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「へえ~。すご~い。床が見える」


 呑気に拍手してないであんたも少しは手伝……まあいいわ、これは私が勝手にやってることだものね。汚部屋でも全然構わないあんたと違って私はこの部屋では息するのも躊躇うレベルなのよ育ちが良いから!


 物を片付け床を磨き洗濯し許可をもらって屋上の物干し場を使わせてもらった。この建物は各階に人が住んでて、レインは地下だけで暮らしている。でも地下とは言え一応調理場もあるし浴室もあるし部屋もいくつか分かれていてかなり広いし、換気と日当たりさえどうにかできればものすごく良い物件になると思う。


 物干しの途中だった。気づかないフリをして我慢していたけれど、とうとう我慢できないところまで来てしまって、ダッシュで地下のレインの部屋に駆け込む。駆け込んでからそれでもしばらく固まっていた。




「……………………トイレ」

「ん?」

「トイレ……行きたくなってきた」

「……うん。そこ。さっきフレア様が綺麗に掃除してくれたとこ」




 遂に……遂にこの時が来てしまった。

 やだ、本当にやだ。男のこれを見たことがないわけじゃないけどただチラッと見るだけと自分のものになっちゃってるのと自分で触るのとは全然違うわけでああああぁ本当に夢なら今すぐ覚めて!!!!




「早く行かないと膀胱炎になるよ?」

「う、ううううううるさい!! わかってるわよ! わかってるけど……!!」


 






 ………………結局尿意には勝てなかった。

 絶望しながらトイレから出た私を迎えたのはニヤニヤ笑うレインのムカつく顔だった。ああ、一回殴りたい。




「私もうお嫁さんに行けない……」

「あっはっはっ!! 大丈夫だよ~王子サマがいるじゃん」

「うっさい……」



 何て言うか……虚無。一体いつまでこの体と付き合わなきゃいけないのかしら。もしかしてもう一回寝たら元に戻っていたりして? だとしてもこれが最早体質みたいなものになっていたとしたらその翌日にはまた男に……いやいやいや男になる体質とか意味わかんないから!! 訳わかんないまま元に戻れてもちゃんと原因を究明しなきゃ!! 安心して眠ることもできないわ。



「杏……」



 やっぱり杏に会うのが良いのかしら。小説で誰かの性別が変わるなんて展開は全く記憶に無いけれど私が忘れているだけでもしかしたらあったのかもしれないし、創造主なら何かピンと来るかもしれない。でも……




『うふふふふ~、フレア様超可愛い~! あのぉ、私にキッスしてくださいよお~キッス!』




 イラッ。思い出したら苛ついてきた。あの子なら記憶保持者だから目さえ合えばこんな姿でも多分私だってわかるでしょうけど正直会いたくない。しかもこの姿を見せるという屈辱と引き換えに本当に有益な情報を得られるかもわからないし…………。杏って秘密事とかも苦手そうだから彼女と接触するのは逆に危険かもしれないわね。


 うん、杏に接触するのはやめておきましょう。乱蔵にも気をつけないと。あの二人には私の正体を誤魔化すことができない。

 乱蔵にこの姿を見られれば間違いなく大爆笑だわ。想像しただけでめちゃくちゃ苛つく。私絶対あいつより美形だけどね! 絶対あいつよりモテる自信あるけどね! まあとにかくあの二人には気をつけましょう。間違ってもばったり会わないようにしないと。






――――――

 


 洗濯物を干し終えてからレインにお金をもらって市場へ出かけた。まずは野菜とお肉と調味料。汚れた黒パンをひたすら囓っていても幸せを感じられないんだもの。黒パンだけじゃなくて栄養バランスの整ったちゃんとした食事が必要だわ。フードを目深に被って顔を見られないように気をつけながら辺りを窺った。警備兵の姿を見るとドキっとする。別に知り合いでも何でも無いしこの姿を見たところでフレアだなんてバレないでしょうけど、それでも妙な緊張感を抱いてしまう。


