47 【シリウス】噛みしめる
成功した、成功した、成功した……
その事実を何度だって噛みしめる。姉は生きている。これからずっと一緒に生きていける。それが嬉しくて嬉しくて嬉しくて、嬉しくてたまらない。
『私、ステラ。あなたは?』
俺には名前なんてなかった。実験施設での記憶しかないから、そこで生まれたのか赤ん坊の頃に売られたのかのどちらかだろう。どちらであってもどうでもいい。家族なんて知らないし、余計な感情なんて必要ない。実験施設で散々体を好き勝手されて、人間らしい生活なんて想像したこともなかった。どうせ俺も、他の実験体の子供たちみたいに廃棄されて、何も感じないまま人生を終えるんだと……
ずっとそう思って生きてきた。
姉弟で売られ、実験のせいで弟たちを亡くした姉に、名前を与えられるまでは。
――――――
「あのね、胸が全然苦しくないの。すごく不思議な感じ」
姉はベッドの上で穏やかに笑っていた。こんなに穏やかな笑みを見たのは本当に久しぶりのことだった。……いや、初めてかもしれない。
それから姉はこっそり悪い笑みを浮かべた。
「このまま逃げだしちゃう?」
「……無理だよ。アランさんもいないし、2人でどこに行くんだ? 第一姉はまだ当分安静にしとかなきゃ。あの貴族の女にすぐに捕まる。あいつ足がめちゃくちゃ速いんだ」
「あら。シリウスちゃんより?」
「うん、俺より」
思い出しても化け物だった。バーバラに張り手を食らわしてたところを見るに力も強い。もしかしたらあいつも実験体なんじゃないかと思ったけど、さすがにそれはあり得ない。
「あの女は姉をもらうって言ってた。逃げられっこない。また前と同じ生活だ……。今からアランさんに連絡取って、それで姉だけでも……」
「だめ。あの人のところで働くのは私だけでいい」
姉はぺしりと俺の額を叩いた。
「シリウスちゃんは元気に生きてくれなきゃだめよ。この体なら私は大丈夫。そんな気がする。だからアランさんに連絡取って、シリウスちゃんだけでももっと安全な場所に行って」
「……姉はすぐにそういうことを言う……」
「シリウスちゃんだって」
「なんで俺に教えてくれなかったんだ。こんな病気にかかってるなんて、俺には一言も……」
「ごめんね。……見せたくなかったの。もう無理だってなんとなくわかってしまったから。だから私はついていけないと思った。それなら少しは何か役に立とうと思ったのに……ごめんね、何もうまくいかなくて」
姉は悲しそうに微笑んだ。……俺の嫌いな笑みだ。
「シリウスちゃん、まだ全然知らないでしょう」
「何を」
「外の世界の良いところ。優しい人も……少しはいることとか。美味しい物があることとか。私はちょっとだけ知ってるから。だからシリウスちゃんにも知ってもらいたいの。楽しいことも、あるんだよーって……」
「……1人だけ逃げるつもりはない。それに俺はあの女に正体を見られてる。バーバラの時と同じだ。もう逃げられない」
バーバラに正体を見られたのは俺の不注意だった。子供たちが酷い目に遭っている現場を見て、感情が爆発して、一時的に制御できなくなった。……この力は不安定だ。まだ長くは獣の状態になれないし、元に戻ったらめちゃくちゃ体調不良になるし……姉を医者の地下室に運んだ後、気を失わずにいられたのは奇跡だった。もう少し大人になればもっとうまく制御できるようになると思うけど、今のところこの力は全然役に立ってない。別に獣にならなくても鼻は利くし、速く走れるし……まあ、小型犬くらいなら変身するのは容易いんだけど……どっちにしろだめだ、真っ裸になってしまうから。実験で何度も裸を見られたことはあったのに、あの貴族の女に見られたと思うとまた顔が熱くなる。くそ……あいつ……あんな冷めた目で……自意識過剰って……くそ!
