96 恐怖する
「怖いわねえ、まさかあの人がねえ」
「過激派だったのね。人は見た目に寄らないわ」
「あそこには近寄らない方がいい。私たちにまでお咎めが入るかも知れないから」
……違う。
違う違う違う。先生はそんな人じゃない。先生は過激な政治犯なんかじゃない。からくり大好きな暢気な剣術の先生だ。あの先生が恐ろしいことをするわけがないんだ。なのに現実ではいろんな噂が飛び交っていた。政治犯を匿っていた、暗殺計画を立てていた、実は人を殺した……違う、絶対に違うのに。あの人は、何があったって殺すことで解決するような人じゃない。
なのに、なんで。
先生をよく知っているはずの人でさえ、先生のことを疑うんだ。
先生に会いたかった。話を聞きたかった。いや、先生が無実なのはわかりきってる。話なんか聞かなくてもいい。牢屋から助け出してそして……だめだ、そんなことしても追っ手がくる。心桜はどうなる? 逃亡生活なんて無理に決まってる。でもじゃあどうやったら……。
切腹がどんなものかなんて俺でも知ってる。実際に見たことはないけれど考えただけで吐き気がした。それだけは絶対にだめだ。何が何でも止めさせなきゃ。そのためなら俺は……俺は人を殺すことになったって……
「犯罪者などさっさと罰せられるべきだ。俺はずっとあの道場は怪しいと思ってた」
「そもそも疫病神を拾った時からおかしかったんだよ。あの金髪、気味が悪い。あれは化け物だ」
思わず足を止めていた。
固まった顔をむりやり動かして、そちらに目を向けた。俺にわざと聞こえるように言ってやがる。いつもうちの道場にちょっかいかけてくる嫌な奴らだ。昔俺に乱暴しようとしてきたことがあってぼこぼこに返り討ちにしてやったらこいつらの親が怒鳴り込みに来て、先生が守ってくれたけれどそれ以来何を言われてもすぐに逃げるようにしていた。
関わるだけ無駄だ。
だから何も聞くな。反応するな。ただの戯れ言だ。今こいつらの挑発に乗ったら、ただでさえ先生が大変な状況なのに――……
「処刑だろ? ざまあみろ」
「死んで当然なんだよあんな変わり者」
「ついでにあの異人も殺してくれたらいいのにな!」
「そうだ火でも放ってやろうぜあの道場に。今は女子しかいないのだろう」
「いいな。腐った道場を浄化してやらないと」
「あの道場の娘は体が弱いが顔はいい。どうせそう長く生きられぬだろうし、殺す前にやるのはどうだ?」
「ぎゃははっ! いいなそれ!」
頭がカッと熱くなった。
こんなことしちゃいけない。先生も心桜も悲しむ。それがわかっていたのに、俺は彼らに殴りかかっていた。殴りすぎて拳から血が噴き出した。自分のものか相手のものかもわからない血で拳が濡れて、騒ぎを聞きつけた奉行所の人間に捕まった時には、俺以外に立っている者はいなかった。
「……くそ」
鞭打ち程度で済んだのはあいつらの身分が低くて、よく悪さばっかりしていたおかげだった。親にも勘当されたような奴らばっかりだったから、昔のように怒鳴り込みに来る者もいなかった。ぎりぎり殺してはいないけれど、しばらくまともに生活することはできないだろう。
「ばか。ばかばかばか」
大馬鹿者。
こんなことで手を挙げるなんて。あいつらが本気で屋敷に火を放つ訳がないのに。放火は死罪だ。いくらあいつらでもそんなバカなことをするわけがない。しかも武士相手に。ただ殺されるだけでなく、よほど苦しい目に遭わされて死ぬことになるだろう。
なのに我慢できなかった。わかっていたのに止められなかった。
あいつらを殴った拳の傷はもう塞がっている。鞭打たれた背中はずきずきと痛んだけれど、それもそのうちすぐに治るだろう。俺の体は異常に治りが早かった。ちゃんと手当すれば痕が残ることもない。おかげで痛みに鈍感で……自分がやったことも、きっとすぐに忘れられるだろう。
心桜は大丈夫だろうか。親戚の八千代おばさんが面倒を見てくれているはずだけど、俺がばかなことをしたせいで心配をかけたかもしれない。
静かな夜道をとぼとぼと歩いていると、目の前の人影が現れた。月明かりはなかったが、すぐに誰かわかった。
「……刀士郎?」
「ほむら。聞いたよ、喧嘩したんだって?」
刀士郎はなぜか旅装束だった。こんな夜中にどこか遠くへ行くのかと、嫌な予感がした。
「大丈夫? 奉行所で酷い目に遭わなかった?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと鞭打たれた程度だから。こんなものすぐに治る。……それよりどうしたんだよ。どこか旅に出るのか? そんな話聞いてないけど――」
刀士郎の目は決意に満ちて輝いていた。
それは……恐ろしいような激しい光を秘めていて、俺は思わず後ずさりそうになった。
