母との別離
日差しがサンサンと降り注ぎ、王国を照らす。
王国のあらゆる分野の中心地・王都ミンダルの中心に位置する王城の一画、王の后に与えられた離宮、アプレ宮で一人の少女が一心に百合園を眺めている。
ここアプレ宮の主人である王后は隣国ウィズリアの出身。ウィズリア語で『百合』という意味の名を持つ王后のために、国王がアプレ宮に大規模な百合園を作らせたのだ。
アプレ宮で生まれ育った少女にとっても、この百合園はたくさんの思い出が詰まったものだ。両親に囲まれた幸せな日々の。
けれど少女は今、百合園をもの悲しげに見つめていた。
「お母さま……」
少女の呟きは、小鳥のさえずりに消され聞く者はいなかった。
***フィリップ side***
「愛している、リリィ」
「フィリップ……」
王后リリィは頬を染めて王弟・フィリップに凭れた。
「わたくしも、フィリップ……」
王后。異母兄の正妃というだけでない、国民の母たる存在。そんなリリィとの恋愛が許されるはずはないが、フィリップは心の中でほくそ笑んでいた。
-うまくいった。
元より、フィリップはリリィを愛してなどいないのだから。
フィリップの母は祖国ミュエール公国では公女として、母である公妃(フィリップにとっては祖母)の次に貴い女性であった。しかしここ、セリースでは側妃に過ぎなかった。母はそれでも幸せだったのだろう、なぜなら夫を愛していたから。向けられるのは優しさばかりで、心をくれた事が一度もなかったとしても。
母が愛した夫でフィリップの父でもある先王は、僅か十年の統治を経て十年前崩御した。父は王としては有能な人ではなかったが、家族には平等な愛を向けた。
当時王太子で、父の崩御後即位した異母兄にも、三年前隣国クレア公国に嫁した、セリースの社交界に燦然と輝いた『氷の白薔薇』こと異母姉にも、理知的で穏やかな、フィリップが愛する兄にも、最も身分が低い妃が産んだ娘である異母妹にも隔たりなく接した。
夫婦としての関係性まではわからないが、フィリップには一つ思うことがある。父には特別な人なんて誰一人いなかったのではないか。三人の妃の誰一人、父が本当の意味で愛しているようには見えなかった。
だから、母を女性として愛することはなかった父を恨むことはなかった。父は母を女性としては愛していなかっただけ。恋愛感情を抱いていなかっただけなのだ。母のことも、勿論フィリップのことも家族としては愛してくれていたから。
だから余計、祖母の冷たさが恨めしかった。
祖母は王国の大王太后。国王の祖母。先々代王の正妃。王后・王太后も務めた経歴を持ち、若き王に代わり政治の実権を握る女傑。七十越えの高齢にも関わらず、静かだが張りのある声に鋭い眼差し。王よりも王らしい、この国の真の支配者。
そんな祖母は、フィリップにとって『祖母』ではなかった。
優しい言葉を掛けてもらったことも、愛情たっぷりに抱きしめてもらったこともない。
悲しかった。その冷たさが。
認めたくなかった。その悲しみを。
そんな中見かけた、三人の姿。まだ父が健在だった、十年以上前のこと。
祖母と父の正妃、そして幼い異母妹の姿。正妻と血が繋がっていないが、母親を早くに亡くしのもとで育てられた異母妹が正妃に向かって無邪気に笑うのは理解出来る。正妃がまるで我が子に向けるもののような、慈しむような笑みを異母妹に向けたのも。
気にしなかった。何も。
祖母がほんの一瞬と言えど優しく、異母妹に向かって微笑まなければ。
どうして? どうして?フィリップにはあんなに優しい表情、一度だって向けてくれたことはないのに。
彼女が正妃に育てられた、大事なむすめだから? 后腹の王女と変わらない扱いを受けるむすめだから?
