61 欲する
先生に拾われて何年くらい経っただろう。
俺は背がぐんぐん伸びて、女であるのにそこら辺の男どもよりずっと背が高かった。先生を見下ろすことにはならなくて、ちょっと安心したのを覚えている。女物の着物は顔にあまりに似合わないらしく笑われるし動きにくいから、今も男物の着物を着ている。まあ、顔云々以前に俺の性格が女性らしい装いに似合わないのは自覚済みだ。
先生の娘の心桜は成長しても相変わらず外を走り回ることすらできないほど体が弱かった。消化の良い温かい食事を作り、汗を搔けば拭いて着物をこまめに取り替え、咳が続けばずっと背中を擦った。体の弱い人間の気持ちは俺にはわからない。だが生まれつき俺の体が強かったように、どうしようもないことなんだってことは理解できる。自分の思い通りにならない体ほど辛いものはないだろうと思う。
「今日は少し調子が良さそうだな」
「はい。私も早くお外で素振りをしてみたいです」
「すぶっ……りは別にいいんじゃないか? やれなくても」
「嫌です。私も皆と一緒に竹刀を振り回してみたいです!」
「じゃあその時は俺が手取り足取り教えてやるよ。そうそう、先生が中身すかっすかの超軽い竹刀作ってたから、まずはそれから始めるか?」
「わあ、それは楽しみです!」
心桜はとても可愛い。目がくりくりしていて大きくて、顔も背もちっちゃくて、髪は黒々としていて、砂糖菓子みたいに可愛い女の子だ。先生にはあまり似てない。母親、つまり先生の奥さんはすごい美人だったらしい。彼女は心桜を産んで亡くなったから、俺は会ったこともない。
もし俺が男でちゃんとした身分を持っていたら、心桜みたいな女の子を好きになっていたのかな。
そういうことをふと考えるくらいには、俺は心桜のことが可愛くて仕方ない。
「俺の団子を勝手に食べた盗人はそこにいますか!?」
部屋の外から怒鳴り声がする。げっと思って心桜に「いないってことで」と囁くとぽっと頬を赤らめてにこにこ微笑んだ。
「いませんよ、義勝殿」
「……今“いないってことで”と聞こえましたが?」
「うわっ」
「そこにいるんだろう!! 失礼します!!」
鬼のような顔をした義勝が部屋に乱入してきた。
「今日こそ許さないぞ!!」
「団子の一個や二個くらい許せよボンボンのくせに心が狭いな!」
「なんだと!!」
「大体お前だってこの前俺の団子勝手に食いやがったじゃねえか! 殺してやろうかと思ったぞ!」
「俺がそんなことするわけないだろ! お前の勘違いだ!」
心桜はクスクス笑っている。
「今日もお二人は仲良しですね」
「え、そう見える?」
「これのどこが仲良しだと言うのです!」
「つーか乙女の部屋にずかずか入ってくるとか、お前ほんとそういうとこ直した方がいいぞ」
「いいのですよ。義勝殿ならいつでも構いませんと以前お話ししましたから」
「えっ、そうなの心桜。うわー義勝、お前いやらし――」
「黙れ!!!」
顔を真っ赤にした義勝が面白い。多分心桜は義勝のことが好きだし、義勝も心桜のことが好きなんじゃないかと俺は思っている。
年の差はあるけど、そんなの何年かすれば問題じゃなくなる。心桜はもう少し成長したらきっとあちこちから結婚の申し出があるだろう。義勝も顔はそこそこ整っているし、俺より背も高い。俺は俺より背の高い奴でないと心桜を渡すつもりはないから一応合格だ。少々頭が固くて融通が利かないところはあるけど、まあこいつなら心桜を幸せにしてくれるだろう。
「……おい、一応報告しておきたいことがある」
「ん?」
「祝言をあげることになった」
「……え?」
さすがに早すぎない?
俺は瞬きを繰り返した。
「わあ、おめでとうございます。あの許嫁の方ですよね?」
心桜が嬉しそうに微笑む。
……え、それって……
「高村家のご息女だ」
誰? それ。
何で?
