121 【クリスタ】 夢見る
夢を見るのが嫌いだった。
――――――――
「小綺麗なお嬢ちゃんじゃねえか。売ったらそこそこ高く売れそうだ」
……いや。
汚い手で私に触らないで。
叫び声を上げたら叩かれた。すぐに他の男性が「顔はやるんじゃねえ、売れねえだろ」と言ったのをぼんやりと覚えている。
怖かった。
大柄な男性に引きずられて、震えが止まらなくて。どうしたら良いのかわからなかった。でも叫んだらまた叩かれる。震えながら、早く誰か助けに来てくれるのを待った。
真っ暗なところに閉じ込められて、最初は何も見えなかった。ただしばらくしたら、どうやら自分の他にも小さな子供たちがたくさん閉じ込められているのがわかった。お葬式のように沈痛な空気の中で、たまに誰かが殴られる音や、汚い言葉や、女性の悲鳴が聞こえた。
しばらくして男の人たちが大勢部屋にやってきて、「こいつは商品にならねえ」と言って子供たちのうちの何人かを嬲り始めた。
怖かった。怖かった。怖くて怖くて、その時に見た恐ろしい光景がいつまでも生々しく、時には現実より残酷に私の中に残った。
それまで私の知る男性と言えば、お父様や騎士団、使用人の方々だけだった。皆礼儀正しかった。だからそれが普通だと思っていた。でもそんなことなかったんだって……その時初めて知った。
「この嬢ちゃんはまじで当たりだったな!! ちょっと遊ぼうぜ」
「傷はつけるなよ。高く売れなくなるだろ」
太い無骨な手で掴まれた途端…………私の特殊能力がその時初めて発動した。
男達の怒号、悲鳴、殺されるという恐怖に体がすくんで、視界が真っ暗になった。その後騎士団に助けて貰った時も、助けられたということをしばらく理解できないほど私は怯えていた。
あれからずっとうまく笑えない。
聖騎士の能力に目覚めたことは喜ばしいことのはずなのに、全然喜べない。だってこの能力さえなければ、たとえどんなに恐怖を抱いてもそれを押し隠すことはできたはずなのに。
見舞いに来て下さったジーク殿下に、能力を使うなんてこともなかったはずだ。あの時のお父様とお母様の恐怖に染まった顔は、今でもはっきり覚えている。ジーク殿下は壁にこそ叩きつけられなかったけれど全身ずぶ濡れで、目が笑っていなかった。
「……気にしなくて良い。まだ混乱しているんだろう。早く良くなることを願っている」
でも私は良くならなかった。
「僕に触れることもできない令嬢がどうやって王妃を務めると言うのだ」
ずっと王妃となるための教育を受けてきた。年も同じで、女王陛下も私を推薦してくださって、誰もが私が婚約者になるのだと思っていたし、私も……そうなるのだと思っていた。でも選ばれたのは私じゃなかった。
せめて、せめてテラ家の令嬢であれば良かったのに。ジーク殿下が選ばれたのはイグニス家のご令嬢だった。誰も彼女の婚約を喜んでいなかった。お母様がヒステリックに嘆き悲しんでいたのははっきりと覚えている。“あんな恥知らずに負けるなんて”と。
フレア・ローズ・イグニスは私を見てばかにするように高笑いを上げた。
「選ばれたのはあなたじゃなくて私。どう? その高慢な鼻をへし折られた気分は。自分が選ばれるとか思ってたんでしょ? ぷぷっ、残念だったわねえ、あなたは所詮その程度ってこと。あなたみたいな面白みのない人形なんて誰もお呼びじゃないのよ。選ばれたのは私なの。ジーク殿下は、彼だけは私のことを愛してくれてるの。殿下に見捨てられたあなたなんて誰も……ああ、レオンがいるわね。良かったわね、な~んでも言うこと聞いてくれる役立たずの従兄弟がいて。彼と婚約すれば? あなたみたいなゴミでも同情で結婚してくれるわよ」
彼女の幼い言葉の全てから真っ黒な悪意を感じた。お父様やお母様もいる前で彼女は私を辱め、レオンの怒鳴り声も気にしない様子で鋭い言葉ばかり投げつけてきた。
