Violette Ⅱ 《エミリアside》
今回は長めです
前回の3倍くらい。
エミリアの回想からはじまります、死ぬ前の走馬灯的ななにかです
ああ、愛しい我が祖国……!
お忍びで街に出てみれば、陽気な民達がいつでも笑いあっていた。喜怒哀楽溢れた歌劇、多くの素晴らしい絵画たち。芸術の都がある国で生まれ、芸術を愛する父王をもったエミリアは、同じくそういったものを愛していた。だがそれよりも、演奏会の時や絵画展に行った時の、みんなの喜ばしげな顔が好きだった。国を照らす太陽神と、国を包む海神に守られた、美しく豊かな国。
思えば少女時代のあの時が、エミリアにとっての幸せの最絶頂だったのだろう。民を愛し愛された父王、気高さと誇りを胸に父を支えた母、いつだって優しかった姉リリアーナ、王太子としての責務に苦しみながらも笑顔を絶やさず周囲を気遣っていた弟ダンテ。家族を愛し愛されて、王女として生まれてもふつうの少女としてエミリアは育ったのだ。外国の王子と恋に落ち、恋愛結婚だった両親や先に異国へ嫁いでいた姉はエミリアと王子の関係を喜んだ。そういう話は多くあったもののなぜか未だ妃を娶っていなかった弟は渋い顔をしていたけど。ふたりは結婚して、エミリアは彼の国ーセリースで暮らすはずだった。その国というのは、姉が嫁いだ国だった。また一緒に暮らせるわねと、2人で喜んでいたのに。エミリアは愛する人との幸せを約束されていたはずなのに。
その幸せは、突然に壊された。頭のおかしい皇帝のせいで。
エミリアとは祖父と孫のように年齢が違う老いた皇帝が、大陸中にその輝く美貌を知られていた彼女を望んだ。小国の王にすぎぬ父が断れるはずなどないことを知ったうえで…!王子も、セリースでは亡くなった大公の妾の子に過ぎなかった。更に、大公はセリース王家の血を引いておらず、婿養子であったのだ。老いた皇帝は年を経てから更に色好みとなり、後宮には大陸中から集めた女が溢れているらしいが、毎年多くの女が命を絶つという。陵辱に耐えかねて。後宮での寵争いに疲れて。色んな理由で、精神を病んで。まだ娘盛りで、一度幸せというものを知ってしまったエミリアが、そうなるのも時間の問題だとわかるから、父王はどうしても他の道を見つけたかった。エミリアにとって一番善い道を……。
父が見つけてきた婿は、姉が嫁ぎ王子の育った国であるセリースの、女王の弟。
「リア……。おまえが本当に一緒になりたかったのは、王子だったのだろう。だが私にも王子にも、皇帝陛下の要求をお断りする力など有りはしない。セリースのアントワヌ殿下には、先にリリアーナが嫁いでいる。きっと良くしてくださる。……無力な父で、すまなかった」
最後にとても悲しそうな顔で付け足した父に、逆らうことなどできなかった。共に逃げようと言ってくれた王子の手を取ることなど。そんなことをすればたちまちこの国は帝国とセリースの両方から潰されてしまう。セリースに嫁いだ姉の安否も危うくなる。
もう充分幸せだった。この国での思い出と、セリースにいる姉だけを頼りに、これからは生きてゆこう。
***
結婚式の夜、ぼうっとしていれば夜は明けた。アントワヌ殿下は優しく抱いてくれたように思うけど、エミリアの心は王子のもとにしかなかった。殿下に王子を重ねてみようとしても、無理だった。王子は白く細い指。殿下は日焼けしたごつごつとした指。王子は太陽のような金髪。殿下はセリース王家に特徴的な紫色の髪……。きっと殿下はエミリアの気持ちを知っているのだろう。その上で救ってくれた。もしくは姉が懇願したのかもしれない。色好みな老帝に嫁ぎ身を滅ぼすよりは、誠実で若い殿下に嫁いだほうが、まだ幸せだと。でもー幸せに、まだなんてあるのか。エミリアからすれば、帝国に嫁ぎ何十人といる妾のひとりとなることも、この王国で殿下の妃となることも、何ら変わりはないものだった。
