33 【カノン】動く
「このッ……!!」
華奢な体が吹き飛んだ。
思わず声を漏らしそうになって俺は慌てて口を押さえた。動揺で思考が覚束ない。信じられなかった。いや、信じたくなかった。こんな時ルベルなら冷静に対処できるのかもしれないけど……その光景は思った以上にショッキングだった。
あんなに温厚な、人の良さそうな顔をしていたバーバラさんが……
ステラを思いきり殴るなんて。
「うっ……うう……」
あまりの痛みのせいか、ステラは目元を涙で滲ませていた。唇の端が切れて血が流れている。頬は真っ赤で痛々しい。
暗い部屋だった。一体どこの建物の地下室かわからない。そこにステラと、バーバラさんと、それから見覚えのない屈強な男たちが数名、それからでっぷり太った貴族風の男が1人いる。
「まあまあ、バーバラ。そう焦るな。今からゆっくり可愛がってやれば、すぐに話し始めるさ」とデブ。
「ゆっくりじゃダメなんです! あなただって、あれがもし誰かの手に渡ればどうなると……」
「ふん、どこに渡ると言う。こんなガキの持ってきた物を誰が信用する」
「ですが……!!」
……何言ってんのかわかんねえ。だけど、何か重要な物がなくなってあいつらがピリピリしてるのはわかる。それにステラが関わってるのか関わってねえのかはわからねえけど。
「あれには取引している方の名前が全て載ってあるのです! 誰も信じなかったとしても、流出したことが知られたら私は……!」
「で、こいつが持ち出したってのは確かなのか?」
「そうに決まっています……! それともシリウスか……」
騒ぎ立てる大人を前に、ステラが震える声を上げた。
「わ、私は、そんなもの知りません……。シリウスももちろん……誤解です……」
「ふんっ、あんたは賢いからねえ。そう言って、本当は何をしていたかわかったもんじゃない! 私に一矢報いようとしてるんじゃないの? 一度は私から逃げ出した女だ。信用なんてできないね」
「あ、あれは気の迷いです! 私が間違っていました。許してください、こうして戻ってきたじゃないですか。一矢報いるなんて、そんな……」
「死期を悟って戻ってきたんじゃないの? 捨て身の人間は何するかわかったもんじゃない」
ステラは泣きながらバーバラの足に縋り付いた。
「わ、私、バーバラ様のためならどこにでもいきます。何でもします! だから、もう、弟のことは……」
「馬鹿な子ねえ。あんたみたいな死に損ないじゃ、ろくな稼ぎになりやしない。売ってすぐに死なれたら困るのよ」
「体を売ります! それなら短時間でたくさん稼げます」
思わず吹き出しそうになった。
な、何言ってんだ? あの子……
正気とは思えない。でも話聞く感じ、本気っぽい。
バーバラはそんなステラを煩わしそうに突き飛ばした。
「あんたは逃げ出した。で、あの書類も誰かに盗まれた。あんたが何かしら関わってるのは間違いないのよ。今からたっぷり拷問して吐いてもらうわ。大体、あんたのその体じゃ売ったところでそう長くもたないでしょ。良いお金にはならない」
「そ、んな……」
「残念ねえ。今まで良い子ちゃんしてたのも、弟のための点数稼ぎだったってのに、全部無駄になったわねえ。あんたのお願いなんてもう聞いてあげられないわ。まあ、今までいろいろ働いてくれたおかげで小銭は稼げたけど」
「あ、あの子だけは……お願いします。あの子はバーバラ様の思っているような優れた能力なんて――」
「ダメよ。あの坊やは絶対に見つけて売り飛ばすわ」
「そんな……」
「シリウスはあなたよりずっと高く売れる。……ま、少し躾が必要だけどね」
バーバラが人身売買をしていたのは間違いない。
で、ステラはシリウスを守るために今までこいつに何らかの形で協力していて……一度は逃げ出した。きっと、シリウスが連れ出したんだろう。でも結局この場所に戻ってきた。自分の死期を悟り、弟をこいつらの魔の手から逃すために……?
でも何者かの手によって超重要な書類が盗まれてて、運悪く犯人だと思われてる、ってことか……?
まだよくわかんねえけど、なんとなくそんな気がする。
バーバラの周りにいる男たちはどっから連れてきたのか、屈強な連中ばかりだし、あんなのからシリウスたちが逃げ続けるなんて……いや、そもそも子供だけでこの先生きていくなんて難しい。金も身よりもないのに。
そこでふと、嫌な予感がした。もしかしてシリウスのつるんでいたあの男は、実はこいつらの仲間……いや、それはないか。だったらとっくの昔に連れ戻してる。別の人身売買組織……? それはあり得る。でもそうなるとステラの行動に違和感を感じた。そんな危険な奴に大事なシリウスを任せてここに戻ってくるか? ……あの男は、ステラが信頼している人物だった、とか……? ほんとは良い奴……?
うわ。だとしたら俺、この前めっちゃ余計なことしたのか? いやいや、だったらもうちょっと話してくれたらよかったじゃん。問答無用すぎる。いきなり襲ってきたんだぞ。やっぱどっちにしろあの男は怪しい。
「……さて、じゃ、どんな方法で虐めてあげようかしら」
バーバラの言葉に、ぎく、と体が震えた。
唇の端を引き上げてニタア……と笑うバーバラの顔はまさに悪魔みたいだった。人間があんな顔できるのかって、体の底から震えた。
「やり方はいくらでもあるからねえ……」
バーバラがゆっくりとステラに近づく。
おいおいおいおい。一体何する気だよ!?
ダラダラと冷や汗が流れた。今すぐルベルを呼びに行くか!? でもあいつら今すぐ何か始めそうだし……呼びに行ってる暇なんてない。こんなことならルベルを呼んでから来ればよかったって今更ながら後悔する。まさかここまでヤバいことになってるとは思わなかったって……それはただの言い訳に過ぎないけれど。今呼びに行ってる間にあの子は一体どんな目に遭うか。考えただけでゾッとした。俺がやりあえるか? あんな屈強な連中相手に……俺だけじゃさすがに難しい。相手が1人なら自信あるけど、あんな大勢は絶対無理だ。今の俺じゃまだ……
『やばそうなのには立ち向かわない。すぐ逃げること。もし捕まったら命乞いでもなんでもして、絶対に相手の神経を逆撫でするようなことは言わないで。また怪我をしたら許さない。自分の命を最優先して』
フレア様の言葉がガンガンと頭を揺らす。
……フレア様の言う通りだ。もしこのままあいつらに捕まってルベルにもフレア様にもこの事態を知らせられなかったら、その方が絶対大変なことになる。今俺が動いたって、もしかしたら事態を悪化させるだけかも――
「い、いやっ……」
バーバラは手にナイフを持っていた。それを見て、ステラが悲鳴を上げる。
……きっと後悔する。
今動けなかったらきっと……俺は一生後悔する。だから……
フレア様、ごめんなさい。
「ステラ!!!!」
叫びながら飛び出していた。
この後どんな代償を払うことになるのかなんて、まだ考えもせずに。