頭がぼんやりとした。こんなことを言う人間よりも私の方が劣っているのだと、殿下に突きつけられたような気分だった。彼女の邪悪そのものの笑みが頭からこびりついて離れなくて、しばらく悪夢にうなされた。
もう王妃となることはないはずなのに、その後も厳しい教育は続いた。お母様はまだ私を王妃にすることを諦めていなかった。イグニス家の令嬢なら婚約破棄もあり得ると本気で考えていたのだ。
「お嬢様!! 手の角度が違います! 正しくはこう!! ……また間違えましたね。後ろを向きなさい。スカートの裾を上げて」
鞭で叩かれた痕はなかなか消えなかった。
顔ではなくて見えにくい場所を狙うのは、まるであの野蛮な男たちと一緒だと思った。
どれだけ時間が経っても、私は男性にまともに触れることができなかった。
「アクア家のご令嬢は氷のように冷たい性格の方なんですって」
「特に男性に厳しいんでしょう? 気に入らなければ特殊能力を使うと聞いたわ」
「あら、だったらイグニス家のご令嬢と大差ないじゃない」
「ちょっと、あの野蛮なだけのご令嬢と一緒にしてはだめよ。クリスタ様はそれだけ気品に溢れた方ということですわ」
「私が接した時はとても穏やかな方だったわよ。まあピクリとも笑わなかったけど」
「ふふっ、そうそう、まるで本当に人形のよう」
「一緒にいたら息が詰まるのよねえ」
令嬢たちの間で好き勝手に言われていることも知っている。
「もうあれから随分経ったのにいつまで怯えているんだ」
お父様は私を見放した。一緒に屋敷にいるのも気詰まりだったのかもしれない。私がいつまでもまともに男性と接することができず、お父様にさえ怯えてしまうから。お母様も私にお会いしてくださらなくなった。いつまで待っても、一向に私に王妃の話が舞い込まないから。だから二人は、私がレオンと暮らすよう取り計らったのだと思う。聖騎士だからと言って、本邸で暮らさなければならない決まりなどないというのに。
……こんな能力さえなければ。こんな能力さえなければ、過度に期待されることも殿下の婚約者候補として名前が上がることも、お父様にこんなに落胆されることもなかったのに。譲れるものなら誰かに譲りたい。
いつも同じ夢を見た。
私はずっと怯えて、謝っていて、いつも早く覚めて欲しいと願っていた。――なのにあの日の夢だけは違った。
「あなたをこんな危険なところに置いていくわけにはいきません。さあ、一緒に逃げましょう、私だけのお姫様」
金髪碧眼の王子様が、私を暗い闇の中から救ってくれた。
――――――――
思わずバシっと頬を叩いた。
じんじんと痛い。他に誰もいなくて良かった。侍女がいたら「クリスタ様がご乱心を!」と叫ばれてしまうところだった。
あの日……つまり昨日見た夢は……正直最高だった。暗闇の中でルークさんが私を救い出してくれる夢。お姫様抱っこで明るい場所まで連れて行ってくれる夢。目覚めないでほしい夢なんて記憶に残っている限り初めてだった。
『私だけのお姫様』
「……~~~~ッ」
は、恥ずかしい……!! あんな夢を見たなんて……。あんな言葉を囁かれて喜ぶなんてまるで幼い子供のようだしルークさんにもなんだか申し訳ない。
今思い出してもなぜルークさんが私を助けてくれたのかわからない。落ちてきたのは多分事故だと思うけど、それだってまるで私を守ろうとしてくれたみたいで……。普通起こりえないことにまず胸が高鳴った。でもあのまま彼は一人で逃げてもよかったのだ。私だってもうあんな男達を前にして怯えて何もできない子供じゃない。嫌悪感はあっても特殊能力だってあるし護身術も習っているから大丈夫だという自信はあった。そう、彼がいなくなっても大丈夫だった。でも……
こんな危険なところには置いていけないと、私が拒絶したのに怒る風もなく連れ出してくれた。
あの時の逞しい腕の感触……だ、だめ! 考えたら顔が……!!