「……なんなんだよ? 刀士郎までどうしたんだ? 最近皆おかしい。先生が、あ、あんなことになったのも、もしかしてお前らが――」
「うん、俺たちのせいだよ。それは否定しない」
優しい奴だと思っていた。美的感覚が若干人とずれているような節はあったけれど、優しくて穏やかで頭が良くて良いところのお坊ちゃんで……剣の腕は俺の次に優れている。多分今では先生よりも。
「ほむらには知る権利があるから教えてあげる。俺たちが道場でいろいろ話し合っていたことはほむらも知っているだろ? 俺たちはこの国を変えたい。密かに同志を募って、弾圧されて逃れてきた人間を匿ったこともある。先生はそのことを知っていた。俺たちが暗殺計画を立てていることにも気づいて、何度も俺たちを諫めた。だけど自分の言葉が最早俺たちには届かないことを知って……失望されていた」
「あ、暗殺……? 同志……? 何言ってるんだよ。なあ刀士郎、お前ら一体何をしようと――」
「道場の弟子たちは義勝と君以外ほぼ攘夷派……それに過激派だ。異国を打ち払いこの国を守ることを己が使命とした。そのためなら命など喜んで捨て去る覚悟だ。先生は弟子の未来を憂い……俺たちを止めるために自らの身を差し出されたのだろう」
「は? え、えっと、それって、どういう……」
「先生は自分一人で罪を被られた。同志を匿ったことも、暗殺計画のことも。俺たちのことは一言も漏らさなかったらしい。つくづく甘い御方だ。たとえ先生の命が消えようとも、こんなことをしても俺たちは止まらないというのに。おかげで暗殺計画は練り直す必要が出たけど」
……待てよ、ほとんど意味がわからないけど、じゃあ先生はやっぱり……
「先生は無実なんだろ?」
「うん」
「じゃあなんで……なんでそんな涼しい顔してんだよ!!」
思わず刀士郎に掴みかかっていた。
「お前らのせいで先生がなんで腹を切らなきゃならないんだ!! 大体なんなんだよ、暗殺だとか攘夷だとか……なんでそんなことをするんだ!? 国のことなんて国のお偉い人間に任せておけばいいだろ!? 俺たちがやることなんて何もない!!」
「時代が変わるんだ。もしそのお偉い人間どもに任せてこの国が異国に侵略されたら? 俺たちの生活はどうなる? 自分たちの力で国を守らなきゃ、この大きな時代の流れの中で俺たちの歴史は奪われ、ただ異国に搾取されるだけの傀儡となり果てる」
女のようだと思っていた刀士郎は、いつの間にかギラギラと闘志を漲らせた、野性的な男に変わっていた。こんな目をする奴だっただろうか。こんな、こんな恐ろしい……
「……何より、俺はこの国を変えたい」
不意に気配がいつもの刀士郎に戻った。
「身分によって全てが決められる、この国の仕組みを変えたい。異国には平民であろうと関係なく国の重役に取り立てられるところがあるらしい。生まれではなくて実力次第でいくらでも道を切り開いていけるんだ。俺は、そういう社会の方がずっと自由で生きやすいように思う」
「…………」
「ほむらだって理不尽に思ったことはないか? これだけ剣の腕が立つのに、女だから、武家でないからという理由だけで一生その実力を認められることはない。実力の無いお飾りの人間に平伏しなければならない。……俺は勿体ないと思う」
理不尽に思ったことは何度でもある。だけど世の中そんなものだと自分を納得させるしかなかった。どうしようもないことを考えて苛ついてもどうしようもないのだから。俺にできることなんて何もない。国の仕組みを変えるなんて、それこそ夢物語だ。
「俺はこれから都に向かう」
「えっ……都って……」
「同志が集まっている。他の皆ももう旅立った。しばらく戻ることはない」
「……旅立つなんて……そんなこと誰からも聞いてない」
「許可をもらってないからね。捕まったら罰せられる」
……なんとなくそんな気はしていた。だってこんな夜中に、こんな格好で、周囲には誰もいない。
「何でそこまでするんだよ? なんで……刀士郎には許嫁もいるだろ? 彼女は――」
「もう許嫁じゃない。俺は天馬家から縁を切られた。もうただの刀士郎だよ」
「えっ……」
一度見かけたことがあった。刀士郎の許嫁。美しいたおやかな少女で、刀士郎にぴったりだと思った。いつ祝言を挙げるのだろうかと、ぼんやり考えていた。
幸せになってほしいと思っていた。
「なんで……あの人は刀士郎にとって特別な存在じゃなかったのか? その人を切り捨てられるほど、お前は――」
「彼女のことを嫌っていたわけじゃないけれど、俺にとって特別な存在ではなかった」
刀士郎は俺の手を掴んだ。
「ほむら、俺は君が、この世で最も美しい人だと思っている」
こんな時に何の冗談だ?