祖国での決意は、揺らぎつつあった。諦めたはずのあの人が、すぐ近くにいるのだから。
***
王子の父親ー大公がこの国に婿養子として時の国王の第一王女・アデルと結婚する前、彼には妻がいたらしい。しかし彼女は妃ではなかった。……彼女は、身分が低かったから。王子の祖国では、王族は伯爵家以上の令嬢しか妃にできない。彼女が妃であったならば、先王がアデルの夫となることも、セリースの王配となることもなかっただろう。更にいえば、セリースの国使として王子がエミリアたちを訪れることもなかったのだ。やがて大公の婚姻が決まり、彼女は大公について行くことは許されなかった。大公が去れば、彼女やその子を王宮から追い出すことは簡単だ。王子の子といっても、所詮は妾腹。妾腹の子は、王籍を持てない決まりだった。しかし妾たる彼女を連れて結婚すれば、セリース王家の心証は相当良くないものになるだろう。彼女を連れていくことはできない、それならば。せめて息子を連れていきたいと思うのは、親の情け。王子を連れていくことが、彼女との合意の上だったのか、それとも強制的に引き離したのか。王子はまだ幼かったらしいし、大公は物言わぬ骸。彼女は大公が去ってすぐ亡くなったらしいから、真実を知る者はいない。
父の結婚に伴い、王子はセリース王籍を得るために継母・アデル王女の養子となった。国王の死に伴い王位がアデルに譲られ、王子は“王子”となった。セリースの、実力主義の風潮も味方をして、優秀な上に努力家な王子はすぐに出世した。今では王子はあの若さにも関わらず、アデル女王の腹心のひとりとして政界で活躍している。
……つまり、女王主催の舞踏会には必ず参加する。他の舞踏会にも女王の代理として参加する。その美しい金髪を、風に靡かせて。エミリアを、熱く見つめて。
***
今日も、彼は来ていた。アントワヌ殿下の隣には、姉リリアーナ。政略結婚と思えないほど仲が良い2人。殿下の話が出るたびに少女のように顔を赤らめる姉の様子を思い出す。エミリアは壁の花を決め込んでいた。殿下の隣は姉1人で充分だ。すると、熱い視線を感じた。誰なのかは、わかっている。逃げるようにガレージへ出た。
エミリアは類まれなる美少女である。ピアノとダンスの腕は賞賛に値するものだ。優雅な所作(本性は跳ねっ返りだとしても)も、外国語の堪能さも、おおらかな優しさも美点だろう。しかし欠点を挙げるとするならばーエミリアは、悲しいほどに方向音痴であった。王子の視線から逃れられればそれで良かったはずなのに、いつの間にか裏庭に迷い込んでしまったのだから。しっかりしなさいエミリア、と自分を叱咤してみてもどちらに行けば良いのかわからず、右往左往するばかりだった。そんな時だった。
後ろから優しく腕を掴まれたのは。振り返れば闇夜にも明らかな金髪。
「王宮は広い。下手に外に出ない方がいいですよ」
「探しに来てくださったのですか」
エミリアの腕を掴んだ時はあの頃と変わらず優しかったのに、言葉はこんなにもそっけない。振り切ったのは自分なのに、それがどうしようもなく切なくて、言葉の裏を探してしまう。
「殿下が心配なさるでしょう。妃殿下も。陛下も義妹にあたる貴女が姿を見せなければきっと、」
最後までは聞いてやらなかった。
「そうですか。それはご苦労さま。わたくしならここで休んでいただけだから結構ですわ。舞踏会にお戻りになったらいかがかしら、あなたのそばにいたはずのお嬢様方がお気の毒です」
