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413 倒れる





 思いきり走ってみたい。稽古をしてみたい。

 そういうささやかな願いを、心桜はずっと諦めるしかなかった。 



 だから嬉しいんだ。



 ずっと願っていたことが、急に実現したようで。 




「――――――フレア様?」

「…………へ?」



 俺は恐る恐る体を離した。

 心桜は静かに俺を見つめている。


 やっぱり心桜にしか見えない。俺の直感みたいなものは間違いなく彼女だって言っている。

 なのにどういう訳か、その表情は、俺の知っている心桜のものとは少し違うような気がした。


 この微妙な感覚のズレが一体何なのか、俺にはよくわからない。



「えっと……こは、心桜?」

「その声……やっぱりフレア様ですね? 私はサクラです」

「え? ち、違う。俺はほむらだし、心桜は、心桜……だろ? あれ?」



 何だろう? 俺は、何か大きな思い違いをしているのか?

 俺はゆっくり心桜から離れた。


 

 艶かかな黒髪、くりくりと大きな目、ほんのり赤くなった頬……




 心桜だ。やっぱり心桜……こは……………………あれ?







 心桜って、七歳じゃなかったっけ?

 





 そうだよ、俺の記憶の中の心桜はまだ七つだ。もっともっと小さい女の子じゃないか!

 目の前の心桜はとても七つには見えない。多分十代中頃……俺や義勝と同じくらいの年の子だと思う。


 そうだそうだそうだ……何で心桜だって思ったんだ!? よく見りゃ髪の長さだって違うし服装だって俺の知ってる世界のものとはまるで違う。なのに、どうして俺は彼女が心桜その人だって思っちまったんだ!? どう考えてもこりゃ他人の空似ってやつじゃないか。もしくは心桜の遠い遠い親戚とか?


 だらだら汗が流れる。カーッと顔が熱くなる。


 俺はどうやらとんでもない間違いをしちまった。

 それがようやくわかったのに、それでもどういう訳か、俺の頭の半分くらいはまだ「いやいや心桜ですよこの人は」と状況を飲み込めていない。目がバチッと合うと「やっぱり心桜じゃん!」とまた間違えそうになる。


 俺は一体どうなっちまったんだ!?


 この感覚は、この世界に来て知らない言語をペラペラ喋れるようになったこととどこか似ている。俺の体そのものがおかしくなった、何か得体のしれない病気にでも罹っちまったような、どうしようもなさだった。




「ご、ごめんなさい!!」




 俺は勢いよく土下座した。

 やっちまったことは変えられねえんだから、とにかく謝らなきゃ。



「フレア様!?」

「すっっっっっっっげえ人違い!! 急に抱きついてごめん!! 俺、何か頭が変になってて……何て説明したらいいかわかんねえんだけど、ほんとごめん!」

「頭を上げてください! 私は怒っていないですし……あの、それにしてもどうしてこんな可愛い牛さんを? 牛さんを被っ……ふふっ」

「?」


 心桜……いや、心桜そっくりさんが笑った気配がして、俺は恐る恐る頭を上げた。

 彼女は、くすっと小さな笑みを浮かべていた。


「ご、ごめんなさい。ふふ、牛さんがすごく可愛くて。さあ、立ってください。可愛い牛さん」

「…………。うん」


 やっぱり、心桜に見えてしまう。

 だって笑い方までそっくりなんだ。

 もしかしてもしかしなくても、ここは未来の世界なのかな? 俺は未来の世界に飛んできたとか……


 いや、でも名前も違うし俺のこともわからないみたいだし、そもそもたった数年で俺の暮らしていたあの村がこんな街になるとは思えない。

 もしこれが未来ならいいなとは思うけど、違う違う。



 この人は心桜に見えて、心桜じゃないんだ。




「ど、どうしたんだ? 大丈夫か? 泣いているような声だったが……」

「いや~、檻をこんなに曲げちゃうなんてすごいですね、ミイラ牛さん。けっこう鍛えてるんですか?」


 焦った様子のおじさん二号と、のんびりした様子のねえさんが駆け寄ってきた。

 心桜は二人に向かって頭を下げた。


「お疲れ様です! フレア様をお助けいただいたみたいでありがとうございました!」

「? 何のことでしょう?」とねえさん。

「助けたと言うか捕獲されているのを発見しただけなんだが……やはり君もこの牛さんがフレアと思うかい?」とおじさん二号。


 え、牛。この牛って……俺のこと?


「この声は間違いなくフレア様ですし、あの怪力も瞬発力も、私が転びそうになっただけで助けてくれる優しいところも、全部フレア様で間違いありません」

「そうか……ほっとした。私は間違っていなかったんだな」


 二人が話しているのを聞きながら、俺とねえさんは顔を見合わせて首を傾げた。


「ミイラ牛さんが……フレア・ローズ・イグニス公爵令嬢?」

「いや、俺はミイラ牛でありほむらです」

「ですよねえ。フレア様は牛の被り物を被るタイプの御方ではありませんよ。被れと言われたら被り物を叩き切って燃やしてしまわれるタイプの御方だと思います。あのお二人は何か勘違いをされているのでしょう」



 うんうんと頷いた時だった。



「探しましたよフレア様!!!」

「うおわッ!?」



 突然背後から聞き覚えのある声。急いで距離を取ると、例の灰髪眼鏡男……ええと、何だっけ、るるー? だっけ? るるーさんが現れた。

 汗ダラダラで服ぼろぼろで、消耗しきってる。この人怖いんだよな~、でもこんな状態なら撒けそうだな、と思ってると、その背後から真っ赤な髪の人も現れた。今度はすらっとした真っ黒な犬を連れている。よく見たらその犬は、あの猫ちゃんと同じで目の色が左右違った。


「フレア様! お怪我はありませんか!?」と赤い髪の人。

「いや、あの~、それ人違いなんですけど……」

「フレア……いえほむら様!!!」とるるーさん。

 おおおぉ……ほむら“様”て。

 生涯俺につくことはないと思われた敬称をつけられて、すげえむず痒い。



「我々はッ、貴方様の味方です!! 皇帝がどんなことを言ったのかわかりませんが、我々は決して貴方に危害を加えません!!!」


 声がデカすぎて耳がキーンってなる。真っ赤な髪の人が「ちょっと落ち着け! 声落とせ! 気持ちはわかるけど!」とるるーさんを窘めた程だった。



 て言うか、皇帝? て誰のことだ?