「はっ、またその、お得意の天女ってやつ? 悪いけどそんなの言われても――」
「その金の髪も青い目も、剣技も、自由でおおらかな心根も、全て美しいと思う。…………もし俺が生きて帰ることがあれば、この国が変わっていた暁には……俺と……」
刀士郎は言い淀み、俺からふっと視線を逸らした。
「何だよ?」
「いや……何でも無いよ。じゃあね、ほむら。どうか元気で」
刀士郎は一度も振り返ることなく闇夜の中に溶けていった。
俺は止めなかった。いや、止めたところで無駄だとわかっていた。先生が止められなかったのに俺が止められる訳がない。
この時何も出来なかった自分を、俺は一生後悔することになる。
――――――
牢屋の中は少し臭くて湿っぽくて、でも想像していたよりは随分まともだった。ちょっと日当たりが悪いけれど余裕で暮らせる。多分先生は武士だから、まだまともなところに入れてもらえてるんだろう。しばらく進んだ先に、先生の囚われた部屋があった。
「久しぶり、ほむら」
先生はにこっといつものような笑みを浮かべたけれど、明らかにやつれていた。ちゃんと食事を取っているんだろうか。先生はすぐに自分のことを蔑ろにしてしまうところがある。発明に夢中になると食事も睡眠も忘れてしまう。まるで子供みたいだといつも思っていた。でもここで食事を忘れているとしたら、それは絶対発明のせいじゃない。
「特別に時間を取ってもらったんだ。いやあ、人の縁って大切だね。普通はこんなこと認められないんだけど、本当にありがたいよ。ほむらもありがとう、こんなところまで来てくれて」
「いや……俺は全然……ねえ先生、先生は無実なんだよな!? だから――」
「私は罪人だよ、ほむら。そのことはもう終わったことだ」
「え……?」
先生が俺を呼んだ。
それってつまり、自分の無実を俺と晴らしてくれってことじゃないのか? 刀士郎や雪平たち道場の弟子たちが皆勝手にいなくなったことは大きな話題になっていた。だから俺が刀士郎から聞いたことを話せば、本当のことを話せば先生は助けられるはずだ。だから――
「君、この前喧嘩したんだってね」
「あ……えっと、それは……」
「本当なんだね? 相手の男性複数人を半殺しにしたと聞いてるけど」
「ご、ごめんなさい……」
まさか今そのことを怒られるなんて。
怖くて先生の顔を見られなかった。失望させたと思うと胸が締め付けられた。先生がこんなところで大変な思いをしている時に、俺はくだらない喧嘩なんかしていたんだ。まさか今日呼び出されたのは怒られるためだったのかと思っていると……
「君の力は守るための剣だよ」
もう何度も聞かされた言葉を、その意味を確かめるようにゆっくりと聞かされる。
「決して相手を無意味に傷つけるためにあるものじゃない。相手は君に襲いかかってきたかい?」
「いや……」
「半殺しにして苦しめる必要はあったかい?」
「いや……なかった……」
「いいかい、ほむら。君の力は偉大なものだ。だからこそ使い方には気をつけないといけないよ。今回は偶然相手が無事だったけれど、殺してしまっていてもおかしくなかった。そうだろう?」
「うん……」
先生が黙ってしまったので恐る恐る顔を上げると、予想に反して、先生は慈しむような柔らかな顔で微笑んでいた。
「人の命は重い。君は……君たちはそれを学ばねばならない」
「……先生、その、刀士郎たちは――」
「彼らには届かなかった。私の手の届かないところに行ってしまった。でもほむら、君はここにいる。君にはまだ私の言葉が届くかもしれない」
先生は俺の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
「だから――――――――」
“私を斬りなさい”
先生は確かにそう言った。