王子に突き放されるなら、エミリアから突き放した方がいくらかましだった。その方が、心の傷は少なくて済むから。そう思ったはずなのに、すぐに後悔した。
初めて見る、王子のざっくり傷ついた顔。先にエミリアを傷つけたのは王子なのに。いや、エミリアの方なのか。国を守るためとはいえ、王子との別れを選択したのはエミリア自身なのだから。
「……妃殿下。いえ、リア。もしあなたの心の中に俺がまだいるのなら、どうかそんなことを言わないでくれ」
昔の口調にあっさり戻す王子はずるい。エミリアが散々躊躇って結局できなかったことを、王子はやすやすとやってのけてしまう。俯いたエミリアの頬に王子はふれようとして、手を引っ込めた。
「もし俺の手を取ってくれるなら、いつまでもあなたを守ります。どうか、リア。お願いだ」
エミリアはどうしたいのだろう。王子とともにいたいのは本当。
けれど、みんなを守りたいのも……本当。
アントワヌ殿下に、姉に感謝しているのも本当。
全ては夢だった。美しい夢。王子の手を取り笑いあったあの日々は、きっとー神様の悪戯でできた、幻にすぎない。そして夢は終わらせなければならない。
エミリアはさよならの代わりに、そっと微笑んだ。王子は何となく察したのだろう、泣き笑いの表情を浮かべた。
「妃殿下、いつか私が贈った花を覚えていらっしゃいますか?」
忘れられたらどんなに楽か。王子からもらったもの全て、大切に保管してある。夢は終わらせてもきっとそれらは捨てられないし、捨てようとも思っていない。色とりどりの、すみれの花。
「……私は花言葉など知らぬ無骨な男ですが、それだけは知っているんです。私がどうしてもほしいものだったから」
小さな幸せ。生まれてすぐ母親と引き離され、父親は王子の父親ではなく、この国の女王の王配。そんな王子にとって、小さな幸せはきっと喉から手が出るほどほしかったもの。
王子がエミリアと出逢ってやっと見つけた、小さな幸せ。それもまた奪われた。
でもエミリアには、さよならしか言えない。今はもう、王子に応えることはできなかった。エミリアには、すべてを捨てる覚悟など、到底持てなかったから。
ごめんなさいは言わなかった。泣きたいのはエミリアだって一緒だ。
迷ってきた道だが、帰りは戻れるような気がした。立ち尽くす王子と、一度も振り返らずに王宮へと戻るエミリア。二人の道が交わることは、もう二度とないのだろう。けれどエミリアはひっそりと咲くすみれを見る度に、王子とのーまだ自分があどけない少女だった頃の悲しい初恋をきっと思い出す。王女という身分も、世界の汚さも知らずにいられた頃の自分にはもう戻れない。
王子は知っているだろうか。
すみれにはたくさんの花があって、そのそれぞれに花言葉があることを。黄色、白色、紫色、桜色など色の種類は多い。
「小さな幸せ」は黄色のすみれ。
そしてー桜色のすみれの花言葉は、「希望」。
王宮でアントワヌ殿下の妃の1人として生きることは、きっと楽なことではない。彼女は殿下の妃であると同時に、他国の王女であるのだから。失敗を犯せば「外国人」と陰口を叩かれ、彼女の一挙一動が祖国への評価に関わる。
つらさに泣く度に、妃の責務に押し潰されそうになる度に、エミリアはすみれを見に裏庭に走るだろう。
そして思い出す。
王子のことが大好きだったことを。共に笑いあった日々を。
叶わない想いだった。はかなく散るさだめの恋だった。けれど、あの日々は決して無駄ではなかった。エミリアの心をあたたかさで灯してくれるもの。
初恋は胸にしまおう。エミリアが妻としてお仕えすべきなのは王子ではなく殿下。もう二度と揺らがないと誓うから。
泣きそうな時の希望の光として、たまに思い出すことを許してほしい。