どうせあいつもバーバラと同じなんだ。
似たような目をしてる。俺にはわかる。俺の正体を知ったんだから俺を売り飛ばそうとするだろう。姉は必死でバーバラを説得した。何度も、叩かれながら……俺は力が制御できなくて乱暴だからもう少し成長してからの方がいいとか、買い手を傷つけると大変なことになるとか、あれこれ言って、結局納得させた。
姉は良い子の皮を被って、必死にバーバラから俺を守った。
「大丈夫よ、あの子まだ子供だから。バーバラの時よりもっとやりやすいわ。シリウスちゃんのことは逃がしてあげられる」
「……あいつはバーバラ以上に面倒だと思う」
「そう?」
「面倒だしムカつく。偉そうだしブスだし」
「シリウスちゃん、女の子にブスはよくないわ」
「姉だってこの前バーバラのことクソババアって言ってた」
「あら。ついつい口が滑っちゃったのね。だめよ、そんな汚い言葉を使っては」
姉の目がふと宙をさまよう。俺はその視線の意味を知っている。
「……あいつのこと心配?」
「えっ、……ええと……ちょっとね。ちょっとだけ」
姉は俺から視線を逸らして頬を掻いた。湿布が当てられたそこは、バーバラに叩かれて真っ赤に腫れていた。
あの赤毛が命がけで姉を助けてくれたことは知っている。灰色の奴がめちゃくちゃ怒ってたことも覚えている。……騎士とか、なんかよくわかんないけど……あの2人は、感謝してもいい……と、思う。信用は……まだわからないけど、姉を助けてくれたのは紛れもない事実だし。
うん、あの2人はいい。貴族の女はだめだ。もう名前も忘れたけど。あの金髪。あいつがやったのは力と権力を利用してバーバラを脅したのとやばい医者を連れてきただけだし。あ、あと手術費用……。さすがお貴族様だな。金が有り余ってるんだろ。だからあんな桁の手術費をポンッと出せるんだ。生まれてからひもじい思いをしたことも、苦労したこともないんだろ。うん、絶対そうだ。絶対……
……そうであって欲しい。
「やあ、調子はどうだい?」
急に扉が開いて、レインが顔を出した。
こいつはほんと不気味。要危険人物。何もなくてもにまにましてて気持ち悪い。
「どうだいシリウス、ちょっと体を弄らせてはもら――」
「だめです」
俺の代わりに笑顔の姉が言葉を遮る。
最初はこんなのと姉と俺だけ残していなくなるなよ貴族の女! って思ったけど、こいつは断りさえすれば一応それ以上のことはしてこない。ギラギラした視線は居心地悪いけど、それさえ我慢すればどうってことはなかった。
「やれやれ、ざ~んねん。私としてはお金より君の体の方が何万倍も気になるんだけどな~」
「……少しくらいなら」
「だめ」
……姉の笑顔が怖い。少し弄ってもらってそれで金をもらえるなら、姉があいつに返さなきゃいけない治療費の額が減る。そう思ったけど、姉は絶対それを許してくれない。
「お腹減ったでしょ? これど~ぞ」
「え……」
無造作にテーブルに並べられたのは今まで口にしたこともないような美味しそうなご馳走の数々だった。蜂蜜のようなとろとろのタレをかけられた丸い大きなパン、ぶつ切りの牛肉がごろごろ入った熱々のトマトシチュー、キラキラ輝く野菜スープにハムや卵をふわふわのパン生地で挟んだサンドイッチまである。匂いを嗅ぐだけで思わずごきゅ、と喉が鳴った。
「な、な、何これ!?」
「何って、ご飯。私の家にあるものじゃ不服そうだったからさ~」
確かにものすごく不味かった。味のしないスープや歯を持って行かれそうなカチコチの黒パンは拷問かと思った。実験施設や孤児院の食事も大概酷かったけど、ここの食事もなかなか引けを取らないものがあった。
俺たちへの嫌がらせかと最初は思ったけど、全く同じ物をこいつが口にしているのを見て、ああこいつはこういう奴なんだなと納得した。
「よくわからなかったから適当に買ってきたよ。好きに食べて。私は食べないから」
レインはごそごそと床を漁ると、どこからか取り出した黒パンをバリボリかじりながら食事には興味なさそうに本を読み始めた。
「こ、これ高いだろ!? 後で請求するつもりか!?」
「さあ?」
「さあって……どういうことだよ!?」
「だってそれフレア様のお金で買ったもん」
フレア……そうだ、フレアだ。
あの貴族の女。
「なんで……」
「ちょっと前に来て君らの食事代って渡されたんだよ~。できるだけ柔らかくて温かいものをって言われたからそうしたけど」
「…………」
やっぱ不気味だ。何考えてるかわからない。こんなの絶対おかしい。あいつが俺たちにここまでする意味がない。何考えてるか本当にわからない。
ぐう、と腹が鳴った。こんなのを前にしてどうしようと思っていると、姉にちょいちょいと肩を叩かれた。
「あの柔らかそうなパン、食べてみたい」
「えっ」
「スープも美味しそうね。ね、折角だから食べちゃいましょう。大丈夫、手術費に比べれば少額よ」
「それは……そうだけど……」
「私お腹減っちゃった」
そう言われたらもう我慢できなかった。ベッドの上に食事を移動して、2人でごくりと喉を鳴らす。指に摘まんだだけで崩れそうな柔らかなパンを口に含んだ。ほんのりした小麦の甘みとねっとりした蜂蜜の強烈な甘さが口の中で蕩ける。
「んっ……!!」
「美味しいねえ」
あまりの旨さに涙が零れそうになって、慌てて目元を拭う。
……餌付けか。絶対餌付けだ。油断させて何か企んでるに違いない。絶対そうだ。そうに決まってる。
心の中では、あのフレアという女への警戒心がメラメラと燃え上がっていった。




