Violette 《エミリアside》
一年を通し穏やかな気候のセリースも、年に数回は気持ち悪い天気の日がある。セリースの大地を照らす日差しが厚い灰色の雲によって閉ざされ、人々の心も少し鬱気味になる、そんな日のこと。
夫アントワヌ王をそばで支え、その死後即位した若い息子や孫の代わりに政治を取り仕切った、国の最高権力者が倒れた。まあ、情報は統制され、それを知るのは王家やエミリアの侍女以外は国の中枢に位置する者達だけだが。
エミリアは倒れてからも公務に勤しみ、自身の体調の悪さなど微塵も感じさせなかった。それは彼女の忍耐力の賜物だったが、決して、回復したということではなかった。最初に倒れてから一ヶ月後、エミリアは再び倒れ、ベッドから抜け出せない体となつてしまった。一刻一刻とエミリアの命の灯し火は儚くなっていき、それをシュラハッツニー卿マチェイは誰より深く嘆き悲しんでいた。それこそ、エミリアの家族たちよりも。こんなことになるならば、エミリアが政務に戻ると告げたときもっと反対しておけば良かったと、今更ながらに後悔を募らせた。
侍医に夜を越えられないだろうと告げられ、王家の者たちや重臣たちが集められた。国王リュカ、王太子レオ、王太后メアリー、王の異母妹マリ。マリの夫の父オリヴィエ公爵アンリ、その子であるフォントネー侯爵ダニエル、宰相ソレイユ公爵、及びエミリアの継子にあたる公爵夫人。王国軍将軍エトワール公爵、王国陸軍将軍ルフェーブル侯爵ルイス、海軍将軍パスカル侯爵、及びエミリアの姪にあたる侯爵夫人、そしてシュラハッツニー卿マチェイ。
国の重鎮は粗方集まっていたが、王女シェリの姿が見えず、みんなは不思議そうな顔をした。そんな時、廊下の奥から可憐なかの姫君が姿を現し、リュカ王は固かった顔を綻ばせた。籠を持った彼女は貴族や家族たちの間をすり抜け、曾祖母のベッドの横に陣取ると、エミリアに籠を手渡した。
小さな籠から溢れ出たのは、たくさんのすみれの花。傍らのマチェイが、息を詰まらせたのがわかった。
「一体どうしたんだ、シェリ?」
宮殿の奥深くで大切に育てられー野に咲く花など目にしたことも、興味を持ったことも無いのだろうリュカが本当に不思議そうに聞く。そこにあるのは怒りでも、呆れでもない、ただ純粋な驚き。
シェリは父には微笑んだだけで答えず、真っ直ぐにエミリアを見つめた。
「……以前、すみれの花がお好きだとおっしゃっていたでしょう?」
それは、五年前のこと。
たしか、エミリアと、メアリーと、マリ、リリィ、そしてシェリの5人でお茶会をしていたのだ。そんな時、花の話になって、シェリはエミリアの好きな花の名を聞きたがった。
ーすみれかしらね
たった七文字の、そっけない言葉。取るに足らない、些末な情報。優秀な女性でたった十年といえど立派に王后を務めあげたメアリーでさえも、きっと覚えてはいないだろう。エミリアも、その後メアリーやマリが話していた、流行のドレスの話などは、よく覚えてはいない。
「あれから、裏庭ですみれを見つけて、お誕生日に渡そうと思ったんですけどー」
ウィズリア様に怒られてしまって。そう言って彼女は俯く。リリィがシェリを叱ったのもわからないでもない。ウィズリアの王女として育ったリリィにとって誕生日にすみれの花を渡すなど考えられなかったに違いないし、第一王宮に野花を持ち込むこと自体がありえないことなのだろう。
エミリアがすみれの花を好き、それを知っているのはいったいどれくらいいるのだろう。きっとそれは、マチェイと、この十三になったばかりの、曾孫だけなのではないか。
「……あんなことを覚えていたのね」
エミリアはシェリを抱きしめた。どうしてもっと元気なうちに、この子を抱きしめてやれなかったのだろう。それだけじゃない、ランチェ、アラン、フィリップ。リュカ、アメリー、マリ、レオ。いったい、彼らを抱きしめてやったことがあっただろうか?
メアリーが、リュカが、マリが、目を見開いたのがわかった。彼らは義母が、祖母が、だれかを抱きしめる光景など、見たことがないに違いない。当のエミリアでさえも、この国に来てからはそんなことは覚えていないのだから。嫁に行く前に祖国で弟を抱きしめたのが、きっと最後だった。
国のためと言い訳をして、だれかを愛するのを恐れていた。たったひとつの希望だった姉を喪って、その恐怖は増していった。もう二度と、大切な人を失いたくはなかったから、全てを拒絶した。元々幸せでなければ自分が不幸せかどうかなんてわからないのだから、幸せも拒絶した。ー幸せは、こわいものなんかじゃなかったのに。それは、十分に知っていたはずなのに。立后式に王太子として参列した弟は、すっかり変わってしまった姉の姿に、何を思ったのだろう。驚きでも、呆れでも、侮蔑でもなく、きっとものすごく心配させた。そして、悲しませただろう。
もっともっと、みんなを抱きしめておけば良かった。後悔は募って、失った過去は戻ってきてはくれない、だけど。
この子が気づかせてくれた、だれも愛さず、感情がなく、家族は利用するだけの『氷の后』エミリアはただの幻想だと。祖国でのエミリアは、人一倍甘えん坊で、感情豊かな少女であったのだ。
昔、今とは違う未来を望んだ。けれど、望んだ未来とは違っても、愛し合う道はあったはずなのに。先に逝ったアントワヌも、エミリアを愛そうとしていたのに、それを心のどこかで拒んだ。
最後ぐらい、らしくもない言葉を言ってみようか。リュカたちは、きっと驚くどころではないだろう。
「さよなら、私のかわいいお姫様」
マチェイが、顔を歪めたのがわかった。その頬を涙が伝うのも。ああそうか、エミリアがロマンチストだったことを知っているのは、最早この国では彼だけなのだ。
少し短いですが、切ります!