19 過去を辿る
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……“私”は、妾の子だった。
神野藤勇心。それが、私の名だ。
母は神野藤の家柄には相応しくない、低い身分の出だったと聞いている。私は母の事をほとんど知らない。と言うのも、母は私を産んですぐ、この世を去った。
正室、つまり育ての母にはなかなか子ができなかったため、私は神野藤の跡取りとして育てられることになった。母は勝ち気で厳しく、しょっちゅう叱られてばかりだったが、私に対して全く一片の愛情もなかったかというと、そんなことはないと思う。優しかったことも、確かにあった。幼い頃は、父と母と、三人で食事をしていた。
そんなある日、母が子を授かった。それは誰もが諦めていたことだった。
無事に生まれたのは男児。家の者は皆、使用人も含め大層喜んだ。私は、別室で一人食事をとるようになった。
次の年にも、また子を授かった。今度は双子の男児だった。
私は完全に用済みとなった。
その頃の記憶ははっきりしない。両親と言葉を交わすことは、もうほとんどなかったように思う。教育は受けさせてもらえたが、孤独な時間は長かった。誰も私に期待していないことはわかっていたから、よく一人遊びをした。大工の真似事というか、何か面白いものを作ることに熱中した。そうやって作ったものは、たとえ生き物でないとしても、私にとっては友達のようなものだった。
弟たちとは、ほとんど顔を合わせたことはない。多分、私のことは使用人の子どもとでも思っていたんじゃないだろうか。
悲劇は、突然やってきた。
双子の弟の方が、風邪を拗らせて亡くなった。その直後、双子の兄が、不慮の事故で。そして喪が明けぬうちに一番上の弟が、突然ぽっくり亡くなった。原因はわからない。病弱とは程遠い、健康で元気な子だった。
神野藤家は悲しみのどん底に突き落とされた。両親の……特に母の悲しみは、いつまで経っても癒えることはなかった。母は、毎日泣いていた。
父は「亡くなってしまったものは仕方がない」と、唯一残っていた私を、また跡継ぎとして育てることを決めた。私は父と同じ部屋で食事をするようになった。けれど、母は自室に閉じこもり、決して出てこなかった。
ある日、久しぶりに母を見た。真夜中だった。厠に行く途中、庭でぶつぶつ喋っていて、私はその不気味さに思わず身震いした。
「……母上?」
恐る恐る声を掛けると、母はくるりと振り返って私を見た。月に照らされたのは、だらりと長く伸びた真っ黒な髪、血走った赤い目、血の気の引いた真っ白な顔だった。
彼女は、鬼のような形相で私に詰め寄った。
「お前だ!! お前が呪い殺したんでしょう!!!」
「!? は、母上……? 何を……」
「お前のせいだ!! 全部全部お前のせいだ!! この不吉な忌み子!! お前の母親もそうだった! 気味の悪い、欲深い女――――!!」
「待って、母――――」
「私を母と呼ぶな!! 気持ち悪いッ……お前など、お前なんて、生まれて来なければ――――――!!」
母の手が私の首にかかった。私は思わず悲鳴を上げた。
使用人が飛んできて、私を助けてくれた。半狂乱の母は取り押さえられ、自室に連れて行かれた。
私は腰を抜かし、ただその様子を呆然と見ていた。言葉が出てこなかった。
私は、弟たちを殺してしまったんだろうか? あの子たちが死んでしまったのは、私の所為なんだろうか? 呪いなんて考えたこともない。私は弟たちを恨んだことなんて一度も、たったの一度も――――――……
………………………………本当に?