俺の疑問に奴は答えなかった。眉間に皺を寄せた義勝は、それだけ言って礼をして部屋を出て行った。団子のこと怒ってたんじゃないのかよとかいろいろ思ったけど、それより“祝言”という単語がぐるぐる回って、頭が発火しそうだった。
――――――――
庭で素振りをしていた。頭が全然追いつかない。なんで。なんで心桜じゃないんだ。お前だったらあの子を幸せにしてくれると思ったのに。心桜の体が丈夫じゃないから? そんなのきっと成長したら問題じゃなくなる。庭だって元気に走り回れるようになるさ。いつか竹刀を持って一緒に素振りがしたいと言うような勇ましい女の子だぞ。士族の嫁にぴったりじゃないのか。
ていうか許嫁がいたなんて俺は知らなかった。他の奴らは知っていたんだろうか。心桜は知っていたようだった。なんで俺にだけ教えてくれなかったんだ。なんで……
俺が、皆と違うからか。
俺は武家の出じゃない。本当の親もいない。ただここに置いてもらってるだけ。この道場を一歩出れば俺は義勝とあんな気安く喋れる人間じゃない。頭も良くないし、未だに見た目のことで蔑まれることもあるし、ちっとも女らしくない。
だから教えてくれなかったのかよ。
「くそっ……!!」
勢いよく振り下ろした後、遠くで何かが落ちる音がした。
俺の視線の先で不格好なかかしがスパッと首のところを斬られて地面に落ちていった。
「へ……?」
慌ててかかしのところへ向かって確認すると、確かに首のところが刃物で斬られていた。千切れたとかそういうんじゃない。俺が振り下ろした角度で、綺麗に斬られている。でも刃がこんな遠く離れた場所に届いていたわけないし、そもそもこれは竹刀だ。仮に当たったとしても物を斬るような作用はない。
「……嘘だろ」
――――――――
先生は「おお~」と間抜けな声を上げた。
俺は十回に一回くらいの割合で遠くの物を斬ることができるようになっていた。
「すごいな。実際にこの目で見ても俄には信じられない」
先生は切れた木の枝を手にしてしみじみと感心していた。
「やっぱ先生も見たことない?」
「聞いたこともないよ。こんなの世の理を無視している。かまいたちみたいなものかな? いや、でもそれとも違うか。なかなか興味深いよ。これをうまく操れるようになればすごい力になるだろうね」
「そっか……」
「いやあ、うん、やはりなかなか恐ろしいな。君は神様に特別な力を与えられたのかもしれないね」
「特別な力?」
「傍目にはわからないけれど、常人を遥かに超えた筋力に運動神経。それにこの剣技。もうとっくの昔に私を超えてしまったな~とは思っていたけど、まさかこんな面白いことになっているとは思わなかったよ」
先生は「驚いた驚いた」と言いながらニコニコ笑った。
「……あんま嬉しくない」
「ん?」
「昔は……嬉しかった。俺は特別で、強くて、だからもう何をされたって平気だ。何かされたら反撃すれば良い。相手が死んだって構いやしない。そう思ってた……けど」
俺は俺が怖い。
普通じゃなさすぎる自分が怖い。
確かにこの力がなければ俺はとっくの昔に死んでいたかもしれないけれど。
こんな力いいから、俺の半分を心桜にあげてほしい。こんな力要らないから、あいつらと対等な身分が欲しい。こんな力最初からなくていいから……普通の親の元で普通の幸せを味わってみたかった。石を投げられない生き方をしてみたかった。髪も目も黒くて肌の色も普通で、顔かたちも浮いたりしない、普通の顔がほしかった。町人でも農民でもなんでもいい。普通の幸せがほしかった。
「……君は、とても特別な子だ」
先生は俺の頭を優しく撫でた。昔と変わらない、ごつごつして大きな手で。
「いいかい、君の剣は人を守るためにあるものだ。守るための剣だよ。大切な者を守るために、神様が授けてくれた特別な力なんだ。そしてこの力は、決して人の命を奪うためにあってはならない。守るために奪わざるを得ない、そんなことからも無縁な力だ。鍛えればきっと、君はそういう唯一無二の存在になれる」
「……よくわかんない」
「簡単なことだよ。少しずつ、学んでいこうね」
「……でも先生、相手がもし殺す気でかかってきたら、自分を守るために殺すのも仕方ないんじゃないのか?」
「うん、普通はね。だけど君なら、きっと僕にできなかったことも成し遂げられると思うんだ。……いいかい、命を奪う行為自体はとても簡単だ。人間は脆くて、案外あっさり死んでしまう。でもね、背負うものはとても重いんだよ。人の命は重いんだ」
「…………」
「もしこれから乱世の時代にでもなれば、君も剣を取ることがあるかもしれない。その時君がその力を持って人の命を奪うことを躊躇わなければ、君に待っているのは修羅の道だよ。君は優しい子だ。そんな重いものを背負ってほしくはない」
先生の話は難しい。命を奪わないように剣を振るってのもよくわからないし、そもそも、俺が真剣を持つことなんてきっとないだろう。俺は武士じゃないんだから。戦なんてずっとなかったし、これからもきっとない。これから……俺はこれからどうなるんだろう。
ずっとこのまま道場に置かせてもらえるのかな?