 皇子は悪い奴だろ? 兵士も怖い人が多いんだろ? でも皇帝なんて知らない。

 やっぱりこの人何か勘違いしてるんだなあ。



「あのー、ですから何かすっげえ勘違いしてるんだと思います……よ?」

「していません!!!」

「そ、そもそも危害を加えないとか言っといて、すげえ巧妙な罠を仕掛けたじゃねえですか! あの檻とか地面から生えてきてめっちゃビクーってなりましたからね!?」

「ですがあれが最善でした! 網で捕獲は怪我の可能性がありますし捕らえられた後の体勢も辛いものになるでしょう。そこでやむを得ず檻にしたのです。あなたを檻に入れるなんて我々としてももの凄く嫌で仕方ありませんでしたが……! ご安心ください、この檻の仕掛けはうまく中に入っていただけるよう何度も何度も何度も何度も実験を繰り返したんです!!」


 今気づいたけどるるーさんの目の下にはめちゃくちゃ濃い隈ができている。

 もしかして睡眠と引き替えにこんなものを……? その情熱は別のところで発揮した方がいいんじゃ……。



「ちなみに私が作りました」

「え、心桜が!?」

「サクラです。皆さんには手伝っていただいたんです」

「さ、さくらさんが……?」


 そうか、この心桜そっくりの可愛い娘さんはさくらって言うのか。名前まで心桜によく似てるんだな。

 さくらさんは「ところで気づかれましたか?」と檻を指さした。


「檻の中って気分が落ち込んでしまうと思ったので、全体は真っ白に塗ってですね、中にいても楽しめるようにちょっと画を描いたんですよ」

「え!?」


 そんなの全然気づかなかった。

 俺はもう一度中に入って確かめてみた。

 言われてみれば、檻のところどころが黒く塗られている。


「近くではわかりにくいですけど、ちょっと視点を遠ざけて見てみてください!」

「あ! えっと……ね、猫ちゃん……!?」


 黒い線の連なりは、確かに猫が走っているように見えた。

 全然気づかなかった。ただの汚れかと思ったことは言わないでおこう。



「ふふ、驚きましたか?」



 さくらさんは檻越しに俺に笑いかけた。ふわっと花が咲くような、柔らかな笑みだった。

 すげえ、これこそまさに天女の微笑みじゃねえかって。

 そんな笑顔が、手を伸ばせばすぐのところで、俺に向けられている。俺だけに、めちゃくちゃ向けられている。




「猫がお好きだって聞いていたので……。本当は、貴女を捕まえるためのものなんて作りたくありませんでした。でも、結果的にこうしてまたお会いすることができて、私は本当に嬉しいです。フレア様…………いえ、ほむら様」




 彼女に優しく名前を呼ばれた、その途端。

 ぶるっと体が震えた。温かなものに鷲づかみにされたみたいだ、心を。




「ほむら様? どうかされまし――――……」





 ブーーーーーーーーーッ




「ッ!?」

「ほむら様!?」



 俺は牛頭を被ったままその場に崩れ落ちた。

 皆が慌てて俺に駆け寄るが、俺は何とか被り物を取られないようにしながら堪えた。



 あっっぶねええええ……!! 牛頭被っててよかった!

 言えねえし見せられねえ! あまりの破壊力に鼻血が出ました、なんて……!!


 牛頭のおかげで鼻血は見られなかったが、笑いかけられて名前を呼ばれたくらいで鼻血噴いた奴なんてさくらさんからしたら気持ち悪いんじゃねえの!? ああすげえ気持ち悪いな! 自分の立場に立ったらすげえ嫌だわ! ただでさえ俺めちゃくちゃ抱き締めちゃったし!






 しかし、尊い…………。

 これが尊いという感情か……?



 心が温かい……俺、このまま天に召されてもいいかも……いやよくねえ。死ぬな俺。

 さくらさんはすげえ破壊力だが俺には心桜がいる。心桜というお姫様の元に帰らなきゃならねえんだ。そうだそうだそうだ、俺の目的は医者を探すことじゃねえか。何忘れて鼻血噴いてんだ馬鹿野郎。



「あ、あの、ほむら様、本当に大丈夫ですか? 一体何が……」

「だ、大丈夫大丈夫大丈夫でっす!! ところであの、俺、人を捜してるんですけど……!」

「人?」


 ピリ、と何かひりつくような空気を感じる。

 俺はお構いなしに口を動かした。医者、医者だ。医者……えっと、何て名前だったっけ?



「優秀な……優秀な超腕のいい……えっと、えっと確か……確か……」



 頭をフル回転させる。

 思い出せ思い出せ……あぐにさんは何て言ってた? れ……確か“れ”がつくはずだ。れ、れれ、れい……れん……れんれん……れ………れれれ…………











「れんこんさん……?」






 ………………。

 そんな面白い名前だったっけ?



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