一度もなかったと、本当にそう言い切れるだろうか? ただの一度も羨んだことがないって、一度もその出生を憎んだことがないって、本当に? 私は寂しかった。辛かった。誰にも相手にされないことが、いないもののように扱われることが。
私が……殺してしまったのかもしれない。
自分でも気づかぬうちに、呪ってしまったのかもしれない。
母に殺されかけた夜から、数日後。真夜中に、私は一人、屋敷の中を歩き回っていた。あんなことがあったのに、なぜそんなことをしていたのかは、覚えていない。何かを求めるように、気づいたら屋敷の中を歩き回っていた。皆が寝静まった夜は、私の心を酷く落ち着かせてくれた。
どこかの、部屋の戸が開いていた。
僅かに開いた戸の、その先はもちろん真っ暗だったが、何か音が聞こえてきた。……微かに、縄が軋むような。何かが揺れているような音だった。
私は、吸い寄せられるように、中に踏み入った。
「母上……?」
恐ろしい光景を、見てしまった。
生涯、忘れることのできない、光景を。
…………あれから、夜が怖くなった。
その後、母の葬儀は、ひっそりと行われた。私は父の指導の下、ひたすら剣と勉学に打ち込んだ。厳しい日々だったけれど、それでよかった。忙しいと、忘れられる。あの夜も、母のことも弟たちのことも、何もかも。
殿の若君にお会いしたのも、その辺りの頃だろうか。父の跡取りとして登城し、年の近かった私たちは、すぐに打ち解けることができた。
私は、神野藤の名と、父と、若君に誓った。
「生涯を貴方に捧げ、お仕え致します」
神野藤の当主となる者として、家を守ること、藩に仕えること、決して裏切らないこと、何があっても殿と若君をお守りすること――――……それが、私の義務だ。本当の当主となるはずだった、私の弟たちが、果たすはずだったもの。
私は誓った。亡くなった弟たちと、母の墓前でも。
だから、躊躇いはなかった。人の命を奪うことになっても。それが守るということだったし、藩に背く者、殿の命を脅かす者の命に、情けなど掛けなかった。掛ける必要はない。私は、自分の剣に誇りを持っていた。誰かを守っている、役に立っている、義務を果たしている、私には存在価値がある……そう思える仕事だった。
けれど、私がお側でお仕えするようになって数年後、若君は体調を崩すようになった。
大したことはないと、すぐに治ると言いながら、毎日苦しそうに伏せっていた。私は恐怖に襲われた。
また、私が、呪ってしまったのではないか。
私が、近くにいるせいで、呪われたのではないか。
酷く悩んだ。幾日も幾日も悩み続けたが、若君の病状が急変したと知ったある日から、私は城に出向くことをやめた。数週間後、若君の体調が無事回復したと、知らせがあった。
私は、お側ではなく、あの御方のもっと下で、あの御方が私を必要とする時だけ、お助けしようと、そう決めた。登城をやめる。もう、そうするしかない。私はあの御方に近づきすぎた。病床の父には激怒されたが、怒った父の顔より、私には恐れているものがあった。私のせいで、また人が死んでしまったら。それが主君であったとしたら、腹を切って詫びても足りない。
命じられれば腹を切るつもりで、藩主と若君に、剣術指南も護衛の任も辞退し、登城しない旨を伝えた。腹を切れとは言われなかったが、考え直すようにと何度も説得された。有り難いことだった。けれどその優しさに甘える訳にはいかなかった。
ただ、もしまた彼らを失望させることがあれば、その時は絶対に腹を切らなければならないと、肝に銘じた。
父に罵られ、藩主に呆れられ、若君に失望され、やがて私は、昔のように何の期待もされない、ちっぽけな存在になった。使用人も、一人また一人と離れていった。跡継ぎが次々に亡くなり、奥方も自ら命を絶った上、残された次期当主は城での仕事を放棄してしまった。この家は呪われているのだと、そう囁かれてもしようのないことだった。
父はまもなく亡くなった。
正式に神野藤の当主となり、私は剣術道場を始めた。ちょうどその頃、妻を娶った。
元々両家の間で交わされていた約束とは言え、よく私のような者のところに来てくれたものだと思う。妻は「私も変わり者ですからご心配なく」と朗らかに笑った。逞しい女性だった。元気で健康そのもので、家のことを何でもやった。家事も農業も、彼女は、楽しい楽しいと勢いよく取り組んでいた。
彼女が笑うとそれだけで、暗い家にパッと花が咲いたようだった。私は、よく笑うようになった。楽しい時は笑う。お腹が減った時は食べる。辛い時は思いきり泣く。それが一番の健康法だと、彼女はハキハキ教えてくれた。
愉快な人だった。そして、信心深い人でもあった。
「むやみやたらと殺生するものではない。命は尊いものだから」
どんな生き物にも命がある。生きるために必要でない殺生は、決してあってはならないものだと、彼女は草むしりをしながら教えてくれた。