思えば、王太子だった異母兄は誰よりも優先されていた。
そう思うと、途端に異母兄が憎く思えた。
前々から、あまり好きではなかった。
后の子として生まれた、ただそれだけでフィリップが持ち得ないものを持っている異母兄が。
きっとあの異母兄にとってら祖母の微笑みなど日常茶飯事なのだろう。
フィリップが想いを寄せた初恋の人も異母兄側の人間だ。輝く銀髪、煌めくサファイア。祖母によく似た、『氷の白薔薇』。まだほんの幼い頃、小さな彼女はフィリップの頭にお手製の花かんむりを載せてくれた。はにかむような笑みが成長と共に姿を隠しても、フィリップは彼女のことが好きだった。
国の頂点に君臨する地位も、あれほど焦がれた初恋の人も、祖母の優しさも簡単に享受できる異母兄が、フィリップは嫌いで嫌いでたまらなかった。彼が后との間に娘をもうけてから、その思いは強まっていった。-彼の抱える懊悩も知らずに。
何かしらで異母兄の鼻を明かしてやりたかった。
そこで、彼がいちばん大事にしている母娘に目をつけたのが五年前。
異母兄は后を本当に大切にしているし、后が産んだ姫のことは目に入れても痛くない程に可愛がっている。
側妃と、側妃の子である第一王子への対応は冷徹なものなのに。
まず后を口説き落とした。二年間かかったが、まあ良い。身体を重ねることにも成功した。
あとは姫だ。誰より敬愛する同母兄が幼い姫の頭を撫でていたことを思い出す。
穏やかで理知的な、世界一の兄。派手ではないものの、整った顔立ち。祖母譲りのアイスグレーの髪。セリース王家の証、アメジストのような瞳。フィリップをいつも守ってくれた、頼もしい背中。一歳しか変わらない兄は、フィリップにとって兄以上の存在だった。
姫は、そんな兄に夢中だ。瞳に映る、明らかな好意。一回り以上年が離れている。幼い少女が歳上の男性に憧れるような感情のようなもの。
それでも、構わない。姫が他の男に目を移すまでに姫と兄の婚約を結ばせてしまえばこっちのものだ。姫は王女、それも后腹の娘。結ばれた婚約を破棄することなどできないはずだ。
兄も姫に、王家に望まれればきっと嫌とは言わない。敬愛する兄の妻に異母兄の娘がなることは少し癪だが、まあ目的の遂行のためには仕方ない。
姫の婚約者候補は大勢いる。宰相の嫡男に王国軍元帥の嫡男、ウィーサ皇帝の孫にオマールやイルソーレの王太子。
けれど姫が恋しているのは紛れもなく兄だ。
宰相の嫡男と元帥の嫡男とは幼馴染で友人関係を結んでいるようだが逆に言えばそれだけだし、皇子や王太子は数度会ったことがあるだけ。 もしこの婚約が成れば、その時は。
異母兄は愛する后をフィリップに、愛する娘を兄に奪とられることになるのだ。
それはきっと愉快なものに違いない。
***
フィリップは王弟だ。婚約者がいないわけはない。
十年前、異母兄の即位を受け十二歳だったフィリップはまだ赤ん坊の公爵令嬢と婚約した。兄に婚約者がいないことを理由にフィリップは辞退しようと思ったが、宰相の孫娘-今はその息子が宰相を務めているため、今では宰相の娘なわけだが-でもある公爵令嬢との結婚は母の強い願いだったから諦めた。
「エディット嬢」
「殿下、ご機嫌麗しゅう」
十三歳になった婚約者であるエディットは優雅に腰を折った。
父親譲りだろう金髪に、母親譲りだろうエメラルドの瞳。未婚女性の中では王女と王妹に次ぐ高い身分。更に言えば母親は王家の血筋で、エディットは国王やフィリップたちの従妹にあたる。王弟たるフィリップに嫁ぐのに、何ら遜色がない。
「エディット嬢こそ、お元気そうで喜ばしいことです。子爵もお久しぶりですね」
「殿下、ご無沙汰しておりました。何時もは弟がエディットの付き添いをしていますもので」
エディットの後ろに立ち、子爵位を持つギヨームはフィリップの二つ下、二十三歳の青年だ。彼は宰相の長男だが、嫡男ではない。彼の母親は第三夫人だからだ。
侯爵以上の家格の貴族は夫人を三人まで持てて(王族は正妃を一人、そして側妃を二人まで持てる。昔は無制限だったそうだが、長い時間をかけて後宮は縮小されたのだ)、宰相も例に漏れず三人の夫人がいる。
一番序列が上の第一夫人ミレイユは宰相の嫡男やエディットの母親。王家出身の貴き血筋だ。
その次の第二夫人セラは出身こそ伯爵家だが、かつて国王異母兄の侍女を務めたエリートで、今は第一王子レオの乳母を務めた後専属侍女となっている。
第三夫人ステファニーはギヨームの母親で辺境伯家の娘だ。彼女は王家の血筋も持っていなければ取り立てて高い業績があるというわけでもないが、母親は先王の乳母を務めた人で、ステファニーは先王の乳兄妹。更に、彼女の兄の妻は三代前の国王の王女だ。彼女は先王の従妹にあたる。第一王子を産んだ側妃の母親でもある。
「今日は公子はいかがなさったのかな?」
「王太后陛下のお茶会にミレイユ様と一緒に参加しています」
「ああ、そういえば今日は陛下が幼齢の令嬢たちを集めてお茶会だそうだね-まあ、レオの婚約者選びだろうから、仕方ないかもしれないけど」
「殿下は六つであらせられますもの」
初めの挨拶以来、ようやく話し出したエディットに安心したのか、ギヨームは微笑んだ。
「でも、私はてっきりレオの婚約者はレベッカ嬢がなるものだと思っていたよ」
