95 変わり始める
遠い昔の別の世界の、ある鬼子の物語。
“黒船が来たらしい”
その噂が流れた時のことはぼんやりと覚えている。
男たちは何やら騒いでいたが、言っていることの半分も理解できなかった。
正直今日の晩ご飯ほどの関心はなく、今騒いでいる奴らもそのうち飽きるだろうと軽く捉えていた。
遠く離れた場所で起きていることについて、真剣に考えられるほどの頭も危機意識も、その時の俺には全然なかった。自分の国であったことなのに、自分とその出来事を結びつけて考えるということがなかった。無関心だった。
俺はただ、自分の周りさえ良ければそれで良かった。
黒船が来ようと異人が来ようと、ご飯が美味しければ、心桜が少しでも丈夫になってくれれば、先生が庭を爆発させてしまわなければ、義勝や刀士郎が怪我なく勤めを果たせれば、それで。それ以上のことは何も望まなかった。
どこにでもいる、愚かで罪深い、無関心な人間だった。
それから、さらに数年……
「……なんか最近、ずっと騒いでるな、あいつら」
「ちょっと……怖いですよね」
心桜は苦しそうに咳き込んだ。
すっかり温くなった手ぬぐいを取り替える。熱がなかなか下がらない。いろんな医者を当たっているけれど、薬をもらってもなかなか良くならない。
「心桜、大丈夫だ。俺が今度こそ良い先生を連れてくるからな。先生が城から戻ったらすぐ捜しに行くから。だから……」
「ごめんなさい、ほむらさん」
心桜の目が潤んでいた。
「何言ってんだ? 何で心桜が謝るんだよ。大丈夫だって。絶対良くなるから」
良くなって、いつか一緒に庭を走り回るんだろ?
心桜はふっと柔らかく微笑んだ。
「ほむらさん、この前もお医者さんを背負って山を三つも越えてきてくれたんでしょう?」
「いくらでもやるさそれくらい。どこにいたって俺が連れてきてやる。良い医者がいるなら海だって越えてやるよ。俺が誇れるのは体力くらいだから」
「……ごめんなさい」
「だから、なんで謝るんだよ。心桜は何も――」
「羨ましい、なんて、思ってしまったんです……」
ぽろぽろと涙が零れて、心桜の頬を濡らした。
「ほむらさんは、私のせいでずっと看病、してくれているのに、私、ほむらさんみたいに、なりたいって……ごめんなさい、こんな醜い、あなたを僻むなんて……私……」
「心桜……」
顔を手で覆ってしくしく泣いている心桜になんて言ってあげたらいいかわからなくて、俺はしばらく視線を彷徨わせるしかなかった。
「……心桜は何も悪くないよ。俺は看病全然大変じゃないし、俺が体力バカなのが悪いんだ。だから」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい――」
最近心桜はよく泣くようになった。
前はにこにこ笑うことの方が多かったのに。
一体、いつになったら心桜の体はよくなるんだろう。腕の良い医者はどこにいるんだ。心桜の体を丈夫にしてくれたら俺は何でもする。金が必要ならいくらでも借金して、一生借金返済のためにこき使われたって構わない。だから……いい加減、救ってくれよ神様。庭を走り回るくらいのささやかな望みくらい、叶えてくれたっていいじゃないか。
「……来た。あれがほむらよ」
「ああ、おぞましい」
「…………」
最近、どこに行っても視線が痛い。悪意のある声や視線が突き刺さる。
物が高くなった。買いに行っても品切れってこともあるし、皆生活が苦しいのか、ピリピリしてる。よくわからないけど、異国との貿易が始まったせいだって聞いた。皆異国の悪口ばかり言ってて、石を投げられる回数が増えた。俺は見た目が異人だから、仕方ないとは思う。
一体、何が起きてるんだろう。
なんとか馴染みの店に物を売って貰って道場に戻ると、激しく言い争う声が聞こえてきた。
「おい、どうし――」
「このまま異人に侵略されても良いと言うのか!!」
雪平の怒鳴り声が聞こえたと思ったら当の本人が吹っ飛ばされて私の真横を通り過ぎた。
「!?」
「ッ……」