「力は、守るためにあるものだ。貴方の剣も、そのために。けれど、むやみやたらに命を奪い続ける行為は、いくら守るためとは言え、果たして正しいものと言えると思う?」
「しようがないよ。剣を振るわなければ、こちらがやられる」
「そうだね。でも考えたんだけど、圧倒的な強さがあれば、わざわざ殺さずとも済むかもしれない。命は重いものだ。特に、人の命は。人が人を殺すという行為は、本当に罪深い。おっ、この大根、立派に育ったねえ」
バキ、と音を立てて、妻は大根に齧り付いた。歯も顎も丈夫だなあ、と私は感心したし、安心もした。
「美味しい?」
「いい感じだ!」
「よかったぁ」
「豊かな恵みに感謝しよう。……どこまで話したっけ? あ、そうそう、人を殺すとね、やがてその行為は、その人の心を殺してしまうんだよ。知らないうちに、もしくは知ってるうちに、徐々に徐々に、蝕んでいく。だから、私は殺生反対。今夜は何にする?」
大きな屋敷で、二人きりの生活だった。幸せだった。もしかしたら、それまでの人生で、一番。
やがて、彼女は子を身籠もった。嬉しい反面、私は不安だった。つわりもほとんどなく、妻が辛そうにしているところは一度も見なかったけれど、それでも、不安はずっとつきまとった。
「楽しみだなあ、君との子。一体どんな子に出会えるんだろう」
妻は、大きくなったお腹を擦りながら、幸せそうに微笑んだ。
私は不安に押し潰されそうになりながら、笑顔を返した。――――大丈夫、きっと大丈夫。妻は、そんな簡単に死んでしまったりしない。絶対に。
彼女が産気づいたのは、夜。春の夜のことだった。
庭に桜が咲いていた。妻の好きな花だ。……けれど、正直なところ、私はあまり好きではなかった。桜の花は、あまりに儚い。あっという間に散ってしまう。
妻は、翌朝亡くなった。
娘を産んで、まるで力尽きたように。
恐れていたことが現実になった朝、私は彼女の部屋で、彼女が書き残したたくさんの名前を、ぼんやりと見ていた。豪快な彼女らしく、名前を書いたたくさんの紙が床に散らばっている。……あまりのことに、心がついていかなかった。涙も出なかった。彼女は、まだこの部屋で笑っているような、そんな気がした。
机の上に、ぽんと置かれた二枚の紙。
「……蓮」
彼女の好きな、もう一つの花の名。
そして、もう一枚は……
「心桜」
男の子ならば「蓮」、女の子ならば、「心桜」…………名前については、何度も話し合った。考えても考えても、なかなか決まらなくて、きっと生まれたらまた迷うことになるだろうと、妻は笑っていた。
娘は…………心桜は、生まれつき病弱だった。
いつまで生きられるかわからないと、医者は深刻な表情で私に告げた。心桜の、苦しんでいる姿を見るのが、辛かった。ただ、堪らなく辛くて、見ていられなかった。
この子は、私より先に死んでしまうに違いない。私のせいで。私の娘として生まれたせいで。
私は、心桜と向き合うことが、心桜を愛することが、怖かった。愛せば愛す程、大切にすればする程、別れが辛い。幸せにしてやれないのだと、罪悪感で押し潰されそうになる。
そんな時、あの子と出会った。
眩しい金の髪に、澄んだ青い瞳の、あの子と。
「どうも初めまして。……お腹が減っているようだね?」
多分、私は“誰か”を求めていた。私の近くにいても、きっと大丈夫だと思わせてくれるような、強い人を。何も気にせず、心から笑い合える相手を。
私は、君に救われた。君を必要としていたのは、私の方だった。
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私は………………いや、僕は、ゆっくりと目を開けた。長い夢を、見ていたらしい。
小さく欠伸を噛み殺して、寝る前のことを思い出そうとした。
確か、ルークがシドの怪我を手当するために僕の家に入って、僕も一緒に家に戻った。それから……あれ? それからの記憶がない。いつの間にか寝ちゃったのかな。多分、昨日の疲れがどっと来たんだろう。ベッドに入った記憶はないけれど、ルークかシドが運んでくれたのかな? 悪いことしたな……。
僕は立ち上がって、窓から外を見た。赤い夕日が村を照らしている。賑やかな声に、お祭り騒ぎの村の人たち。……よかった。元気そうなその様子に、僕は胸を撫で下ろした。
ルークたちはどこに行ったんだろう? 猪でも狩りに行ったんだろうか。まだあまり動かない方がいいと思うんだけど……。
『――――――貴方には何か、他にも恐れていたことがあったのではないか、と』
ふと、義勝の言葉が頭に浮かぶ。僕が、恐れていたこと……。藩の方針に逆らうこと、それ以外にも、恐れていたこと。……何だろう。何だろうな。あまり、考えたくない。僕は、多分、いろんなことを恐れていた。恐れているものが多すぎた。
心桜の顔が浮かんで、泣きそうになった。僕は、パンと一つ頬を叩いて、それから外に出た。




