62 忘れられない
九月一日
俺は先生を斬った。
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「……先生」
パチパチと瞬きすれば、涙が頬を伝って落ちていった。寝ながら泣いていたのかそれとも寝ながら欠伸でもしたのか、どっちなのかしら。外はまだ薄暗い。陽が昇る前に起きちゃった。こんなに早く起きるのはいつ振りかしら。
私はベッドから起き上がって大きく伸びをした。
嫌な夢を見たせいでなんだか胸の辺りが気持ち悪い。
遠い昔の夢を見た。
先生に拾われた頃のこと、心桜と暮らしていた頃のこと、義勝や刀士郎や、たくさんの弟子たちと鍛錬していた頃のこと……。
今更思い出したくもない、忌々しい記憶。
粗雑で口調も荒くてばか丸出しで、あの頃の自分を心の底から抹消してしまいたい。完全なる黒歴史だわ。私くらい身分の低い人間なら口が悪いのは珍しくもなんともなかったけれど、今思うと恥ずかしすぎる。育ちが悪いせいで、あの頃は女らしい喋りの方が恥ずかしかったのでしょうね。大体心桜以外は男ばっかりだったし、女物の装いをしただけで笑われる環境だ。そんな中で女性らしく振る舞うようになれという方が難しい。
今でも怒りが沸点に達すると口調が悪くなってしまう。いくら相手がクズだからってちょっとは気をつけないとね。私は公爵令嬢だもの。もう昔とは違うの。誰に見られても恥ずかしくない身分を手に入れた。石を投げられない生活を手に入れた。この容姿も、この世界では全然浮かない。
……でも、親の愛情だけは結局得られなかったわね。
『よろしく頼んだよ、ほむら』
「ほむら、か……」
もう少し可愛らしい名前にすればよかった。
本当は先生が名前を考えてくれると言ったのに、字がわかるようになったら自分で決めるのだと言い張って、辞書を捲って自分で選んだ。きっと先生ならもっと女の子らしい名前にしてくれたに違いない。心桜って名前が可愛すぎるもの。
なぜ“ほむら”を選んだのだっけ。全然覚えていない。
考えてみればけっこうイグニス家が好みそうな名前よね……ていうかフレアって名前も火を現しているわけだから、もしかして前世の適当な名前選びのせいでこの体に転生したのだとしたらほむらの首を一回絞めてやりたい。
先生は私の手で死んだ。
刀士郎も心桜も……義勝も、皆私より先に死んでいった。
前世の私は本当にひとりぼっちになってしまった。
特別な“誰か”なんて得られなかったし、家族も持てなかった。先生を斬ってからは苦しい日々が続いた。誰も守れやしなかった。……命を守れたことがなかったわけじゃない。でも、死ぬと決めた人間をむりやり生かすようなやり方を、守ると言うのだろうか。現世の地獄のような苦しみを味わわせたと思えば、私がした所業はまさに鬼だ。
結局、私は鬼子だった。人になれたと思ったのは、ただの錯覚だった。
化け物は、最期まで化け物だった。
それは今でも同じ。
生まれ変わっても私の体は嫌な意味で特別で、立派な化け物だ。
記憶を取り戻して3年近くの月日が経った。
13歳になった私は以前より力も強くなって、背も伸びた。前世で同じくらいの年の頃よりずっとキツい顔つきになっている気がするのは多分気のせいじゃない。
前世より面倒なのは、今回はこのままいけば王太子に処刑される可能性まで出てきたってこと。何としてでも回避しないと。小説の話は16歳から始まる。主人公はまだ登場していないけれど、近衛騎士である彼女が現れて王太子と出会えば、きっと彼は彼女に一目惚れ……
ええ~あの腹黒王子が一目惚れ? 婚約者にこんなチョーカーをつける奴が一目惚れ? 信じられないんですけど。ていうかそれ人格崩壊してない? あいつはどう考えてもそんな奴じゃないでしょ。
ああもう、なんで私は小説の内容を逆立ちしても思い出せないのかしら? 思い出したら可愛い女の子とイチャイチャして愛を囁いているであろうジークのことを一回腹の底から大笑いしてそれから対策が打てるのに!