吹っ飛ばしたのは義勝だった。顔を赤くして自分が吹っ飛ばした相手を睨み付けている。よく怒る奴ではあるけれど、義勝が雪平を怒るところなんて見たこともない。だって、雪平とはけっこう仲が良かったはずだから。
「え、お前ら、何して――」
「……この不届き者め。お前のような奴にこの国の行く末を語る資格はない」
「従順な駄犬め」
「なんだと?」
「国の危機が見えていないのはお前の方だ!!」
「ちょ、ちょお、お前ら何やって――」
「女子は黙っていろ!!!」
雪平に突き飛ばされて、なぜか俺が睨まれたところで
「はい、そこまで」
城から戻ってきた先生が仲裁に入ってくれた。
「君たち、元気なのはいいが道場で喧嘩は御法度だ。いいね?」
「……申し訳ない」
義勝は一度大きく息を吐いた後、勢いよく頭を下げてそれから道場を出て行った。
「ふん、義勝の奴、あいつはダメだ! 異国に屈する軟弱な男め」
「このままではこの国はダメになる。異国に侵略され支配されるだろう」
「実際そうなった国がいくつもあるのだろう!?」
「先生はどうお考えですか!?」
道場の皆の気迫が凄い。
迫られた先生もちょっと困っているみたいだ。
「なあ、一回落ち着いて取りあえず茶でも――」
「女子は黙っておれ!!」
「何もわかっていないくせに口を出すな!!」
……なんだよ、さっきから。
結局皆口々にいろいろ騒いで、騒いで騒いで騒ぎながら帰って行った。あいつらが帰ると途端に道場は静かになって、「……大変なことになったな」と先生がぽつりと零した言葉が妙に響いた。
「ほむらはどう思う?」
「どうって……?」
「異国とのことだよ。これ以上は国を開けるしかないと言う者もいれば異国など打ち払ってしまえと言う者もいる。ほむらはどうしたら良いと思う?」
「……わかんない」
正直考えたこともなかった。
別に国を開けようが異国を追い払おうが、今の生活が続くならどちらでも構わない。
「なんであんなに怒ってるのか、俺にはよくわかんない」
「……うん」
「大体あいつら勝手なんだよ。俺のこと散々男みたいだってばかにしてたくせに、都合の悪い時だけ女扱いしてさ。ああだこうだ熱く議論しててばかみたいだ。そんなことより今日の晩ご飯とか心桜の薬のこととか、そっちの方がずっと重要じゃないか。あ、先生、場所はよくわからないけど山を5つだか6つだか越えた先に良い医者がいるって聞いたんだ。なんて言う村だったかな……。もう一度村の名前確認したら捜しに行ってもいい? 遅くとも3日以内には帰ってくるからさ」
先生を見上げると、少し微妙な顔をして俺をじっと見下ろしていた。不思議に思って、俺はこくんと首を傾げた。
「先生?」
「あ、ああ、ごめん」
「大丈夫か? 最近ぼんやりしてること多いけど」
「いや……少し安心したかな。君は変わらないままでいてくれて」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。
「だけど……変わらざるを得ない時もある」
「?」
「ほむら、これからの時代、君が何を信じ、どう生きるかは全て君次第だ。ただ、忘れないでほしい。君の剣は、人を守るためにあるということを」
「え……う、うん……」
先生はいつになく真剣だった。
なんだろう、先生も皆も、義勝も、皆して一体どうしたんだろう。頭の悪い俺には今何が起きていて何が問題なのか、よくわからない。自分が何をすべきなのかも。
それから例の村に行ってみたけど、腕の良い医者なんてどこにもいなかった。
2日後に落ち込んで帰ってきたら、先生の姿がどこにも見当たらない。
「心桜、先生は――」
心桜の部屋に行くと、彼女は枕を涙で染めていた。
「心桜? どうし……」
「ち、父上は……もう帰ってこないかもしれません」
「え? な、何言って……。落ち着いて、心桜。先生は今どこにいるんだ? あ、わかった、またからくりの材料を買い集めに隣村に――」
「ろ、牢屋に……」
「え……」
先生は捕まった。
過激な思想の政治犯を育てていたとか匿っていたとか何とかで。
言い渡された罪状は切腹だった。