 市場はすごく賑わってる。この市場は以前孤児院にいた頃に利用していた市場とは違うところだけど、この賑わいを肌で感じると不思議と懐かしさまで感じてしまう。耳を澄まして会話を聞いても、特に私の脱走については語られていない。多分まだ公になっていないのよね。ジークなら隠すと思ってた。私の部屋を見れば誘拐とかじゃなくて脱走であることには多分気づくでしょうし、公爵令嬢の脱走なんてスキャンダルは瞬く間に社交界に広まって大変なことになる。

 ……うん、私もこんな噂は広まってほしくない。今回のことは私自身一刻も早く忘れたいしさっさと解決して丸く収まって欲しいしジークとアクア家以外の人間には、つまりできる限り知り合いの人間たちには知られたくない。ああ、でもステラには明日知られちゃうのかしら。……うーん、多分心配かけちゃうわよね。それなら彼女には接触するべき? でも本当にこの姿は見られたくないし……て言うかよく考えればステラは私を見てもわからないでしょうから最悪不審者としてどこかに突き出される可能性もあるわよ。



 ダメだ……やっぱり極力誰かとの接触は控えた方がいい。レインだけに留めておこう。




「僕がフレア様役ね!ぼっこぼこにしてやる!」




 …………ん?



「ええ~ずる~い!フレア様は私がやるの!」

「お前みたいな弱っちいのには無理だよ! フレア様はムッキムキなんだぞ!」



 誰がムキムキだって?



「や~だ~!! 私がフレア様になるの!」



 視線を向けると何人かの子供たちが木の棒を持って遊んでいるところだった。ええ、それ自体はよく見る光景ではあるけど……何で私?



「フレア様って格好良いよな~! 俺絶対将来フレア様みたいになるんだ!」

「腕とかこ~んな太いんだぜ! 丸太くらい!」

「え? 私が見たのは細かったよ? 細いけどすごいの!」

「ばっか。細く見えたのは気のせいだって! あんな強いのに腕が細かったら戦えないじゃん!」



 馬鹿者はあんたよ。私の腕は細くてたおやかで美しいの。昔からどれだけ食べても太るということを知らない上にどれだけ鍛えても筋肉モリモリにならない変わった体質なのよ。羨ましいでしょ。まあ腹筋は割れてるけどね。


 て言うか何これ。私の知らない間に私のイメージがなんかスーパーヒーローみたいになってる。私の人気が急上昇みたいな話は聞くだけは聞いていたけど、こんなことになっているとは知らない。だって実際に私がこの辺りで暮らしていた頃は最悪な噂しか聞かなかったんだもの。

 思わず呆然と見つめていた。



「さあさあ、フレア様ごっこはいいからあんたらちょっとは手伝いなさい!」

「え~やだ~」

「もうちょっと遊ぶの~」

「こら! そんなんじゃフレア様にはなれないわよ! フレア様は店の手伝いだって家の仕事だって何でも完璧にこなすお姫様なんだからね!」



 何じゃそりゃ。店の手伝いなんてしたことないと思うんだけど。て言うかそんなお姫様聞いたことないわよ? 子供たちに言うことを聞かせるために私の名が使われる日が来るなんて思わなかった。まあ、「悪い子の所にはフレア様が来るのよ! フレア様に取って食われたくなかったら言うこと聞きなさい!」みたいな使われ方をしていなくて良かったと思うべきかしら。




 ……何かしら、すごくムズムズする。嬉しいというかこっ恥ずかしいと言うか……何とも言えない感じ。んんっと咳払いして取りあえず歩き始めた…………時だった。










 すれ違いざまに腕を取られた。








「え……」







 ぐん、と引き留められて振り返る。振り返って……激しく後悔した。







「……………………君、は…………」





 聞き覚えのある声。フードからはみ出た紫色の髪。片目には眼帯がしてあって、もう片方の見開かれた目は髪と同じ綺麗な紫色。庶民だらけのこの場にあって何ともこの場にそぐわない高貴な雰囲気。






 ジーク・アスター・ルークス。





 私を引き留めたのは間違いなく彼だった。


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