私は首のチョーカーに触れた。
最初こそ頻繁にこれでやり取りしていたものだけど、今はあまり使っていない。ジークから何の説明もないからわからないんだけど、案外これに大した力はないのかもしれない。これがあれば私のことを監視できるとまで言っていたから盗聴機能とかあるのかしらと思っていたけれど……うーん、この前うっかりジークの悪口を言ったのに何の反応もなかったのよね。絶対反応するし仕返しされると思ったのに。以前彼からもらったドレスを売り飛ばしたのがバレたのも、後々考えればきっとこのチョーカーのせいでバレたんだろうと思っていたけれど、もしかして違ったのかしら?
まあもし盗聴機能があるとしても、いつも忙しいであろうジークが私の監視にそんなに時間なんて割けないわよね。うん、それに仮にも婚約者に首がぽんって飛ぶかもしれない危険なチョーカーなんて渡す? あれはきっと冗談だったのよ、ええ、きっと……いや、ジークに限ってそれはないか。希望的観測はやめよう。
コンコン、と窓を叩く音に体が震えた。すぐに誰かわかって、思わずため息を吐く。乱蔵は許可なく窓を開けた。……毎夜鍵を閉めているのがバカみたいに思えてくる。
「あんたは普通に入ってこれないの? しかもこんな時間にどうしたのよ」
「うるせえ。仕事が早く終わったからついでに寄っただけだ」
「ついでにでこんな時間に寄るんじゃないわよ。あんた、私が公爵令嬢ってこと忘れないでよ。こんなところ誰かに見られて変な噂でも立てられたらどうするの」
「安心しろ。庶民の間でのお前の噂ってけっこうひでえのばっかだから。これ以上落ちることはない」
「…………」
未だに私は問題行動のせいで公爵邸を追い出された不良令嬢ってことになっている。
聖騎士であり王太子の婚約者なのに。普通めちゃくちゃ羨ましがられる地位にいるはずなのに。多分婚約破棄しても誰も驚かないってどういうこと? なんかここまで来るとよく私って婚約者に選ばれたわよね。なんで? 誰が選んだ? 公爵が私を推すとは思えないし、女王が決めたの? もしかして公爵家令嬢の間でくじ引きでもしたの?
困るのはそういう噂を孤児院の子供たちが聞いてしまうことよ。最初は「フレア様ってお姫様なんだ~、すご~い」と目を輝かせていた子供たちが、「大丈夫、破棄されてもきっと別の道があるよ……」と言わんばかりにそっと哀れみの目を向けるようになってしまったのはほんとどうにかして欲しい。嫌われるのは別に構わないし、むしろ婚約破棄のためなら上等って感じなんだけどさすがにちょっと悲しい。
「あんたが私の良い噂でも広めてよ。子供たちを救う聖女とか、公爵に虐められていたか弱い令嬢とか」
「虐められていたのが良い噂になるのか?」
「健気なイメージがつくでしょ。不良よりずっといいわ」
「あっそ。興味ないから知らねえ」
こいつ……。
乱蔵は私に包みを放り投げた。何かと思えばみたらし団子だ。「お」と顔が綻ぶ。でも特別な日でもなんでもないのに乱蔵がこれを持ってきたってことは……
「あとお前は要らねえと言ったが、例のものも仕入れといたぞ」
「はあ? 要らないって言ったのになんで?」
思わず睨み付けると、乱蔵は肩をすくめた。
「そのうち絶対入り用になる。少しばかりあっても困らねえだろ。念のため言っとくが違法じゃねえからな」
「合法でも要らないってば。あんな危険なもの」
「安心しろ、俺からのプレゼントだ」
「あれが女性へのプレゼント? あんたモテないわよ」
「うるせえ」
もしあれで喜んでもらえるとか思ってたら本当に心配するレベル。こいついくつになったんだっけ? 20歳くらいになったんだっけ? そんなじゃいつまで経っても恋人はできないわよ?
「どうせ今日もコテンパンにされて帰ってくるんだろ」
「はあ?」
「今日は聖騎士会議だろ? せいぜい虐められないように頑張れよ、聖騎士様」
「……うっさい」
ちょうど朝日が昇り始めた。乱蔵、あんたはなんで私の予定をそこまで把握してるの? ストーカーなの?
聖騎士会議か……はあ、やれやれ。考えただけで気が重い。大嫌いな連中に強制的に会わなきゃいけない最悪な日だ。四大公爵家の公爵と聖騎士と各騎士団の団長副団長、それに女王陛下と王太子まで参加する堅苦しい会議。一年に四回もある嫌~な会議。
どうせ今日も突っかかってくるんでしょうねと思いながら、私は重い腰を上げた。