「そんな、恐れ多いことですわ」
「またまた。レベッカ嬢はセラの娘だろう? レオとも親しくしていると聞いているよ。陛下のお気持ちは知れないし、お祖母様がどうお考えなのかもわからないけど、少なくとも王太后陛下はレベッカ嬢がレオの妃になってほしいと思ってるんじゃないかな。宰相殿もきっとね」
「レベッカが王子殿下の花嫁に選ばれたのなら、我が家としてはこれ以上の名誉はありませんし、父も喜ぶと思います。ですが、レオ殿下がレベッカと親しくしてくださっているのは、あくまでレベッカが乳兄妹に過ぎないからかと」
「乳兄妹だからって、そこまで親しくなるものかな?」
フィリップには乳兄妹とそこまで親しくした記憶はない。アランは乳母の甥と親しくしているようだが、あの二人にしても乳兄弟というわけではないし……。
「はい、俺の母方の祖母は殿下の父君、先王陛下の乳母を務めさせて頂いていました。母が父と知り合ったのは先王陛下の乳兄妹であるという縁で王城に出入りさせて頂いていた時のことだったらしいですし」
「それに、ステファニー様の兄君は、ご夫人にロザリー様をお迎えになっていますわ。ロザリー様は王家の血筋、先王陛下の従妹にあたる方でございますもの。ステファニー様の母君が先王陛下の乳母をなさっていた縁で嫁がれたのではないでしょうか」
二人に矢継ぎ早に反論されて、フィリップは面白くなかったが、上手にそれを隠した。これぐらいやれなくては、王子として、そして王弟として生きていけない。
「二人の言い分はわかったよ。でも、辺境伯家に王族が嫁ぐことは珍しくはないんじゃないかい? 私の祖父が即位する前のことで、大伯父がまだご存命で王位にあった頃の話だからまだ王女のご身分だったとはいえ」
「ですが殿下、王女が嫁ぐのは他国の王族か、公爵家か侯爵家が殆どですわ」
「私の伯母は伯爵家に嫁いだよ。それも最初は子爵家で、伯母が専属騎士だった子爵と恋に落ちたから祖父が伯爵にしたらしい」
「それは例外というものですわ、殿下。何せ当時社交界を騒がせたという一大ロマンスですもの」
「俺はその時生まれていないからわかりませんが、相当な騒ぎになったそうですよ」
「ああそれは、私も聞き及んでいるよ。何せ祖父は伯母を溺愛していらっしゃったようだから」
「わたくしも聞いたことがありますわ。何でも、即位前にお亡くなりになられたお妃さまに生き写しであったとか」
「王太后陛下の姉君でいらっしゃる方だったんですよね?」
「ああ。瞳の色を除けば、祖母と瓜二つらしいよ。-祖母が祖父の后になれたのは、かの妃に似ていたからかもしれないね」
「まあ、そんなことはありませんわ。大王太后陛下は王の正妃として十分な資質をお持ちですもの。夫君が崩御あそばれた後も、先王陛下、そして現王陛下をお支えになって」
「それに大王太后陛下ご自身、素晴らしい美貌をお持ちです。俺の祖母より高齢なのに、ずっと若々しい。今でも十分お綺麗だと思いますが、若い頃は『月の女神』だと称えられておいでだったとか。きっと陛下もその美貌と公平なご性格に惹かれて后になさったに違いありません」
エディットとギヨームの主張を聞き流して、フィリップは薄く笑った。
フィリップ自身、祖母が姉の身代わりとして祖父に選ばれたなどとは思ってもいなかった。祖父はフィリップが四つの頃に亡くなったから、直接会ったことはない。だが肖像画の中で王の威厳を漂わせる祖父は、哀傷で物事を判断するような人には見えなかった。祖母はその姉が亡くなる前から王城で祖父の側妃として七年も暮らしていたのだ。祖母の資質を見抜くには、十分な時間だっただろう。
それでもフィリップが二人にこんなことを言ったのは、二人がこっち側の人間かどうかを確かめたかったからだ。
どんな者でも、大王太后がその姉の身代わりに選ばれたと言われればそれを否定するだろう。だから、フィリップはそこに籠る熱でどちら側かを判断する。
結果、二人の言葉には明らかな熱が籠っていた。
実は少しだけ、二人に期待していた。
ギヨームは聡い青年だし、エディットは歳に似合わない程に大人びた少女だ。そんな二人がこちら側に来てくれたのなら、もう少し楽になっただろうに。
でも、もうこれきりだ。
祖母側の人間だとわかった以上、二人に用はない。亡き父が決めたものだから、余程のことがなければ婚約を解消することは不可能だけれど、仮面夫婦ぐらいやってみせる。
「それでは……時間になりましたので」
フィリップは二人が深々と頭を下げるのを傍目に、自身の住む離宮へと帰って行った。病弱な母は今日も寝込んでいるのだろうか、お見舞いに行こうかと考えながら。
●シェリ 主人公。第一王女。
●フィリップ 王弟。先王の第三王子。
●リリィ シェリの母親。王后。ウィズリア王の姪。
●エディット 宰相の次女。フィリップの婚約者。
●ギヨーム 宰相の長男。エディットの異母兄。王の側妃の実弟。子爵。
●ミレイユ 宰相の正妻で、エディットや嫡男の母親。先々王の第三王女で末娘。
●セラ 宰相の第二夫人で、レベッカの母親。第一王子レオの乳母。伯爵家の娘。
●ステファニー 宰相の第三夫人で、ギヨームと王の側妃の母。辺境伯家の娘。
●レベッカ 宰相の三女。第一王子レオの乳兄妹で、婚約者筆頭候補。
●ロザリー ステファニーの兄の妻。