それともいつかは出て行けって追い出されるのかな? ……先生に限って追い出すなんてことはないだろうけど。
「……先生、義勝が今度祝言あげるって」
「ん? ああ、そうだね。聞いてるよ」
「…………俺は心桜と義勝がお似合いだと思ってた」
そう言うと、先生はぶはっと噴き出した。
「心桜はまだ幼いだろう。早すぎるよ」
「そりゃそうなんだけどさ」
「それに、あの子には心から好いた相手と一緒になってもらいたいしね」
……それが義勝だと思ってたんだけどな。でもまあ、そうだったらあんなに笑顔で祝福はしないか。
「先生は奥さんのこと心から好いていたのか?」
「もちろん」
先生は懐かしそうに目を細めた。
「可愛い人だったよ。賢くて豪胆で、私をぐいぐい引っ張ってくれる人だった」
「今でも好き?」
「ははっ、なんだか気恥ずかしいな。……もちろんだよ、彼女は私にとって特別な人だからね」
特別……
先生にとっての特別な人。
きっと奥さんや心桜にとっても先生は誰より特別な人。
「先生、俺……」
「ん?」
「…………いや、なんでもない」
俺にとっての特別は間違いなく先生だけど、先生にとってはそうじゃない。心桜だって特別だけど、心桜にとってはきっとそうじゃない。
そりゃそうだ、俺なんてたくさんいる弟子のうちの一人にしか過ぎないんだから。血も繋がってないし。先生は俺を特別な子だと言ったけれど、じゃあ誰にとっての特別かって考えると……別に誰にとっても特別じゃないんだよな。ただ、普通と違うだけ。
――――――――
守るための剣か。
先生が言ったことを思い出しながら、俺は自分の将来について考えていた。考えても考えても、答えは出ない。
桜が咲くにはまだ早い。縁側で茶を啜りながら団子を頬張り、月を見上げた。もう皆寝静まった頃だ。辺りはしんと静まりかえっている。
「こんな時間に甘味ばかり食べていたら体も心根も堕落するぞ」
声を掛けられて驚いて顔を向けると、義勝が立っていた。
「なんでお前ここにいるんだよ」
「今日はこちらに泊まっていくと言っただろう」
「え、そんなこと言ってたっけ?」
たまにこいつは道場に泊まっていく。昔は夜中に肝試しとかしたことあったけど、そう言えばもうそんなこともしなくなったな。
「それにしてもお前が祝言をあげるなんてな。まだ子供みたいなもんなのに」
「もう成人は迎えてある」
「でも迎えただけだろ。中身はまだ子供じゃん」
「なんだと」
義勝の眉間の皺が深くなる。
「……二人ともまだ起きてたの」
細い声が聞こえて、今度は刀士郎が歩いてきた。先生の弟子の一人だ。女のような顔をした少年で、昔俺を「天女」と称した変わり者だ。こいつももちろん良いところの坊ちゃんで、剣の腕は俺の次に優れている。最初は怖かったが悪い奴じゃない。多分俺を最初から一度も蔑まなかった先生の弟子は刀士郎だけだと思う。
「あれ? 刀士郎も今日泊まってたっけ?」
「うん。厠から戻ってきたら話し声が聞こえたから、盗人かと思った」
「月見だよ。ちょっと寝られなくてさ~」
「こんなに団子を食べてもよく太らずにいられるね。……義勝が羨ましそうな顔で見てるよ」
「俺は羨ましそうな顔などしていない! ただ昼間こいつにくすねられた団子のことを考えていただけだ!!」
刀士郎は僅かに微笑んだ。
「……目が覚めちゃったみたいだ。俺も月見をしようかな」
「今宵の月は良い月だ。こいつにだけ独占させるのは癪だな」
刀士郎と義勝が縁側に腰を下ろし始めた。
こいつらもなんだかんだ眠れなかったのかな。
「……なあなあ、刀士郎にもいるのか? 許嫁」
「え!?」
月明かりでもわかるほど刀士郎の顔が赤くなった。あ、これいるな。