実は恋愛小説が好きでこっそり読み漁ってるなんてレオンだって知らない。そんなこと知られたら恥ずかしくて当分顔も見られない! ……本当はずっと憧れていた。いつか素敵な王子様が迎えに来てくれる……そんな非現実的で甘いだけのおとぎ話を。
子供の時に一番好きだった絵本は今でも本棚に忍ばせている。小さい頃でさえ、絵本なんて幼稚なものはやめなさい、と言われていたけれど、私にとっては大切でいつまでも色あせない物語だった。
素敵な王子様とお姫様の物語。
お姫様は悪い魔女に心を凍らされてしまって、感情のない冷たい人間になってしまう。それを知らない周りの人たちは、お姫様のことを冷たい酷い人だと噂する。でも太陽のように明るい王子様が現れて、彼だけは唯一お姫様のことを理解し、癒やしてくれる。やがてお姫様の心を覆っていた氷は溶けて、二人は結ばれ、王国の民も祝福する……。
幼い頃の私はこの物語に夢中になった。幼かった頃は、もしかしてこの王子様はジーク殿下なのかしらと甘い夢を描いたこともある。それは幻想だったけれど……。まるで今になって、この夢の続きを見ているみたい。
どうしても気になって、本棚に忍ばせた絵本を久しぶりに手に取った。
「…………ッ」
見れば見るほど顔が熱くなる。だってやっぱり……に、似ているから……。私がずっと憧れていた王子様は、表紙に描かれた王子様は……サラサラの短い金髪に綺麗な青い目。
『可愛い私のお姫様、あなたの心の氷を溶かしに来ました』
ブンブンと首を横に振った。こんな絵本の登場人物に似ているから何だというの? あの人はただの平民。貴族ですらない。心の氷を溶かしに来たんじゃなくてただ偶然私の問題に巻き込まれてしまっただけじゃない。なのにまるで……まるでルークさんがこの絵本の王子様みたいだって思ってしまうなんて。こんなことを誰かに知られたら本当に恥ずかしすぎて死んでしまう。だってあんなに口も悪くて振る舞いも悪くて……でも……でも……
今朝からの不意打ちの数々にまた顔が熱くなった。
ずるいずるいずるい……。「あ~ん」も授業を抜け出すのもダンスも……どれも不意打ちで、どれも私が望んでいたことだったから。アクア家の食卓は静かで息が詰まって、もう慣れはしたけれど楽しくは無かった。平民の男女が食べ物を食べさせあいっこするらしいと小説で読んだ時はなんて下品な、と思ったけれど、同時に憧れてもいた。絶対許されないけど一度くらいやってみたい……!! そしたらルークさんが……。思わず飛びついて指を囓ってしまったとわかった時は死んでしまうかと思った。授業中、ちょっと遊びに行こうと手のひらを差し出された時だって心底嬉しかった。未だに鞭で罰を与えるあの教師からいつも逃げ出したいって思っていたから。でも逃げ出す勇気がなかっただけ。彼が連れ出してくれて、綺麗な温かい景色を目にして、どれだけ心が救われただろう。彼は私の今までの努力を肯定してくれて、情けない話だって聞いてくれた。ずっと憧れていたダンスもやらせてくれた。私のせいでアクア家の女性教師たちは男性のダンスまで完璧に覚えてしまった。もう一生男性とのダンスは無理かなと思っていたから、本当にただ嬉しくて……。
一番驚いたのは、レオンが彼に能力を使った時だった。咄嗟に避けた彼は、自分だけが助かろうとするんじゃなくて……私のことも守ってくれた。普通あんなことがあれば私を突き飛ばして自分だけ助かろうとしてもおかしくないのに。繋いだ手はそのままに、背中に回した腕に力を込めて私の体を引き寄せ、抱き締めてくれた。今思い出してもあれは……
『こんなことしたらクリスタも危ねえだろうが!!』
か、かっこよすぎる……!! 1000点満点! 口調は荒いけどそれはそれでもう格好良く見えてしまう。咄嗟の行動に人の本質が表れると聞いたことがあるけれど、だとしたら彼はもう心が王子様で間違いない!
『こんな可愛い胸を前にして一回揉んでみてえって思うのは人類共通の感覚だろうが!』
「…………~~~~ッ」
またカアっと顔が熱くなる。普通ならきっと嫌悪感を抱いていた。でも彼に言われると不思議と全然感じない。むしろ……嬉しかった、なんて。あり得ないあり得ないあり得ない! でも本当に……自分の胸の価値なんて考えたこともなかったけれどあの時初めて誇らしく思えた。彼に可愛いって言われるのも綺麗って言われるのも……どれも特別輝いて聞こえた。彼に微笑まれると……心がぽっと熱くなった。
だからこそレオンが怒っているのを見て私は冷静になれたのかもしれない。本当に殺してしまうと思ったから、絶対殺させはしないと思った。
あの時の気持ちを思いだしてふうっと息を吐いた。急いで絵本を棚に戻す。今は手紙の整理をしなきゃいけない時間なのに、こんなことばかり考えちゃうなんて。それにルークさんへのこの気持ちは……だめなものだから。ただの憧れなのにこんなに熱くなっちゃだめ。落ち着いて、と自分に言い聞かせた。ルークさんは平民で、私の治療のためにただ協力してくれているだけ。…………きっとレオンがお金を渡している。だから私に優しくしてくれているの。あまり過度な期待ばかりしちゃだめ。もう十分夢は見たから、そろそろ落ち着かないと。
ちょうどその時ドアをノックする音が響いた。
「クリスタ」
「ッ!! は、はい」
声が裏返りそうになって慌てて抑える。入ってきたのはレオンだった。
「どうかした?」
「それが……ルークを見なかったか?」
「え?」
――ルークさんが部屋から消えてしまったと聞いた途端、頭が一気に真っ白になった。




