ならばそれもまた運命。お前には理解できないで良い。そういうものだ」



 わからない。

 美しく死ぬことにどうしてそんなにこだわるのか。そもそもそれは美しいのか?

 本当に先生はそんなことにこだわっているのか? 俺にはどうしてもそうは思えない。先生は……




――――――――



「ほむら」



 帰り道、義勝に出くわした。思えばこいつに会うのも酷く久しぶりだ。最近忙しそうだし。いや、元から忙しいか。真面目で努力家で愛妻家で……忠義に厚い男だ。

 こいつだけは刀士郎たちみたいにいなくならなくて良かったと、心の底から思った。



「酷い顔だな。……刑場に何の用だったんだ」

「…………」

「聞いたぞ。お前が介錯をすることになったと」

「なんでお前が知ってんだ。極秘じゃなかったのか……」

「極秘だ。先生の……助命を嘆願している中で知った」


 助命と聞いて一瞬抱いた希望は次の言葉で砕け散った。


「残念ながらそちらはうまくいかなかった。そもそも先生にその意志がない。あれでは誰も救えない」

「……そう」

「やめておけ。いくらお前が優秀だろうと……お前がやってきた剣術とあれは違う」

「わかってる。わかってるよ。……でもできると思ってしまった」


 気持ち悪かった。怖かった。

 でもあの処刑の瞬間を見た時俺は、俺ならあの処刑人よりうまくやれると思ってしまった。俺ならばきっと誰よりも美しい死を先生に与えてあげられるだろうって。



「…………だとしてもお前がそこまで背負う必要はない」

「俺だって背負いたくない。でも、でも……」



 先生の命は、あの処刑人にとってはたくさん奪った命の一つになるに過ぎないだろう。でも俺は違う。俺にとっては絶対に何よりも重くてきっと一生心の中に留まり続けて離れない命になる。その瞬間を俺は一生忘れることはないだろう。永遠に俺の中に影を落とし続けるだろう。きっと、きっと先生の願いは……



「守るための剣……」



 まるで呪いのように何度も言われてきた。だけど心のどこかでずっとそんなの無理だと思ってた。俺は大切な人のためならきっと平気で人を殺す。もし大切な人を傷つけられたら殺したいとさえ思ってしまう。そんな予感がずっと自分の中にあった。凶暴で残酷な本性をずっと隠してきた。先生はそれを見抜いていたんだろう。俺がいつか殺人鬼になるかもしれないって。人を傷つけ苦しめる最低な人間になるかもしれないって。


 だからそうさせないために俺に託したんじゃないのか。

 俺の力は守るために使う優しく強いものだって、強制的に俺に植え付けるために。自分の命を犠牲にして。そしてきっと……いつか刀士郎たちを止めさせるために。



「酷いよ、あの人は……なんでこんな、こんな……」



 言葉にならなかった。涙は拭いても拭いても止まらなかった。

 義勝は何も言わず、ただずっとそこにいてくれた。




――――――――


 九月一日


 心桜に何も言えないまま、俺は屋敷を後にした。こんな時になぜ行き先も告げずにいなくなるのか、心桜はきっと不安に思うとわかっていたのに何も言えなくて、心桜も何も追求しなかった。俺は心桜が最低だと言った男どもと同じだ。無責任で、身勝手で、肝心な時に何も伝えられない。


 それからの記憶は所々途切れていてはっきりしない。ずっとぼんやりしていたように思う。夢を見ているようだった。どこか現実感がない。真っ白な装束の先生を見ても、刀をこの手に持っても。何もかも現実でないようだった。そう言えばあの処刑人の男は最後まで俺にやめさせようとしたけれど、何を言われてももう何も頭に入ってこなかった。


 先生は俺を真っ直ぐに見て、最期の言葉を紡いだ。


「君にこんな業を背負わせる私を、どうか許さないでください」


 ……うん、許さない。

 一生許さない。だから一生忘れない。


「私の想いを、あなたに託します。どうか……守ってください。その力で君にとって大切な人を、心桜を、刀士郎君たちを、君がこれから出会うたくさんの人たちを……命を繋いでください」


 先生が笑った。いつものように優しい顔で。


「よろしく頼んだよ、ほむら」


 いつものように柔らかな口調で。


「さようなら」


 ――――


 真っ白な服を、肌を赤い血が染め上げていく。先生が自分の腹を掻き切る。なんでわざわざ苦しむ方法を選ぶんだよ。俺がすぐに楽にしてやれるのに。俺に背負わせる業を思って? だとしたらそんなの間違ってるよ。俺はあなたが苦しむことをこれっぽっちも望んじゃいない。


 だってあなたは――


『どうも初めまして』


 最初にかけられた、間の抜けた声を覚えている。


『じゃあご飯でもどうだい?』


 生まれて初めてあんなに美味しいご飯を食べた。


『はっはっは、すまない。ちょっと爆発してしまった』


 ほんと笑い事じゃないよ。何回庭を爆発させたら気が済むんだ。

 


 あなたにたくさんのものを貰った。たくさんのことを教えてもらった。鬼子と罵られていた俺に初めて温かいものをくれた。幸せだった。生まれてよかった。




 ずっとずっと、一緒に暮らしたかった。




 先生

 俺を人間にしてくれてありがとう。


 あなたがくれた幸せを、俺は永遠に忘れない。





 ――痛みを堪える先生の首めがけて、俺は刀を振り下ろした。

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