「まあ……親が決めた人がね。でも会ったことも数えるくらいしかないよ」
「ふ~ん。そっか……」
刀士郎にもいるんだな、特別な人が。
親、兄弟、許嫁。……特別な人、特別な家族。
俺と同じように持っていない奴だってきっといるだろう。友達も何もいない奴に比べればめちゃくちゃ恵まれてると思う。俺は先生に出会えて人生変わった。今の俺はひとりぼっちなわけじゃない。ただ……ただ、なんだろうな、いつからこんなに欲深くなったのかな。
俺も……特別な人が欲しい、なんて。
俺を特別に想ってくれる、唯一無二の人に。
「…………旅するのも楽しいって、先生が教えてくれたんだ」
「え?」
「旅?」
刀士郎と義勝が目を丸くしている。面白い顔が見れたなと愉快な気分になった。
「先生、若い頃に武者修行で全国行脚したんだってさ。なかなか得られない良い経験ができたって言ってた。もし俺が望むなら手はずは整えてくれるって」
「……全国行脚なんていつ終わるかわからないよ。……危険だし」
刀士郎はどこか不満げだった。
「まあ俺の足は丈夫だし俺より強い奴なんて早々いないから大丈夫だろ」
「むしろお前を襲うような連中がいれば全力で逃げることをおすすめするな」と義勝。
「先生は君を養子にしようと思ってるんじゃない? そのための全国行脚なのかもよ」
刀士郎が不意に意味のわからないことを言い出した。
「君の剣の腕は皆認めてるよ。負け知らずだし、今や先生より上じゃないか。家を存続させるために君に神野藤の名を与えて、それで――」
「いや、ないない。それはないって。それにこの家の後継者は心桜だ」
「…………でも、心桜殿は体が――」
「心桜は可愛いから、あちこちから申し出があるだろうな。まず俺よりは背が高い奴じゃないと」
「だいぶ限られたぞ」
義勝が呆れた声を上げた。だけどこれは譲れないからな。
「後は心桜のこと幸せにしてくれる奴じゃないとな。愛人なんて作りやがったら股間の一物を斬ってやる」
「ぶっ」
噴き出した刀士郎と対照的に、義勝はますます顔をしかめた。
「……笑い事じゃないぞ。そもそも女がそんな下品なことを口走るな」
「うるさいな。俺から心桜を奪うならそれ相応の覚悟を持ってもらわないといけないってことだよ」
「いつから心桜殿がお前のものになったんだ」
「それくらい大切って意味だってば。……ま、全国行脚は心桜が祝言をあげるまでお預けだな」
……俺が先生の養子、か。
そんなの絶対あり得ない。家を継ぐとかはよくわからないけど、俺が二人の家族になれるなんて、そんなのあまりに幸福すぎる。考えられない、いや、考えない方がいい。そんな幸せすぎる未来を描いたら、叶わなかった時に辛すぎる。
あ~あ、俺が男だったらな。俺は絶対心桜を誰よりも大切にする自信があるのに。そしたら心桜と結婚することも……いや、ないない。何考えてんだ俺。この見た目のことを忘れたか? 男だったとしても受け入れられるわけないじゃないか。
顔を上げれば、夜空にぽっかり、大きな月が浮かんでいる。
「…………祝言の日は桜が綺麗に咲いてるだろうな。何はともあれ、義勝、おめでとさん」
「……ああ」
「美味しそうな料理があったらくすねてこようか」
「頼んだ、刀士郎」
「……やるならバレないようにやれよ」
――――――――
あの夜から何年もの時が流れた。
俺は結局全国行脚なんていかなかったし、先生の養子にもならなかったし、心桜は成人を迎えたのにまだ誰とも祝言をあげていない。
運命の日が訪れた。
「私の想いを、あなたに託します。どうか……守ってください」
先生は俺を見て、最期に優しく微笑んだ。
「よろしく頼んだよ、ほむら」
いつものように柔らかな口調で。
「さようなら」
そして、俺は……




